昭和24年1月15日読売 四十万が残留 去年は29万人 コメントを残す 昭和24年1月15日 読売新聞 四十万が残留 ソ連から去年は29万人 昭和23年にソ連が送還した日本人捕虜は29万8689人 引揚協定通りなら60万人のはず 昭和24年1月15日 読売新聞 四十万が残留 ソ連から去年は29万人 昭和23年にソ連が送還した日本人捕虜は29万8689人 引揚協定通りなら60万人のはず 昭和24年1月15日 読売新聞 四十万が残留 ソ連から去年は29万人 昭和23年にソ連が送還した日本人捕虜は29万8689人 引揚協定通りなら60万人のはず
昭和23年12月18日読売 流すシベリアのアカ 朝嵐丸・軽患者 コメントを残す 昭和23年12月18日 読売新聞 流すシベリアのアカ 愛の運動に迎えられた最後の引揚 引揚援護「愛の運動」 朝嵐丸・軽患者198名 昭和23年12月18日 読売新聞 流すシベリアのアカ 愛の運動に迎えられた最後の引揚 引揚援護「愛の運動」 朝嵐丸・軽患者198名 昭和23年12月18日 読売新聞 流すシベリアのアカ 愛の運動に迎えられた最後の引揚 引揚援護「愛の運動」 朝嵐丸・軽患者198名 昭和23年12月18日 読売新聞 流すシベリアのアカ 愛の運動に迎えられた最後の引揚 引揚援護「愛の運動」 朝嵐丸・軽患者198名 昭和23年12月18日 読売新聞 流すシベリアのアカ 愛の運動に迎えられた最後の引揚 引揚援護「愛の運動」 朝嵐丸・軽患者198名
昭和23年12月9日読売 四日以降入船なし 引揚中止 シベリア抑留 コメントを残す 昭和23年12月9日 読売新聞 四日以降入船なし ソ連引揚中止? シベリアになお33万余 四たび厳寒のシベリアに残留 昭和23年12月9日 読売新聞 四日以降入船なし ソ連引揚中止? シベリアになお33万余 四たび厳寒のシベリアに残留 昭和23年12月9日 読売新聞 四日以降入船なし ソ連引揚中止? シベリアになお33万余 四たび厳寒のシベリアに残留 昭和23年12月9日 読売新聞 四日以降入船なし ソ連引揚中止? シベリアになお33万余 四たび厳寒のシベリアに残留 昭和23年12月9日 読売新聞 四日以降入船なし ソ連引揚中止? シベリアになお33万余 四たび厳寒のシベリアに残留 昭和23年12月9日 読売新聞 四日以降入船なし ソ連引揚中止? シベリアになお33万余 四たび厳寒のシベリアに残留 昭和23年12月9日 読売新聞 四日以降入船なし ソ連引揚中止? シベリアになお33万余 四たび厳寒のシベリアに残留
昭和23年11月14日読売 四たび厳寒迎う45万人 シベリア抑留 コメントを残す 昭和23年11月14日 読売新聞 四たび厳寒迎う45万人 シベリアすでに零下十四度 死亡率2割から1割に シベリア34万8000人、樺太・千島9万7000人 収容所数 極東地方342カ所 中部シベリア・バイカル地方172カ所 シベリア西部・欧露92カ所 昭和23年11月14日 読売新聞 四たび厳寒迎う45万人 シベリアすでに零下十四度 死亡率2割から1割に シベリア34万8000人、樺太・千島9万7000人 収容所数 極東地方342カ所 中部シベリア・バイカル地方172カ所 シベリア西部・欧露92カ所 昭和23年11月14日 読売新聞 四たび厳寒迎う45万人 シベリアすでに零下十四度 死亡率2割から1割に シベリア34万8000人、樺太・千島9万7000人 収容所数 極東地方342カ所 中部シベリア・バイカル地方172カ所 シベリア西部・欧露92カ所 昭和23年11月14日 読売新聞 四たび厳寒迎う45万人 シベリアすでに零下十四度 死亡率2割から1割に シベリア34万8000人、樺太・千島9万7000人 収容所数 極東地方342カ所 中部シベリア・バイカル地方172カ所 シベリア西部・欧露92カ所 昭和23年11月14日 読売新聞 四たび厳寒迎う45万人 シベリアすでに零下十四度 死亡率2割から1割に シベリア34万8000人、樺太・千島9万7000人 収容所数 極東地方342カ所 中部シベリア・バイカル地方172カ所 シベリア西部・欧露92カ所 昭和23年11月14日 読売新聞 四たび厳寒迎う45万人 シベリアすでに零下十四度 死亡率2割から1割に シベリア34万8000人、樺太・千島9万7000人 収容所数 極東地方342カ所 中部シベリア・バイカル地方172カ所 シベリア西部・欧露92カ所 昭和23年11月14日 読売新聞 四たび厳寒迎う45万人 シベリアすでに零下十四度 死亡率2割から1割に シベリア34万8000人、樺太・千島9万7000人 収容所数 極東地方342カ所 中部シベリア・バイカル地方172カ所 シベリア西部・欧露92カ所 昭和23年11月14日 読売新聞 四たび厳寒迎う45万人 シベリアすでに零下十四度 死亡率2割から1割に シベリア34万8000人、樺太・千島9万7000人 収容所数 極東地方342カ所 中部シベリア・バイカル地方172カ所 シベリア西部・欧露92カ所 昭和23年11月14日 読売新聞 四たび厳寒迎う45万人 シベリアすでに零下十四度 死亡率2割から1割に シベリア34万8000人、樺太・千島9万7000人 収容所数 極東地方342カ所 中部シベリア・バイカル地方172カ所 シベリア西部・欧露92カ所
昭和23年11月9日読売 今月は26500名 引揚者追加 シベリア抑留 コメントを残す 昭和23年11月9日 読売新聞 今月は26500名 ソ連 引揚者の追加通告 引揚予定数1万4000名に追加1万2500名 引揚協定50000名に23500名足りない 昭和23年11月9日 読売新聞 今月は26500名 ソ連 引揚者の追加通告 引揚予定数1万4000名に追加1万2500名 引揚協定50000名に23500名足りない 昭和23年11月9日 読売新聞 今月は26500名 ソ連 引揚者の追加通告 引揚予定数1万4000名に追加1万2500名 引揚協定50000名に23500名足りない
昭和23年5月5日読売 ソ連引揚 第一船函館入港 山の開墾地 コメントを残す 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」 昭和23年5月5日 読売新聞 ソ連引揚 第一船きょう函館入港 夫を迎う愛の巣 二年の辛苦漸く実る山の開墾地 茨城県新治郡小幡村字上人入「筑東開拓團」
昭和30年5月26日読売 オランダ戦犯十名が仮出所 巣鴨プリズン コメントを残す 昭和30年5月26日 読売新聞 オランダ戦犯十名が仮出所 ロイヒリン駐日オランダ大使 外務省・門脇次官 巣鴨プリズン 藤田浩 伊藤甚四郎 馬籠秀夫 斎藤信夫 渡辺正司 矢口宰九郎 横山袈裟美 笠井平十郎 伊泉東鉱 金林昌禧
昭和30年5月9日読売 いずみ 元憲兵有志の集い 角田忠七郎 コメントを残す 昭和30年5月9日 読売新聞 いずみ 元憲兵 発起人・角田忠七郎・元憲兵大佐 日本憲友会 昭和30年5月9日 読売新聞 いずみ 元憲兵 発起人・角田忠七郎・元憲兵大佐 日本憲友会 昭和30年5月9日 読売新聞 いずみ 元憲兵 発起人・角田忠七郎・元憲兵大佐 日本憲友会
昭和30年4月18日読売夕 比島戦線、私は逃げぬ 富永元中将 コメントを残す 昭和30年4月18日 読売新聞夕刊 比島戦線、私は逃げぬ 富永元中将、本社へ手記 富永恭次 フィリピン敗戦の責任 沿海州ウォロシロフ タイセット(タイシェト) 昭和30年4月18日 読売新聞夕刊 比島戦線、私は逃げぬ 富永元中将、本社へ手記 富永恭次 フィリピン敗戦の責任 沿海州ウォロシロフ タイセット(タイシェト) 昭和30年4月18日 読売新聞夕刊 比島戦線、私は逃げぬ 富永元中将、本社へ手記 富永恭次 フィリピン敗戦の責任 沿海州ウォロシロフ タイセット(タイシェト) 昭和30年4月18日 読売新聞夕刊 比島戦線、私は逃げぬ 富永元中将、本社へ手記 富永恭次 フィリピン敗戦の責任 沿海州ウォロシロフ タイセット(タイシェト) 昭和30年4月18日 読売新聞夕刊 比島戦線、私は逃げぬ 富永元中将、本社へ手記 富永恭次 フィリピン敗戦の責任 沿海州ウォロシロフ タイセット(タイシェト) 昭和30年4月18日 読売新聞夕刊 比島戦線、私は逃げぬ 富永元中将、本社へ手記 富永恭次 フィリピン敗戦の責任 沿海州ウォロシロフ タイセット(タイシェト) 昭和30年4月18日 読売新聞夕刊 比島戦線、私は逃げぬ 富永元中将、本社へ手記 富永恭次 フィリピン敗戦の責任 沿海州ウォロシロフ タイセット(タイシェト)
昭和30年4月21日読売夕 旧友に挙手の礼 富永元中将 コメントを残す 昭和30年4月21日 読売新聞夕刊 ソ連引揚関東など25人帰る 旧友に挙手の礼 富永元中将 二重橋で〝帰国報告〟 富永恭次・元中将 中野英光・元中将 藤田了俊 皇居 最敬礼 昭和30年4月21日 読売新聞夕刊 ソ連引揚関東など25人帰る 旧友に挙手の礼 富永元中将 二重橋で〝帰国報告〟 富永恭次・元中将 中野英光・元中将 藤田了俊 皇居 最敬礼 昭和30年4月21日 読売新聞夕刊 ソ連引揚関東など25人帰る 旧友に挙手の礼 富永元中将 二重橋で〝帰国報告〟 富永恭次・元中将 中野英光・元中将 藤田了俊 皇居 最敬礼 昭和30年4月21日 読売新聞夕刊 ソ連引揚関東など25人帰る 旧友に挙手の礼 富永元中将 二重橋で〝帰国報告〟 富永恭次・元中将 中野英光・元中将 藤田了俊 皇居 最敬礼 昭和30年4月21日 読売新聞夕刊 ソ連引揚関東など25人帰る 旧友に挙手の礼 富永元中将 二重橋で〝帰国報告〟 富永恭次・元中将 中野英光・元中将 藤田了俊 皇居 最敬礼