日別アーカイブ: 2020年7月26日

黒幕・政商たち p.196-197 C氏が東棉から五百万円取った

黒幕・政商たち p.196-197 後に判明したところによると、出先記者と二十万円を山分けしたのち、B氏は自身で出かけていって、さらに東棉総務部長から五十万円をもらってきた。
黒幕・政商たち p.196-197 後に判明したところによると、出先記者と二十万円を山分けしたのち、B氏は自身で出かけていって、さらに東棉総務部長から五十万円をもらってきた。

記者が席にもどってみると、東棉側の相手はいなくなって、テーブルには二十万円の封筒が置き去りにされていた。

若い出先記者は、やむなくその現金を持って帰社すると、B氏は半分の十万円を、「取っておき給え」と、ポンとくれたという。だが、もちろん、話はそれで終らない。

編集の実力者であるB氏は、平記者で入ってから十余年の社歴があり、肩書こそ局次長だが取締役でもあり、広告、販売にも実績のある勢力家だった。後に判明したところによると、出先記者と二十万円を山分けしたのち、B氏は自身で出かけていって、さらに東棉総務部長から五十万円をもらってきた。

この事実を知った同紙の専務のC氏は、自分をおびやかす勢力をもつ、B氏を斬るチャンスとみたらしい。C氏は直ちに東棉にかけつけ、五十万円を出した総務部長とB記者とを同席させ、合計七十万円の話を対決させた。その結果、事実と判ってC専務はB記者に命じ、即座に五十万円を東棉に返却させ、翌日には、二十万円も返させた上、B氏の責任を追及して、ツメ腹を切らせたのであった。

無念やる方ないのがB氏である。いうなれば、〝恐喝呼ばわり〟されて、七十万円(部下にやった十万円分も負担)を吐き出させられた上、相手の前で面詰されて恥をかかされ、揚句の果ては、それを理由のクビである。編集を握っていたのだから自派系の記者を動員して、C専務を逆捜査した結果、C氏が今度は、東棉から五百万円を取ったという、〝噂〟を握ったから大変。肩書がなくなって一介の浪人とはなったが、そもそも、東棉の〝痛いハラ〟の材料を握

っているB氏である。香川社長に面談して、C氏の書いた五百万円の受取りの写しを要求する段取りとなった。

再び共産党代議士の登場

筆者の調査によれば、B氏のもとには、〝噂〟を伝え聞いた総会屋が数名、「共同作戦で東棉をシボろう」と申しこんできているといわれ、また、同社内の情報では、C専務の受取った金は、合計一千万円とまでいわれている。

朝日記事の続報は、週刊誌では、六月五日付の新潮が「経済」の一頁もので、朝日記事をなぞった程度。文中の談話から判断すると、告訴人の佐々木氏には会ってないようで、防衛庁政務次官で、〝某高官〟に擬せられている、自民党井原岸高代議士、被告訴人の東洋殖産岡林氏と、東棉豊田不動産部長らの話をまとめ、談話には登場しないが、告訴状については、質問者の志賀義雄代議士について取材しているようである。

週刊誌では「新潮」だけで、小新聞が前述の通りの、「マスコミ」と日刊観光。この二つの小新聞の記事を見くらべると、「マスコミ」が、「東棉」を見出しに一字も加えず、「井原代議士が介在か」、「政務次官室で取引」、「オマケに工作費も追加」、「政治への不信に拍車」と続いて、「原告は前科八犯」に終っているのが面白い。日刊観光の「東棉」ばかりの見出しと

極めて対照的で、「原告は前科八犯」に対応して、最後に「東棉側は逆にフンガイ」の見出しで終っており、第一弾の記事のうちから、「東綿」が姿を消している。週刊紙「マスコミ」と対比してみると、興味深い。

黒幕・政商たち p.198-199 志賀氏の真意も疑惑を衝くに

黒幕・政商たち p.198-199 初期には、〝進んで会って材料を出した〟志賀氏が、〝私も手を引く〟と電話し、会うのを避けている。志賀氏の「獄中十八年」の節操を信ずればこそ、〝奇怪な行動〟といわざるを得ない
黒幕・政商たち p.198-199 初期には、〝進んで会って材料を出した〟志賀氏が、〝私も手を引く〟と電話し、会うのを避けている。志賀氏の「獄中十八年」の節操を信ずればこそ、〝奇怪な行動〟といわざるを得ない

週刊誌では「新潮」だけで、小新聞が前述の通りの、「マスコミ」と日刊観光。この二つの小新聞の記事を見くらべると、「マスコミ」が、「東棉」を見出しに一字も加えず、「井原代議士が介在か」、「政務次官室で取引」、「オマケに工作費も追加」、「政治への不信に拍車」と続いて、「原告は前科八犯」に終っているのが面白い。日刊観光の「東棉」ばかりの見出しと

極めて対照的で、「原告は前科八犯」に対応して、最後に「東棉側は逆にフンガイ」の見出しで終っており、第一弾の記事のうちから、「東綿」が姿を消している。週刊紙「マスコミ」と対比してみると、興味深い。

さて、このような告訴事件取材のイロハからいうと、まず告訴人、被告訴人、当局筋の見解という順序であるが、佐々木氏が旅行していてつかまらない。ある週刊誌記者にきくと、「志賀代議士がよろこんで教えるよ」といい、ある月刊誌編集長は「志賀さんは共産党を離れて無所属になったから、選挙対策もあるらしく、よろこんで会いますよ」と、教えてくれた。だが、八月三十日以来、四谷の志賀事務所と、議員会館とを追いかけつづけたが「多忙」を理由にあえないでいる。面会の目的は「広布産業事件のその後について、お話を伺いたい」と、秘書に通じてあるにもかかわらず、だ。

週刊「サンケイ」四十年九月十三日号に、「志賀義雄に招待された大阪名士三〇〇名の思惑」という記事がある。八月二十七日夜、選挙区の大阪はコクサイホテルで「日本のこえ関西総局創立記念祝賀パーティー」を開き、一枚三千円でパーティー券を、関西の名士たちに売り歩いたが、一枚を義理で買ってくれた名士たちは姿を見せなかった、という。そして、帰京したところだから、「多忙」もうなずけよう。

発端が衆院法務委の志賀質問なので、答弁に立った法務省津田刑事局長にたずねると、国会

末期の委員会で、志賀委員から「広布産業が告訴を取下げたと聞いたが、取下げの理由は何かとの質問があったので調べて返事する」と答えただけで、法務委の志賀質問も、シリキレトンボに終っているという。

ところが、日刊観光を追われたB氏は、「私のところに、志賀代議士から、私も手を引くという電話があった」という。これも〝奇怪〟なことではないか。初期には、〝進んで会って材料を出した〟志賀氏が、〝私も手を引く〟と電話し、筆者には会うのを避けようとしている印象を与えているのである。志賀氏の「獄中十八年」の節操を信ずればこそ、〝奇怪な行動〟といわざるを得ない。

告訴人佐々木氏は、ようやく締切り直前に連絡がとれて「旅行中だった。告訴は取下げた。和解の条件など、詳しいことは話すが、日を改めて」という。

佐々木氏によれば、当時の井原政務次官は、同氏の眼の前で田中角栄蔵相に電話して、防衛庁の問題の土地買上げの予算措置をしばしば接衝し、井原氏、田中氏らへの政治献金各五百万円を示唆し、それを受取ったという。志賀氏の国会質問の真意もまた、それらの疑惑を衝くにあったはずであろう。しかし〝私も手を引いた〟とは不可解であって、衆院決算委における爆弾質問は、では何のための質問であったのか。

佐藤首相秘書のD氏が、このほどさる右翼評論家を介して、クビ切られたB氏に会見を申し こんできている事実もある。「東棉」の〝痛いハラ〟をめぐる情勢は、告訴取下げによって地検特捜部の手を離れた形にはなった。

黒幕・政商たち p.200-201 470万円の不渡りを出して倒産

黒幕・政商たち p.200-201 「中央観光」事件とは、増田甲子七、川島正次郎、進藤一馬各代議士らが関係、中小企業者から五億近い金を集め、長銀、東海銀からも二億五千万円の融資をうけていた事件
黒幕・政商たち p.200-201 「中央観光」事件とは、増田甲子七、川島正次郎、進藤一馬各代議士らが関係、中小企業者から五億近い金を集め、長銀、東海銀からも二億五千万円の融資をうけていた事件

佐藤首相秘書のD氏が、このほどさる右翼評論家を介して、クビ切られたB氏に会見を申し

こんできている事実もある。「東棉」の〝痛いハラ〟をめぐる情勢は、告訴取下げによって地検特捜部の手を離れた形にはなった。

大会社でも、問題は何か分らぬが、一小新聞の現場記者に、二十万円を包む問題があるのだから、小会社となればなおさらのことである。ことに、政治家が出入りしている会社というのは、さらになおさらである。

中央観光事件の波紋

さる四十二年八月九日の参院決算委は、「逓信運輸協会」なる郵政省監督団体についての実態究明を行なったが、質問に立った社会党大森創造委員の狙いは、逓信運輸協会問題は佐藤首相の名前があるので、それらを究明するとともに増田甲子七防衛庁長官の融資あっせんをただして政界につながる「中央観光」事件をほり下げることにある模様である。

「中央観光」事件とは、さる六月二十三日に、四百七十万円の不渡りを出して倒産した「日本福利厚生センター・中央観光」という社名の株式会社で、倒産当時「中小企業をレジャーで釣る、会員一万八千、四億余円集め倒産」と報道されたが、実は単なる〝レジャーで釣っ〟たのではなく、増田甲子七、川島正次郎、進藤一馬各代議士らが関係、中小企業者から五億近い

金を集めたばかりか、日本長期信用銀行、東海銀行などからも二億五千万円の融資をうけるなどして、捜査当局に内偵されていた事件である。

同事件には、さらに関係者として都知事選ニセ証紙事件の根本米太郎(川島議員元秘書)、田中彰治事件のキッカケとなった、吹原・森脇・大橋事件の大橋富重(同上事件で保釈出所中)両氏らの〝スター〟がおり、大森議員の追及如何によっては、ふたたび、財界をめぐる疑獄事件に発展する可能性があり、次回決算委の日程を決める十四日の理事会と警視庁の捜査の成り行きが注目された。

大森議員が取りあげた「逓信運輸協会」問題というのは、調査に当った栗田勝広議員秘書(「共和製糖事件」の著者、俗に〝大森特捜班〟といわれる調査活動の中心人物)ら関係者の話を総合すると、次のような事情にあった。

同協会は郵政省の外郭団体として、昭和二十五年に設立、理事には佐藤栄作氏、迫水久常、荒木万寿夫氏ら自民党の有力者や藤井丙午、早川真平氏ら財界の知名人たちがズラリと名前を連らねている。

当初は補助金も貰って多少の活動はしていたらしいが、最近では全くの休眠団体。これに眼をつけたのが政界に縁の深い月刊J誌のHという人物で、同協会の飯島事務局長と語らって、中央観光の小島社長のところへ話を持ちこんで来た。小島社長は、手詰りの事業を、この協会

を利用して拡大しようという目論見をした。

黒幕・政商たち p.202-203 逓信運輸協会の理事長

黒幕・政商たち p.202-203 架空の理事会が開かれ迫水久常理事が議長として、小島徳司氏を理事長に選任するという奇怪な事実もあったのち小島氏は三百万円を払った
黒幕・政商たち p.202-203 架空の理事会が開かれ迫水久常理事が議長として、小島徳司氏を理事長に選任するという奇怪な事実もあったのち小島氏は三百万円を払った

当初は補助金も貰って多少の活動はしていたらしいが、最近では全くの休眠団体。これに眼をつけたのが政界に縁の深い月刊J誌のHという人物で、同協会の飯島事務局長と語らって、中央観光の小島社長のところへ話を持ちこんで来た。小島社長は、手詰りの事業を、この協会

を利用して拡大しようという目論見をした。

そのため架空の理事会が開かれ迫水久常理事が議長として、小島徳司氏を理事長に選任するというはなはだ奇怪な事実もあったのち小島氏は斡旋料と整理用資金三百万円(これも手形で結局不渡りにした)を払って、理事長の椅子に納まった。しかし、この人事で各理事の承諾書に使ったのが実は偽造印だったため、この乗っ取りはついに成功しなかった。

しかし、この協会の理事長という肩書が小島氏の本業である「中央観光」の会員加入に大きな効果をあげていたようである。

「中央観光」本社ビルは赤坂見付から青山通りを三宅坂方向に約二百メートル、七階建ての威容を誇っている。資本金二千四百万円。事業は、厚生施設に恵まれない中小企業を対象に、会員制でレジャー施設をつくる、というもの。

会員会社数は、中央観光側では約七百社(加入会員数一万人)ということになっているが、栗田氏の調査では二千五百社(六万人以上)。中央観光元社員千田氏によると、「少くとも二千三百社はある。この会員名簿は社内でも極秘扱いにされており、二~三冊くらいしかないのではないか。小島社長以外に知っているのは一人か二人だろう」と、すこぶる異状な隠蔽ぶりを語っている。金融筋もツカんでいないだけに、この会員預り金は推定するほかないが、約四億五千万円とみられている。

数億の現ナマを呑む男

設立は三十七年十一月。初代社長には進藤一馬氏(自民党代議士=福岡一区)をカツいで、小島氏は常務であった。三十八年、中央観光がようやく確保した箱根の建設用地が、資金面の手詰りで担保流れになろうとした時、進藤一馬氏は人を介して京成電鉄に融資を依頼したことがある。京成電鉄は直接融資を見合わせ、子会社京成開発を通し、さらに大橋富重氏(興和建設社長)を介して、四千五百万円を融資した。

この土地は、中央観光から一時的に大橋氏の名儀に変り、大橋氏はこの土地を担保に平和生命から三億円を借り出した、といわれる。

第一事業所の箱根ドリームセンター(神奈川県箱根町強羅)は、このような曲折ののち三十九年に一応完成。四十年一月の発足レセプションには、川島正次郎自民党副総裁が挨拶し、「政府のやる仕事を代ってやっている事業で、大変意義深い。房総の第二事業所の建設は、地元のことでもあり全面的に協力する」と約束する一コマもあって、会員の信頼を巧みに得ていた。

好調に気を良くした中央観光では、四十年二月から「南房シーサイドセンター」建設計画(千葉県勝浦)なるものを大々的に宣伝、中小企業から約八千万円を集めたが、用地を買った だけで計画はズルズルと延び、着手時に倒産となった。

黒幕・政商たち p.204-205 最初から金の無かった中央観光

黒幕・政商たち p.204-205 川越会長の依頼で石原登氏ら二人が仲介して、増田甲子七氏が、東海銀行からの融資を斡旋した。この前後に一千万円が政治献金として小島社長からひそかに送られた
黒幕・政商たち p.204-205 川越会長の依頼で石原登氏ら二人が仲介して、増田甲子七氏が、東海銀行からの融資を斡旋した。この前後に一千万円が政治献金として小島社長からひそかに送られた

好調に気を良くした中央観光では、四十年二月から「南房シーサイドセンター」建設計画(千葉県勝浦)なるものを大々的に宣伝、中小企業から約八千万円を集めたが、用地を買った

だけで計画はズルズルと延び、着手時に倒産となった。

最初から金の無かった中央観光は、四十年には川越文雄氏(元大蔵次官、元平和相互銀行会長)を会長にいただき、川島正次郎氏の元秘書、ニセ証紙事件で名を馳せた根本光太郎氏を取締役に迎え、政界への働きかけに、一そう精を出した。

ここで東海銀行の不当融資問題が現われる。最初から金繰りに四苦八苦している不良会社に、四十年八月、アッサリと一億五千万円貸付けたのである。さらに同年十二月に五千万円、翌四十一年春に五千万円、計二億五千万円が融資されている。

それまで融資していた興産信用金庫や、平和相互のいわば不良貸付け分を、東海銀行という一流の都市銀行が、ほとんど肩代りするという、これまた不思議な取引きが行なわれた。

この間の事情は、川越会長の依頼で石原登氏(元自民党代議士)ら二人が仲介して、増田甲子七氏(防衛庁長官)が、東海銀行からの融資を斡旋した、という。さらにこの前後に一千万円が政治献金として小島社長からひそかに送られた、といわれている。

長期信用銀行もそうだが、この当時の恐らくはかなりの業態不振をバクロしていたハズの中央観光に、こうした巨額の融資が行なわれた、ということは、まことに不可解な話といわねばならない。

倒産時の負債について、中央観光側は会員からの預り金二億円、借入金三億円、計五億円だ

けというが、私の調査による実情は大体次の通りだ。

〈借入金〉東海銀行 二億三千七百万円、長期信用銀行 二千万円、三信商事 七千万円、清水建設 四千八百万円、
〈会員からの預り金〉(推定)四億五千万円
〈その他負債〉融通手形など未払手形約一億三千万円
総計=九億五千五百万円

政治家と結んだ虚業家

この、融通手形は、小島社長ら一部の幹部が、東京や京都の金融業者に乱発して、実体は不明ながら二億五~六千万円以上はあるのではないか、とみる向きもある。

東海銀行の融資は、「箱根ドリームセンターの建設に融資したので、運転資金に関してはみないという条件」(東海銀行三好貸付二課長)だったというが、倒産の間接責任を、ていよくかわした感がないでもない。

長期信用銀行が、中央観光に融資したのは四十一年。麹町税務署が同社箱根事業所を税金の未納で滞納処分にしようとした時、急拠貸しつけられたものという。東海銀行の融資態度と共に、疑惑がもたれるのも当然である。