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編集長ひとり語り第1回 売買勲、いまだ死なず!

編集長ひとり語り第1回 売買勲、いまだ死なず! 平成11年(1999)3月18日
編集長ひとり語り第1回 売買勲、いまだ死なず! 平成11年(1999)3月18日

■□■ 売買勳、いまだ死なず! ■□■第1回■□■  平成11年(1999)3月18日

中村正三郎法務大臣がようやく辞表を出して、この人物の正体があまねく全国民の知るところとなった。だが、どうしてこのような人物を法相に据えたのか小渕首相の人事を疑わざるを得ない。法相は首相に次ぐ序列2位の要職である。

むかし田中角栄首相の時、小宮山重四郎という郵政大臣が生まれた。彼は平和相互銀行のボス、小宮山栄吉の弟である。当時「角さんに五億円献金して大臣になった」と噂された。平和相銀はやがてツブれ、住友銀行に吸収されたが、当時の総務部長(故人)が、私に「あの五億円は銀行の金を持ち出したものだ」と語ったのをメモしていた。

やがて平和相銀の「金屏風事件」というのが表面化し、竹下首相の青木秘書が地検特捜部の追及に出頭予定日前夜に自殺して果てた。このときの不明分のうち30億円は竹下から中曽根首相の禅譲代として献金されたといわれている。郵政大臣が5億円なら、総理大臣なら30億円というのはうなずける金額である。

さて、あのようにオソマツな法務大臣が出現してみると中村正三郎が大金持ちなだけに派閥会長の三塚博と小渕首相の双方に、億単位の献金があったのではないかと邪推したくなる。中村スキャンダルが内部告発としか思えないものばかりだから法務官僚たちがサシたとも考えられるが、そのような人物を金持ちだからといって法相に据えるほうが怪しい。

自民党もいつまでもこんなことを繰り返していてはどうしようもない。第一この時代に、いまだに「大臣」とはナンだ? 国民の公僕である政府の長が、“大臣”とは時代錯誤もはなはだしい。行政改革で省名を変える機会に、大臣の呼称も廃止すべきだ。そうでなければ、“大臣病患者”が金で買いたがるばかりではないか!  平成11年(1999)3月18日

編集長ひとり語り第2回 老醜をさらしつづける竹下登元首相

編集長ひとり語り第2回 老醜をさらしつづける竹下登元首相 平成11年(1999)3月20日 画像は三田和夫69歳(1990.06.12)
編集長ひとり語り第2回 老醜をさらしつづける竹下登元首相 平成11年(1999)3月20日 画像は三田和夫69歳(1990.06.12)

■□■老醜をさらしつづける竹下登元首相■□■第2回■□■ 平成11年(1999)3月20日

3月18日付の産経新聞夕刊は「北京発・古森義久」という特報を大きく掲載した。これまでの日本の中国に対するODAの総計は三兆円近い額だというのに、中国の新聞は今まで「援助」という表現を使わず、しかも報道することもなかった。が、日本政府がこの資金を使う地方機関などにアピール文を送ったことから報道され始めた。しかし人民日報は「合作」だと言う。

この記事は古森記者らしい、しかも産経紙らしい大特報として私は感じ入った。というのは、日本のODAは日本の政治家たちの“食いモノ”だったからである。例えばその元凶は利権漁りの竹下登である。もう2、3年前だったか、ODAで北京に大きな青年宮かナニかを建てたが(竹下が北京を訪問して締結した)、その建設請負は、日本の竹中工務店だった。竹下のバツイチ娘が、竹中のバツイチ息子に嫁いでいる関係だ。竹下がバックマージンを取ったことは、容易に想像される。「李下に冠を正さず」に反して…。

中国は全人代を終えたばかり。数年前からの反腐敗闘争についても、朱首相が厳しく発言している。つまり、この闘争の成果が出てきて、竹下からのプレゼントを受けていた中国側の要人の“担白”があったので、ODAが「合作」から「援助」に変わったのではないか、と私は推理する。と同時に、日本官僚の日本政治家への“反乱”が、中国側受益者への直接アピールとなった、と思う。なぜならこのような措置が遅すぎたからである。

首相経験者が依然として現役議員でいる制度自体がオカシイ。三権の長だった者は、それこそ“元老院”のような待遇を考えるべき時に来ている。そうでなければ21世紀には、日本は三等国に堕ちるであろう。

編集長ひとり語り第3回 「箸の文化」が衰えはじめて…

編集長ひとり語り第3回 「箸の文化」が衰えはじめて… 平成11年(1999)3月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 銀座か赤坂か不明)
編集長ひとり語り第3回 「箸の文化」が衰えはじめて… 平成11年(1999)3月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 銀座か赤坂か不明)

■□■「箸の文化」が衰えはじめて… ■□■第3回■□■ 平成11年(1999)3月27日

中国、朝鮮、日本をつないでいた「箸の文化」がアメリカ外食産業の進出で(ハンバーガー等)で、衰えはじめている。適量の食物を箸でつまんで口へと運ぶ——これは、いろんな効果をもたらしていたものだ。第一に礼儀であろう。最近のテレビCMで、お茶漬け屋で下品な男がドンブリ飯を掻きこむ下品さが、それを象徴している。CMでは箸は使っているが、スプーンで十分だ。

第二に咀嚼、即健康である。日本での戦後五十年。学校給食がスプーンを普及させたところで、ハンバーガーに食らいつきフライドチキンを放りこむ。だから、日本には、オチョボ口の女がいなくなった。噛まないから、アゴが小さくなり、乱杭歯ばかりになった。中国での美人の条件は「明眸皓歯」だが、そんな女は日本では数えるほどになり、同じ化粧の、同じ髪形の、同じ顔の女ばかりが街を横行している。もう、オチョボ口の女は、中国か韓国にしかいない。日本は乱杭歯の大口女ばかりのようだ。

先ごろ、新聞のコラムに、日本での洋食のマナーで、フォークの背(丸くなってる部分)に米飯を乗せて食べるのはオカシイとあったが、明治、大正期に、箸の文化に心を使う人たちが、少量しか米飯をのせられない、あのスタイルを“洋食のマナー”としたのだろう。ライスを添えるのは日本だけだから…。

白人女の口はバカでかい。だから、クリントンのオーラルセックスも可能だ。日本の春画には、そんな図柄を見たことがない。オチョボ口の時代だったからだ。上海でのアメリカ外食産業の繁盛を見ると、やがて中国でも「箸の文化」が衰えるかも…。韓国では若い世代は箸も使えない、と新聞にあった。 平成11年(1999)3月27日

編集長ひとり語り第4回 小沢自由党の“馬脚事件”のこと

編集長ひとり語り第4回 小沢自由党の“馬脚事件”のこと 平成11年(1999)4月3日 画像は三田和夫62歳(1983年)
編集長ひとり語り第4回 小沢自由党の“馬脚事件”のこと 平成11年(1999)4月3日 画像は三田和夫62歳(1983年)

■□■小沢自由党の“馬脚事件”のこと■□■第4回■□■ 平成11年(1999)4月3日

東(あずま)祥三。47歳。比例代表東京ブロック当選の自由党衆議院議員。当選3回。創価大学院卒で国連職員だった人物。顔貌(がんぼう)もマトモだし、その年齢からも、将来を嘱望できる議員だと思っていた…。その彼が、先ごろ記者会見をして、「東京15区の柿沢辞職の後の補選出馬はやめた」といった。ところがその記者会見には、中西啓介議員が同席しているではないか。なぜなのだ?

東議員は公明党から出馬して、中選挙区制度最後の前回(平5.7.18)は東京6区で柿沢、不破につぎ第3位で、2回目の当選。小選挙区になれば、柿沢絶対優位なので、不破と同じく比例に回ったのだろう。同席していた中西議員は、自民党時代からスキャンダルまみれの古いタイプの議員。前回中選挙区では、和歌山1区で9万余票のトップ。小選挙区でも同区で6万6千のトップ当選である。しかし、前回当選後、電通社員だった息子の麻薬事件で辞職(平7.5.12)して、1年半後返り咲いた。私の個人的見解では、小沢一郎を評価できないのは、このような側近を登用しているからである。

4月1日の日テレ「ザ・ワイド」は、浅香光代が野村沙知代への“果たし状”宣言をとりあげていた。その時、加藤タキがいった。「あの人が立候補したこと。政治をなんと考えているのか、許せません」と。まさに名言である。東議員の辞職は、野村の繰り上げ当選を意味する。幸いにもそれは消えたが、東議員にはその認識があっての、15区転出だったのだろうか? 繰り上げでも、野村は経歴詐称などで辞職に追い込まれよう。ただ、仮に一時期でも野村が衆議院議員になったら、もう世紀末と笑ってはいられない。議員の私利私欲がムキ出しになり、公明党も、自由党も、ともに信用できないことを示した“事件”であった。 平成11年(1999)4月3日

編集長ひとり語り第5回 検察NO.2の失脚

編集長ひとり語り第5回 検察NO.2の失脚 平成11年(1999)4月10日 画像は三田和夫40代(正論新聞初期のころ)
編集長ひとり語り第5回 検察NO.2の失脚 平成11年(1999)4月10日 画像は三田和夫40代(正論新聞初期のころ)

■□■検察NO.2の失脚■□■第5回■□■ 平成11年(1999)4月10日

月刊「噂の眞相」誌の報じた、則定衛(のりさだまもる)・東京高検検事長の女性スキャンダルは、5年前の事件にもかかわらず、各方面に大きな衝撃を与えて、本人の辞意表明にまでいたった。(10日現在)

私はこのニュースに、読売の司法記者時代に直面した、検察の派閥対立と抗争を昨日のことのように思い出した。この事は書き出せばキリがないので、ある検察首脳のひとりを紹介したい。

東京高検次席、京都検事正、大阪検事長、最高裁判事、同長官を経て、さきごろ亡くなった岡原昌男氏。

さきの派閥対立は、一般には戦前の特高検察の流れの公安検察と、戦後の経済混乱で勃興した経済検察との対立と、とらえられているが、私は違う意見である。検察の正統派と政治に癒着する権力派との戦いと見る。前者の代表が岸本義広東京検事長、後者は馬場義続法務次官。悪名高い“馬場派の殺し屋”河井信太郎特捜部長を抱える。

馬場を切るために、総長を諦らめ代議士となり、法相となってと転換した岸本の選挙違反を、馬場は徹底追及して起訴した。岸本は失意のうちに逝き、その次席だった岡原は、実に7年間も京都検事正のままだった——私は「正論新聞」でこの事実を叩き、馬場の次の総長が岡原を大阪検事長とした。

岡原は定年前に最高裁判事の検察ワクに移った。馬場の偏向人事を正した総長の思いやりだったろう。そして長官へと進む。検事出身判事が長官になるとは、異例中の異例であるが、他の判事たちからクレームが出なかったことが、岡原の人格すべてを物語っているではないか。

検事も若い時にはその理想に燃えて、正義のためにのみ行動するが、年をとるとともに現実的になり、権力におごって自己中心的になり、金と女の誘惑に溺れながら、それを自己規制も批判もできなくなる。そこで、その人自身の人間性が出てくるのである。新聞記者とて、企業人とて例外はない。則定事件が5年前のことだろうが、どうして、今ごろ表面化したのかなどは、事件の本質には無関係である。

権力とそれに近い立場にある者に求められるのは、高い倫理性である。私はその例として、岡原昌男を想起した。長い記者生活で、則定のような人生の浮沈のドラマを見つづけてきた。三越の岡田茂社長の「なぜだ?」が、あれほど人口に膾炙(かいしゃ)されながら、則定官房長(当時)にはなんの教訓にもならなかったのだった。 平成11年(1999)4月10日

編集長ひとり語り第6回 石原新都知事決まる

編集長ひとり語り第6回 石原新都知事決まる 平成11年(1999)4月12日 画像は三田和夫69歳(1990.06.15)
編集長ひとり語り第6回 石原新都知事決まる 平成11年(1999)4月12日 画像は三田和夫69歳(1990.06.15)

■□■石原新都知事決まる■□■第6回■□■ 平成11年(1999)4月12日

やっぱり、というべきか、当たり前というべきか、石原慎太郎が他の候補を蹴散らかしてダントツ当選した。朝生に始まるテレビ討論から、各候補たちの動静をテレビで見つづけていて、石原が出なければ再選挙だと感じていた。まず、有力5候補の人物評を試みたい。総評として、みな現在の自分が行き詰まっていて、場面転換としての出馬である。

まず鳩山。兄弟で金を出して、民主党を作りながら、二人ともトップになれない。副代表や幹事長代理という、ナンバー3以下に甘んじ、菅をかつがざるを得ない現実——つまり誰もついてこない政治的現実がある。50歳になるまで、電車に乗ったことのない男の選んだ道が、代議士をやめて浪人すること。

柿沢の過去は地元では常にトップ当選しながら、出たり入ったり、また出たりの政治的変節の放浪人生。もう自民党内でメの出る可能性はゼロだった。無党派を取りこむのが、飯島直子の肩を抱いたり、ダッチューノとアップの醜い顔をさらしたり、というセンス。

舛添もまた、女出入りや母親介護のセールスやらで、肩書きの「国際政治学者」も色あせてきて、テレビ出演も減っていただろう。栗本とのトラブルなど、噴飯モノだ。自民党員と組んだりするあたりのバカさ加減。石原優位のニュースに、「四分の一取れるかどうか、まだ分からんサ」と、惨めなセリフの男だ。

明石もまた、「総理に口説かれたから…。自民党一本化の約束だ」といったが、三分裂選挙となった時点で降りるべきだった。テレビで国連次長が10人ぐらいもいることをバラされたり、晩節を汚してしまった哀れな男。

共産党の三上。一番マトモな候補だったが、残念ながらまだまだ共産党での当選は無理である。しかし、こうして出馬し、票数を伸ばして行く事に意義があるのだから、ビリの柿沢の上にいた事は大健闘だろう。

間違って当選し、辞退もせずに4年間ネバった青島が、五千万円近い退職金を手に、都庁を去ってくれることだけでも、気持ちが明るくなる。

サテ、石原が都議会とどう付き合えるか。イエスとノーとを、どう表現してゆけるのか、まず、都議会との衝突で、解散をできるかナ。解散しても、いまの都議たちが再選されてくるだろうから、不信任されたらサッサと辞めるかナ。ともかく、一応、石原に期待してみようか…。 平成11年(1999)4月12日

編集長ひとり語り第7回 誰が二度と戦争に行くものか!

編集長ひとり語り第7回 誰が二度と戦争に行くものか! 平成11年(1999)4月17日 画像は三田和夫(右端・50歳前後か?)
編集長ひとり語り第7回 誰が二度と戦争に行くものか! 平成11年(1999)4月17日 画像は三田和夫(右端・50歳前後か?)

■□■誰が二度と戦争に行くものか!■□■第7回■□■ 平成11年(1999)4月17日

コソボ紛争のニュースは悲惨な殺戮と死体の山を見てきた私にとって、どうしようもない悲しい現実である。ナゼ、人間は殺し合いに飽きないのか。日刊紙をひろげれば殺人と死体発見の記事が連日つづいている。私が警視庁記者クラブにいた昭和27年から30年の3年間で捜査一課(殺人)が動くのは精々、月に2~3回だった。つまり、戦争の記憶がまだ生々しかった時代だ。

北朝鮮の工作船事件から、戦争法の論議がいろいろとかまびすしい。コソボ空爆の進展を見ても、「後方支援」というのは事実上の参戦である。敵方に攻撃されるのは当然である。“親方・星条旗”がヤレというのだから、政府はやらざるを得ない。残念な事だが、日本は独立国ではないのに、独立国ヅラをしようとするのだから、ムリが目立つ。

これらのすべては、戦後の自民党独裁がもたらせた結果で、その二世議員たちが家業を継いでいるのだから。どうしようもないというのが実態である。それにしても、彼らから「アメリカの一州になろう」という声があがらないのも不甲斐ない話だ。

独立国というのは、領土と国民と、軍刑法を持つ軍を持たねばならない。だから自衛隊はもちろん軍隊ではない。ましてや、日本が軍事大国になるなどの声は牽強付会もはなはだしい。昔の日本陸軍の歩兵操典の第一条に、「歩兵は軍の主兵にして…」(戦友会などで、この続きを訊いたが、もう誰も覚えていなかった)とあった。

米映画『プライベート・ライアン』を見給え。ノルマンディ上陸作戦の米軍歩兵の死屍累々の場面が息をのむ思いで迫ってくる。つまり、歩兵が敵地を占領しない限り戦争は終わらないのだ。米軍の第一騎兵師団が横浜に上陸して、はじめて第二次大戦が終わった。湾岸戦争が終わらなかったのは、米軍の歩兵がイラクを占領しなかったから、フセインは生きのびた。もっとも“アメリカの死の商人”がミサイルの古いのを使わせて新品に換えさせるためという説もある。するとコソボも同じだ。

話がそれたが、日本で歩兵になりたがる若者がいるだろうか。重い装備で歩く兵隊は、即、死を意味する。コンピューター操作でミサイルを撃ったり、航空機の操縦、戦車の運転など、志願者はある程度いるだろう。しかし、歩兵が多数いなければ、軍事大国ではないのである。今の若者に、そんな歩兵になりたがるのはいない、と私は断言する。そして日本では、徴兵制度の立法化ができるハズがない。髪を染めたり、ピアスをつけたり、より享楽的な女の子と遊んでいる方が、よっぽど楽しいではないか。私も、若かったらテレビの深夜番組の下品でブスな女たちを見ながら、センズリを掻く生活を選ぶだろう。 平成11年(1999)4月17日

編集長ひとり語り第8回 政治屋悪くしてすべて悪し

編集長ひとり語り第8回 政治屋悪くしてすべて悪し 平成11年(1999)4月21日 画像は三田和夫70歳(1992年)
編集長ひとり語り第8回 政治屋悪くしてすべて悪し 平成11年(1999)4月21日 画像は三田和夫70歳(1992年)

■□■政治屋悪くしてすべて悪し■□■第8回■□■ 平成11年(1999)4月21日

4月21日付朝日紙朝刊は、一面トップに「ODA債権を実質放棄、政府方針41カ国9300億円」と報じた。「26日のG7で宮沢喜一蔵相が伝える」と、記事中にあるのだが、これほど大きな政治問題でありながら、各紙では黙殺のようである。かねてから私は、このODAについて、大きな不信と疑問を抱きつづけてきたのだが、その結末がこれである!

“リュウ・ボリス”と、またまた橋本龍太郎がモスクワ訪問である。自分の一族に捜査を進めている検事総長のクビ切りが、再度、国会で反対されたエリツィンの“実力”に、政府はいったいナニを期待しているのか。橋本という亡霊に対する、内輪のサービスか。小渕首相自身が、ピザを抱えた写真をタイム誌の表紙にサービスする。一国の首相として、ここまでやるのか、という声も出ている。橋本のアンパン、小渕のピザ——なんという好対照であろうか。橋本の訪ロ、小渕の訪米と時期までニラんだこのサル芝居! 首相というものは、もっと日本国の現在と明日に対して、真剣に対処すべきであろう。個人的な人気取りパフォーマンスは止め給え。

ODAといえば、もはや政治家の利権と化しているのではないか。中国に対する竹下登の窓口など、利権以外のなにものでもない。そして多くがハコモノの建設である。日本のゼネコンが請負う。当然、リベートである。竹下の娘ムコの竹中工務店と対中国ODAの関係など、多言を要しないであろう。どこの国のナニに、どれだけのODA供与があったかをまとめて公表すべきである。これだけの重大ニュースを朝日紙が特筆大書しているのに他紙が後追いしないのは、G7での発表の予告篇なのである。意図的なリークとショック療法を狙った、政府筋と朝日紙のナレアイなのであろうか。

検察NO.2の則定前東京検事長とパチンコ業者との親密交際、東京都監察医務院の医師3名による、虚偽データの学会発表など、連日の新聞紙面には、信じられるべき人の信じられない事件が報じられている。社会的地位や教育がありながら、常識では考えられない事件を起こす人びとが、60歳台にまで及んでいることを、どう考えるべきなのか。60歳といえば、敗戦時には小学生。その人格形成には、戦後教育の色が濃い。

やはり、ODAの利権化といい、戦後の政治の在り方が、その根源にあるには違いない。今の若者の特徴といわれる“ジコチュウ”は、もっと年長の階層に根ざしているのだ。テレ朝の朝日記者のゴーマン振りが、それを如実に物語っていよう。 平成11年(1999)4月21日

編集長ひとり語り第9回 野村夫人と清張を結ぶ“点と線”

編集長ひとり語り第9回 野村夫人と清張を結ぶ“点と線” 平成11年(1999)4月28日 画像は三田和夫30~40代?(読売退社後~正論新聞の時期)
編集長ひとり語り第9回 野村夫人と清張を結ぶ“点と線” 平成11年(1999)4月28日 画像は三田和夫30~40代?(読売退社後~正論新聞の時期)

■□■野村夫人と清張を結ぶ“点と線”■□■第9回■□■ 平成11年(1999)4月28日

“役者バカ”という言葉がある。修行一筋の生活から一流の俳優(主として歌舞伎)になるのだが、役者以外のことは無知で客観性に欠けることをいう。と同時に、この言葉から、学者バカ、記者バカ(例のNステの朝日記者の如く)、医者バカ(最近、歯医者が女を殺す事件が二つも起きた)、スポーツバカ(アメリカのオカマと結婚したマラソン選手)などと、各界、各層に広がり、政治バカや野球バカなども現れてきた。

サッチーとか称する牛鬼蛇神(産経紙の「毛沢東秘録」に出てくる妖怪変化)の行状を見ていると、野村阪神監督も“野球バカ”だったのだナ、と思う。離婚前にこの牛鬼蛇神にカラダを張られて妊娠させ、とうとう結婚させられてしまうからだ。これでは野球殿堂入りも危ないだろう。

彼女が社会的責任について一切話さず、油に水を注ぐとか、グッドファーザーだとか、教育の無さを丸出しにしてノシ歩いているのを見ると、つくづく“氏より育ち”の感を深くする。山口敏夫元代議士が、どうしてあのように金に卑しくなり、ついに身を滅ぼしてしまったか。父親の山口六郎次代議士が、ホントの井戸塀(井戸と塀しか財産がなかった)議員で、その死後、一家は生計が立たず山口元議員は若い時から貧乏にあえぎ、明大の学資も姉たちが働いて支払ったほどだ。野村夫人が、どんなに金に汚く、反社会的行状にテンとして恥じないのも、占領下の新橋第一ホテルのウエイトレスからスタートした人生が現在を支配しているからだ。

同じように、反社会的行動と金の汚さをテンとして恥じずに、一切無視し通した男に、松本清張がいる。

松本清張が私の処女出版の「赤い広場—霞ヶ関」から盗作していることを知って、私は手紙を出して善処を求めた。当時の私は読売を退社し、講談社の仕事で生活していたのだが、清張に連載を依頼しに行った編集局長に、「三田を黙らせたら引き受ける」といった。局長からの話に、私は激怒して仕事を蹴って、著作権法違反で告発した。その記事が各紙に報じられるや、「オレも盗作された」という人物が数人も現れてきた。私の場合は「深層海流」に盗作され、名乗り出たのは「昭和史発掘」で盗作された数人で、清張の盗作が報じられたのと、今の野村夫人のトラブルが報じられたのとまったく同じだ。

そのころ、清張は週刊朝日にいた森本哲郎に電話で相談した。彼は「三田の土俵に上がるな、全く無視しろ」と答えた。この問答を聞いていた朝日記者の話だ。東京地検次席河井信太郎は、清張の「検察官僚論」のネタ元である。私の告発は時効不起訴の処分だった。そして、文春がのちに刊行した清張全集では私からの盗作部分はすべて削除され、その担当者だった女性は、清張記念館館長である。もはや、一流新聞社にも一流出版社にも、道義も社会正義のカケラもない時代なのである。 平成11年(1999)4月28日

編集長ひとり語り第10回 社会的責任とは何か…

編集長ひとり語り第10回 社会的責任とは何か… 平成11年(1999)5月6日 画像は三田和夫78歳(右側 1999.02.20)
編集長ひとり語り第10回 社会的責任とは何か… 平成11年(1999)5月6日 画像は三田和夫78歳(右側 1999.02.20)

■□■社会的責任とは何か…■□■第10回■□■ 平成11年(1999)5月6日

連休明けのニュースは、小渕首相の訪米が本人の自画自賛にもかかわらず、あまり相手にされず重要視されなかった、という各紙の現地記事である。その次は、菅民主党代表が江沢民国家主席と会談できた。小沢自由党党首が会えなかったというのに…。私の感想では、日本の政治家はどうして日本国内での政策で勝負せず、外国の権威でハク付けしようとするのか、悲しい現実である。

小渕や菅が、相手に迎合したとか、国辱的行動であったとか、批判するのは日本国民として当然のことであって、「事実」(と認められる有力新聞の報道も含めて)を、どう認識するかは、各人の自由である。そして、これは「中傷」とはいわない。それは、2人とも公人であるからだ。

先週号の『編集長ひとり語り』に、「個人に対する中傷で不愉快だ」という反応があった。私の文中で取り上げた個人名は、野村夫妻、山口元議員、松本清張の4人で、誰に対する中傷なのかは、投書は言及していないが、やはり反論しておかねばならない。

私は新聞記者である。ミニコミ紙と言われながらも、30余年『正論新聞』を発行しつづけ、紙上で主張を展開している。誰でもが、いつでも読むことができる、公(おおやけ)の文章である。つまり、社会に公開されているということは、印刷紙面であれ、このインターネット上であれ、筆者の私には、当然「社会的責任」が負わされているのである。その意味では、準・公人である。

「中傷」とは、無実のことをいい、他人の名誉を傷つけることをいう。私が個人名を明記した前記の4氏について、投書者本人にとっては、「信じられない」ことが書かれていたので、中傷という言葉を使ってしまったのであろう。だが、私が書いたことは、残念ながら「事実」なのである。その「事実」の証拠を私はきちんと保存している。

そして、この4氏は、私と同様に社会に対し発言し、行動しているのだから、準・公人なのである。社会的批判に堪えられるだけの言動が求められ、かつ、その批判に対して社会的責任を明らかにする義務がある。その義務を怠るならば、バカだ、チョンだといわれても、やむを得ないだろう。

松本清張について付言しておこう。私が彼に対してとった、著作権法違反の告発は、東京地検で不起訴処分となった。検察は、犯罪(容疑)に対して、国の代理人として起訴(裁判を請求)か不起訴を決める。不起訴には、嫌疑なしか、政策的判断(微罪、容疑者更生など)などがある。しかし、私の告発は「時効不起訴」だったのである。解説すれば、盗作の事実はあるが、時効だ、ということである。だから、彼は文化勲章も受けられなかったのである。この一事で全て、彼の人となりが理解できよう。 平成11年(1999)5月6日

編集長ひとり語り 番外編その1 差別用語とは

編集長ひとり語り 番外編その1 差別用語とは 平成11年(1999)5月10日 画像は三田和夫30代?(読売記者時代か)
編集長ひとり語り 番外編その1 差別用語とは 平成11年(1999)5月10日 画像は三田和夫30代?(読売記者時代か)

■□■差別用語とは■□■番外編その1■□■ 平成11年(1999)5月10日

「バカでもチョンでも…」という言葉を使ったのは、先週号(第10号)の「社会的責任とは何か…」の文中である。すると早速、「これは差別用語である。取り消すべき」という反応が、いくつか寄せられた。そこでこの差別用語なるものについて、私の意のあるところを、何回かに分けて述べてみたい。

その文章は、公人の社会的責任について述べたあと、「その義務(社会的責任を明らかにする)を怠るならば、バカだ、チョンだといわれても、やむを得ないだろう」と、結んでいる。この文章の流れから言えば「バカだといわれても」と、「チョン」の部分が無くても、いささかも不都合ではない。そのように書きかけてから、私はあえて「チョンだといわれても」と、「チョン」を付け加えたのである。それは、『ひとり語り』の読者たちが、どのように反応するかを、確かめてみたかったからである。

そして、その読者たちとディベートする機会をつくりたい、と思ったからである。「チョン」が「差別語」にされていることを、十分に承知して使ってみたのである。その結果、すぐさま反応が現れたのだった。

いったい、だれが「差別語」なるものを、どのような基準で、選別し、決定したのだろうか。多分、それは昭和40年代のことだろうと思う。いわゆる“人権屋”と称される人たちの“言葉狩り”の結果、歴史的事実と関りなく、あれも、これもと列挙され、それがマスコミで宣伝されて、「活字神話」の信者たちである若い人たちのアタマに、叩きこまれたものであろう。

最初に、私の意見を述べておこう。私の中学生時代、東京府立五中時代の同期生に朝鮮出身者がいた。当時、朝鮮半島は日本の植民地だったが、府立五中にも朝鮮出身の生徒がいたということは、本人の優秀さはもちろんのこと、差別がなかったということである。彼とは、校友会雑誌部で親しくしていた。さらに、日大芸術科に入ると、学友には、朝鮮や台湾出身者は多数いて何人も親しい男がいた。

さらに、軍隊に入ると、ここでも、優秀な朝鮮出身者がいた。中国での駐屯地では、将校だったので行動が自由で、河南省の田舎町だったが、理髪店主や、駄菓子屋、食堂などの中国人たちと仲良くなった。そして、シベリアの捕虜である。2年間も同じ炭坑町にいたので、炭鉱夫、女軍医など、もう一度会いたいと思うほど、懐かしい人びとと相知った。

もう11年前のことになるが、知人に頼まれて『岡山プロブレム』という単行本をまとめたことがある。2カ月ほどかけて、岡山県下をくまなく歩き、取材してまわった。その時に知ったことだが、この瀬戸内には、中国と朝鮮の文化、それをもたらした中国人、朝鮮人が土着し、その“血”を日本人として伝えていることに、深く感じ入った。例えば、秀吉に忠節を尽し、関が原の合戦に秀頼を擁して、西方の総大将になった宇喜多秀家がいる。彼の曾祖父・能家は、「百済国人三兄弟」のひとりだ。敗戦の責を問われ、秀家は八丈島へ流され、歴史は「ここで宇喜多家は断絶した」とする。

その岡山取材から数年後に、一流銀行の広報部長に会った。その姓が「浮田」なので、「八丈島の出身ですか?」とたずねると、そうです、と答えた。秀家が多分、八丈島の女性に生ませた子供の子孫なのであろう。百済国人の“血”は、こうして、日本人に流れつづけているのである。

こうして、朝鮮半島人や中国人たちと付き合いつづけ、戦争と捕虜を通じて、私は信念を抱くにいたった。日本文化の父は中国、母は朝鮮である、と。かつ、捕虜時代には、旧ソ連人だから、ロシア人、ウクライナ人、カザフ人、タタール人と、多くの民族の人びとと接してきて、国籍や民族や宗教を越え、人間は人間なんだ、ということを痛感した。そこには、差別や差別用語などは存在しない。

「バカチョン」のチョンが、朝鮮人に対する蔑称だ。だから差別語だ、という主張の人びとが、どのような合理的な、もしくは歴史的な事実を示しただろうか。私は、残念ながらチョンの説明を耳にしたことも、目にしたこともない。

それどころか、差別語なるものを決定し、声高にいい立てる人びとこそが、差別そのものではないか。私は、人間が、人間の尊厳に対し敬意を抱き、礼節を守ること、すなわち精神の内奥で自立することが、すべてだと思う。石原都知事が、中国を支那と呼ぶことを強弁している。が、中国人がその言葉で不快感を覚えるというのならば、それを使わないのが礼儀である。人間同士なのだから…。

日本文化の父が中国、母が朝鮮。これはいかんともしがたい事実である。そうであれば父の流れを汲む現在の中国人、母の流れを伝える現在の朝鮮人。そのどちらにも、それなりの人間としての対応があって然るべしである。とすると「差別語」なるものがあるハズもないし、「差別」なるものもないハズである。

私の書いたチョンが差別語だ、という人たちは、私にその根拠を教えてほしい。根拠も示せずに主張するのは言葉狩りに乗せられていることになろう。無批判に、言葉狩りを伝えたマスコミの活字を、盲信してはいけない。(つづく) 平成11年(1999)5月10日

最後の事件記者 p.418-419 計画的かつ継続的なウソの辛さ

最後の事件記者 p.418-419 こうして、鈴木勝五郎こと私の、佼成会へ入会のキッカケは作られた。成功したのであった。オバさんはコロリだまされて、不幸な私のため涙まで浮べてくれたのである。
最後の事件記者 p.418-419 こうして、鈴木勝五郎こと私の、佼成会へ入会のキッカケは作られた。成功したのであった。オバさんはコロリだまされて、不幸な私のため涙まで浮べてくれたのである。

「しかし、オバさん。その妙佼さまを拝むと、本当に救われるかい? オレのような奴でもかい?」
オバさんは確信にみちて言下に答えた。

「エエ救われますとも! 妙佼先生という尊い方がいらして、真心から拝めば、キット有難い御利益がありますよ。ただし、いい加減な気持じゃダメですよ」

「だけど、本当かなあ」

鈴木は呟くようにいって、グイと盃をあけた。そして、考えこむ。オバさんはあわれむように鈴木をみつめた。

「一体どうしたのさ、ワケを話してごらんよ。奥さんに逃げられたとかって、ウチにこうして呑みにきたのも、妙佼先生のお手配なんですよ。エ? ネエ、Tさん」

しかし、鈴木は耳に入らないかのように考えこむ。グイ、グイと盃をあけながら、「本当かなあ」「救われるかなあ」と、ひとり呟いている。ややあって、鈴木は思いきったように、顔をあげて、真剣にオバさんをみつめていった。

「オバさん。オレはやってみるよ。その有難い教えというのを、オレにも教えてくれよ。もう一度、一人前になりたいんだよ」

鈴木は声を落して、オバさんと連れの記者とに、彼の罪多い過去から、行き詰った現在までを語り出した。

遂に潜入に成功

こうして、鈴木勝五郎こと私の、佼成会へ入会のキッカケは作られた。成功したのであった。

オバさんはコロリだまされて、不幸な私のため涙まで浮べてくれたのである。

ウソも方便と、ホトケ様がいわれたそうだが、この佼成会の潜入で、計画的かつ継続的なウソの辛さ、苦しさをしみじみと味わわせられた。一時逃れの方便のためのウソとは違って、この人の良いオバさんの善意に対し、ウソをつきつづけるということは、今だに寝覚めの悪い感じだ。

オバさんを信じこませるため、途中でわざわざ便所に立った。オシリの破れをみせるためだ。すると、オバさんは「可哀想に」と呟いたという。効果的ではあったワケだ。

導いてくれる(入会紹介をしてくれる)と決れば、もう短兵急である。明朝の約束をして、それこそ明るい気持で店を出た。駅の近く、暗い横丁へ待たせてあった車にサッと飛びこんだ。

ところが、その衣裳のままで、社の旅館に入ったところが、顔見知りの政治部記者が、廊下の向うで私をみていた。その記者はあとで女中に向って、「どうしてアンナ汚いのを泊めるのだ」と怒ったという。女中たちと大笑いしたが、自信もついてきた。

翌朝早く、その呑み屋へ行って、オバさんを叩き起した。彼女は少女と一緒に、店の奥の一畳ほどのところに、センベイ布団でゴロ寝だ。モゾモゾと起き出してきて、新聞紙で粉炭を起す。洗面すると、佼成会発行の総戒名という、先祖代々の戒名に向い、タスキ、ジュズの正装で、お題目を二十回ばかり、朝のお勤めである。

それから朝食だが、これには驚いた。やっとおきた粉炭でお湯をわかし、丼に入れた洗わないウドン玉の上に、おソウザイ屋のテンプラをのせ、醤油をかける。それにお湯をそそいだ、即席

テンプラうどんだ。不潔な上にまずそうで、吐き気すら催しそうだ。

最後の事件記者 p.420-421 支部長を中心に〝法座〟を開いて

最後の事件記者 p.420-421 まず、ザンゲをしなければならない。肩を落し、低い声で、とぎれとぎれに語る私に、オカミさんたちの、好奇の視線が集まる。……とうとう女房は逃げてしまったのです。私はすてられました
最後の事件記者 p.420-421 まず、ザンゲをしなければならない。肩を落し、低い声で、とぎれとぎれに語る私に、オカミさんたちの、好奇の視線が集まる。……とうとう女房は逃げてしまったのです。私はすてられました

それから朝食だが、これには驚いた。やっとおきた粉炭でお湯をわかし、丼に入れた洗わないウドン玉の上に、おソウザイ屋のテンプラをのせ、醤油をかける。それにお湯をそそいだ、即席

テンプラうどんだ。不潔な上にまずそうで、吐き気すら催しそうだ。

だが、おばさんも外出姿になると、精一ばいのオシャレだから、電車に乗ると、私のみすぼらしさたるや、彼女が同行するのも恥ずかしかろうと思うほどだ。蓬髪、不精ヒゲ、オーバーなしの穴あきズボンに、ヒビ割れ靴というのだから……。

こちらも国電に乗ると緊張した。誰か知人に出会って、「よう」などと、肩を叩かれたら大変。「何だ、読売はやめたのか?」と、きかれること間違いなしの格好だからだ。伏眼がちに、四方を警戒しながら、やっとのことで新宿へ。そしてバスで本部へ。

行ってみると、オサイ銭をあげるオバさんの気前の良さに驚いた。冬のさ中にあんな朝食をとるオバさんが、実にカルイ気持で三百円もの大マイを、妙佼先生に捧げる。イヤ、ふんだくられているのだ。

バスを降りると、参拝者の列がつづく。それが、いずれも支部と自分の名を書いたノシ袋に、オサイ銭を入れて、本部拝殿前の三宝の上に差出す。名前が明らかにされるのだから、誰でも数枚の百円札はハズまざるを得ない。しかも、信者の勤労奉仕の道路整理係がいて、信者の群れを本部拝殿前へと追いこむのだ。そこを通らぬと、直接は修養道場へ行けないように、交通制限をしている。

そして、拝殿前でこのノシ袋を市価より高く売っているのは、教祖一族のものだから、二重、三重のサク取である。

金の成る礼拝道路を経て、修養道場へ入る。道場というと立派そうだが、要するにクラブである。大広間になっていて、支部ごとに別れて、支部長を中心に〝法座〟を開いている。輪(和)になって、妙佼先生の代理ともいうべき支部長さんの前で、ザンゲしたり教えを受けたりする場所だ。

しかし、実際は、例のノシ袋で支部ごとのオサイ銭上り集計表が作られて、支部長が「もっと熱心に信心しなければ」と、金のブッタクリを訓示する場所である。〝熱心に信心する〟ということは、〝毎日本部へ来る〟ことである。本部へ来れば、あの礼拝道路を必ず歩かせられるのだから。

支部長の御託宣

オバさんの支部長への報告の済むまで、隅ッこに坐っていた私は、やがて法座へ加えられた。そこで、まず、ザンゲをしなければならないのである。

肩を落し、低い声で、とぎれとぎれに語る私のセリフに、年配のオカミさんたちの、好奇の視線が集まる。……とうとう女房は逃げてしまったのです。私はすてられました……という件りにきたとき、支部サン(支部長)の声がかかった。

「アンタ、何て名前だっけね」

「ハイ、鈴木勝五郎です」

最後の事件記者 p.422-423 またオヨメさんがもらえるなら

最後の事件記者 p.422-423 男の入会者はすべて、「色情のインネン」「親不孝」のどちらかである。女に対しては、「シュウト、シュウトメを粗末にしたからだよ。思い当ることがあるだろ?」である。
最後の事件記者 p.422-423 男の入会者はすべて、「色情のインネン」「親不孝」のどちらかである。女に対しては、「シュウト、シュウトメを粗末にしたからだよ。思い当ることがあるだろ?」である。

「アンタ、何て名前だっけね」
「ハイ、鈴木勝五郎です」

支部サンは、掌に字を描いて、その名前の画数を数えていたが、吐き出すように、自信をこめて断言した。

「色情だよ! オ前さんには、名前の示す通り、色情のインネンがあるンだよ。だから奥さんに逃げられたんだ」

「ハ、ハイ」消え入りそうな声だ。

「だけどね。熱心に信心すれば、この教えは有難いもんでね。御利益があるよ。妙佼先生の有難いお手配でね、前の奥さんが知ったら口惜しがるような、いい奥さんがまた御手配になりますよッ」

高圧的にいいきる支部長の言葉は、確かに神のお告げのように、何かいいようのない新しい力を、私の体内に湧き起らせた。

また、新しいオヨメさんがもらえる! 現実には八年の古女房が、二人の子供とともにデンと居坐っている私にさえ、この言葉は不可思議な魅力を持っていた。ただし〝熱心に信心すれば〟イコオル〝うんとおサイ銭をあげれば〟である。

社へ帰って報告したら、景山部長はじめ社会部のデスクは爆笑につつまれた。

「これァ邪教じゃないよ。ズバリ、最初に色情のインネンがあると喝破したからな」

「妙佼サマのお手配で、またオヨメさんがもらえるなら、オレも信者になるよ」

と大変な騒ぎだった。

その後の法座で見聞したところによると、男の入会者はすべて、「色情のインネン」「親不孝」のどちらかである。聖人君子はさておき、男の子でこの二つに該当する過去をもたないものはあるまい、女に対しては、「シュウト、シュウトメを粗末にしたからだよ。思い当ることがあるだろ?」である。これもまたムベなるかなである。

三百円ほど支払って、タスキなどの一式を買わされ、翌日は導き親であるオバさん宅の総戒名、支部サン宅のオマンダラ(日蓮上人筆の経文のカケ軸)、本部と、三カ所へお礼詣りだ。

お礼詣りが、無事とどこおりなく済むと、翌々日は祀り込みだ。本部で頂いた鈴木家の総戒名を、支部の幹部が、私の自宅へ奉遷し参らせて、諸霊安らかに静まり給えかしと、お題目をあげる儀式である。

このことのあるのは、かねて調査で判っていたから、城西のある古アパートの一室を、知人の紹介で借りておいた。家主には事情を話し、チャブ台その他、最少限の世帯道具も借りておいたのであった。

幹部婦人の愛欲ザンゲ

その当日、幹部サンと導き親のオバさん、それにもう一人、佼成会青年部の妙齢の乙女と三人が、連れ立って本部からそのアパートへやってきた。

儀式が終ってから、幹部サンはやがて法話のひとくさりをはじめたのであった。その法話も、

いつかザンゲに変っていた。

最後の事件記者 p.424-425 幹部サンやオバさんではお断りだナ

最後の事件記者 p.424-425 その子は眼の下のホクロが色白の肌に鮮やかで魅力的だ。こんな妄想にふけっていたのも、やはり、支部サンに喝破されたように、もって生れた色情のインネンらしい。
最後の事件記者 p.424-425 その子は眼の下のホクロが色白の肌に鮮やかで魅力的だ。こんな妄想にふけっていたのも、やはり、支部サンに喝破されたように、もって生れた色情のインネンらしい。

幹部婦人の愛欲ザンゲ
その当日、幹部サンと導き親のオバさん、それにもう一人、佼成会青年部の妙齢の乙女と三人が、連れ立って本部からそのアパートへやってきた。
儀式が終ってから、幹部サンはやがて法話のひとくさりをはじめたのであった。その法話も、

いつかザンゲに変っていた。

「これでネ、私も色情のインネンがあってネ。一度では納まらなかったのですよ」

優しい調子でこんな風に話しはじめた幹部サンは、彼女の悲しい愛欲遍路の物語をはじめた。富裕な商家の一人娘に生れた彼女は、我儘で高慢に育った。年ごろになったころ、同郷の知人からあずかって、店員として働いていた青年に恋をされた。

しかし、気位が高くて、店員なんぞハナもひっかけなかった彼女の態度に、その青年は破鏡の胸を抱いて故郷へ帰っていった。

「あとでそのことを知ってネ。私の色情のインネン、そして、そのごうの深さに恐ろしくなりましたよ」

最初の夫との結婚話、それに失敗した第二の結婚、そして、いまの生活——それは、彼女の性欲史であった。彼女のその物語は、もう窓辺に宵闇をただよわせている部屋の薄暗さと相俟って私は何かナゾをかけられているのかナ、とも考えたりした。

他人に恋心をよせられるのも、再婚するのも、浮気するのも(とは彼女は口にこそしないが)、すべてこれ、色情のインネンのしからしむるところだという。そのごうから逃れるための修養だというが……。

「しかしネ。なかなか修業が足りなくて……、あなたも、熱心に修業しなくちゃあネ」

色情のインネン、妙佼先生のお手配、新しい奥さん、等々。私は正座してうつむき、抜けかけ

た膝をみつめ、ジュズをにぎってそんなことを考えていた。その視線の中に、隣にならんで坐っている、女子青年部員の、紺のスカートと、発育したモモとか入る。

美しい部類に入るその子は、眼の下のホクロが、色白の肌に鮮やかで魅力的だ。

——彼女に、色情のインネンはないのだろうか。この子が、妙佼先生のお手配で、オレのものになるのかナ。幹部サンやオバさんではお断りだナ。

こんな妄想にふけっていたのも、やはり、支部サンに喝破されたように、もって生れた色情のインネンらしい。帰社すると、夜は銀座の紳士、昼はウラぶれた失業者。こんな二重生活が一週間余りつづいて、潜入ルポができ上った。

今でも、新宿から中野あたりを通ると、私の二人の相手役女優——オバさんとホクロの乙女を想い出す。

教祖の身元アライ

この立正佼成会キャンペーンは、正直のところいって、邪教という結論も出せなければ、叩きつぶして解散させるということも出来なかった。佼成会側の読売不買運動も、地域的には成功したが、「読売を見ると眼がつぶれる」という宣伝も逆効果となって、信者の中に〝憎読者〟もでき、読売はかえって部数がふえるという結果だったから、いうなれば読売の判定勝ちというところであった。

最後の事件記者 p.426-427 マサの奴に〝生き仏さま〟なンて

最後の事件記者 p.426-427 当時の銘酒屋の建物をはじめ、談話者の写真をも撮っておいた。意外だったのは、マサさんを苦界から身請けした第一の夫、大熊房吉さんに、口止め策がとられていなかったことだ。
最後の事件記者 p.426-427 当時の銘酒屋の建物をはじめ、談話者の写真をも撮っておいた。意外だったのは、マサさんを苦界から身請けした第一の夫、大熊房吉さんに、口止め策がとられていなかったことだ。

教祖の身元アライ
この立正佼成会キャンペーンは、正直のところいって、邪教という結論も出せなければ、叩きつぶして解散させるということも出来なかった。佼成会側の読売不買運動も、地域的には成功したが、「読売を見ると眼がつぶれる」という宣伝も逆効果となって、信者の中に〝憎読者〟もでき、読売はかえって部数がふえるという結果だったから、いうなれば読売の判定勝ちというところであった。

この時に一番面白かったのは、生き仏様の妙佼教祖の、過去の色情のインネンを正確に取材して、バクロしたことであった。佼成会にとっても、教祖の過去が売春婦であったということは、信仰者としての適格性に影響してくるので、一番痛いことではなかっただろうか。

噂として、彼女がオ女郎サン上りだということは、あちこちでしばしば聞かされた。だが、確実なデータは誰も知らない。紙面で書くのは、少しエゲツないので、書かなくとも〝伝家の宝刀〟として正確な事実だけは調べておこう、というので、その取材を私が買って出た。

大正十年前後、約四十年も前の事実を、正確に調べようというのだから、困難な取材であることは覚悟したが、何かマリー・ベルの名画「舞踏会の手帖」を思わせる、たのしみがあった。

佼成会の機関誌によると、御先祖は石田三成を散々に悩ませた、北条側の大将成田下総守の家臣、長沼助太郎という武士で、成田家の滅亡により、自領の志多見村に落ちのび、土着して半農の大工になったという。

戸籍によれば、妙佼こと長沼マサ女は、明治二十二年十二月二十六日、埼玉県人長沼浅次郎の長女として、同県北埼玉郡志多見村に生れた。結婚は戸籍上二回である。

これだけの資料をもって、自動車一台とともに、埼玉、茨城両県下を、一週間にわたって走り廻った。古老たちを土地土地でたずね歩き、彼女が醜業に従事した証拠を探し出したのである。

困ったのは、彼女の同僚だったオ女郎サンを、その家庭にたずねた時である。すでに孫までいる人、しかも耳でも遠くなっていようものなら、怒鳴るような大声で、四十年前のことを、しか

も他聞をはばかる遊廓のことを聞くものだから、あるところでは、息子に怒られて追出されてしまった。

もちろん、当時の銘酒屋の建物をはじめ、談話者の写真をも撮っておいたのである。意外だったのは、マサさんを苦界から身請けした第一の夫、大熊房吉さんに、口止め策がとられていなかったことだ。或いは、口止めが行われていたのを、私が話させてしまったのかもしれない。大熊さんは、はじめはなかなか話そうとせず、「昔は昔だけど、今はあんなにエラクなったのだから、身分にさわる」といって、話すのをイヤがったほどだ。

それが、終いには、

「会からも、いい役につけるから、来いといわれたんですが、会に行けば、マサに頭を下げなければならない。誰が、マサの奴に〝生き仏さま〟なンて、頭が下げられますか。奴は昔はオレの女房だったし、女郎だったンだ。そりゃ、有難やと手をもめば、金になることは判っているンだけど、とても男にゃア出来ねえことだ」

と、気焔をあげる始末だった。

新興宗教の現世利益

マサさんの第一の婚姻の前には、小峰某という情夫がいて、その男のためかどうか、大正十年ごろ、彼女は茨城県境町のアイマイ屋、箱屋の酌婦となった。

最後の事件記者 p.428-429 スクラップの一頁ごとが思い出にみちた仕事

最後の事件記者 p.428-429 私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から参考資料まで、細大もらさず記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。
最後の事件記者 p.428-429 私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から参考資料まで、細大もらさず記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。

新興宗教の現世利益
マサさんの第一の婚姻の前には、小峰某という情夫がいて、その男のためかどうか、大正十年ごろ、彼女は茨城県境町のアイマイ屋、箱屋の酌婦となった。

境町というのは、利根川をはさんで、埼玉県関宿町に相対する宿場で、箱屋の酌婦というのはいわば宿場女郎だ。この箱屋も主人が死んで代変りとなり、その建物は伊勢屋という小間物玩具店になっている。箱屋の娘二人は、それぞれ老齢ながら生存しており、当時の酌婦二人も生きていた。

やがて彼女は、利根川を渡って、郷里の埼玉県南埼玉郡清久村に帰ってきた。といっても廃業したのではなく、同村北中曾根の銘酒屋斎藤楼に住みかえたのである。この店は同郡久喜町北中曾根三番地となって、草ぶきの飲み屋の部分だけ残っており、酌婦たちが春をひさいでいた寝室の部分は、取壊されてしまってすでにない。

この斎藤楼で、彼女は第一の夫大熊さんに出会った。大熊さんは、東京京橋の床屋に徒弟奉公中の職人。清久村の出だが江戸ッ子気質だ。彼は床つけの良いマサさんが気に入って身請けの決心を固めた。

借金を聞くと、金十円だという。大正十一年ごろの十円だから大金である。大熊さんは自分の貯金の五円だけでは足りないので、来年年季があけたら店を持つという名目で、アチコチ借金して、さらに五円を工面した。そして気前よくポンと十円を投げ出して、マサさんを身請けし、東京で同棲した。二人が正式に結婚したのは、年季があけてからの大正十二年十二月五日のことであった。

ところが、だんだん祈り屋的性格が出てきたので、二人の仲はうまくゆかず、性格の相違を理

由に、昭和四年二月九日、ついに協議離婚した。マサさんは霊友会へ進み、大熊さんは今でも清久村で床屋をしている。

どうやら、新興宗教の〝現世利益〟というのは、色情のインネン——性のよろこびにあるらしい。事実、「恋」は人に希望を与え、明るくさせ、よろこびを与える。打ちひしがれた人を、ふるい立たせる〝現世利益〟である。

新聞記者というピエロ

我が名は悪徳記者

ここまで、すでに三百二十枚もの原稿を書きつづりながら、私は自分の新聞記者の足跡をふり返ってみてきた。私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から、参考資料まで、細大もらさず、記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。

スクラップの一頁ごとが、どれもこれも書きたい思い出にみちた仕事ばかりである。それを読み返し、関連していろいろな思いにかられるうちに、心の中でハッキリしてきたことは、「新聞」

に対する、内部の人間、取材記者としての反省であった。私の立場からいえば、とてもおこがましくて、「新聞批判」などといえないのだ。あくまで「自己反省」である。

最後の事件記者 p.430-431 「事件記者と犯罪の間」という手記

最後の事件記者 p.430-431 新聞雑誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。
最後の事件記者 p.430-431 新聞雑誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

新聞記者というピエロ
我が名は悪徳記者
ここまで、すでに三百二十枚もの原稿を書きつづりながら、私は自分の新聞記者の足跡をふり返ってみてきた。私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から、参考資料まで、細大もらさず、記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。
スクラップの一頁ごとが、どれもこれも書きたい思い出にみちた仕事ばかりである。それを読み返し、関連していろいろな思いにかられるうちに、心の中でハッキリしてきたことは、「新聞」

に対する、内部の人間、取材記者としての反省であった。私の立場からいえば、とてもおこがましくて、「新聞批判」などといえないのだ。あくまで「自己反省」である。

この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。その手記の冒頭の部分にふれたのだが、新聞を去ってみて、外部から新聞をはじめとするジャーナリズムを、みつめる機会を得たのであった。つまり、それは、こういうことだ。

新聞雑誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

失職した一人の男として、今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。

私は確信をもってノーと答え得ない。自信を失ったのである。それゆえにこそ、私は〝悪徳〟記者と自ら称するのである。

と、いうことであった。

そして、この一文に対して、実に多くの批判を受けたのである。私の自宅に寄せられたのもあれば、文芸春秋社や読売にも送られてきた。あるものは激励でありあるものは戒しめであった。この一文が九月上旬に発売された十月号だったので、まもなく十月一日からの新聞週間がやってきた。その中でも、私の事件への批判があった。

ことに、私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞やに対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

私は構わない。私は、自分が今まで生きてきた世界だけに、その雰囲気はよく知っている。それを私はこう書いた。「冷たい男と知りながら、血道をあげて、すべてのものを捧げつくして捨てられた女、しかし、それでも女は、その非情な男を慕わざるを得ない——これが、新聞社と、新聞記者の間柄である。私は、自分の新聞記者としての取材活動が、失敗に終ったことを知った。〝出来なければボロクソ〟である。私は静かに辞表を書いた。逮捕され、起訴されれば、刑事被告人である。刑事被告人の社員は、社にとっては、たとえどんな大義名分があろうとも、好ましいことではない。私は去らなければならないのだ」と。

文春記事の反響

「ね、パパ。暮のボーナスで、家中のフトンカバーを揃えましょうよ」

「エ? 暮のボーナスだって? どこからボーナスが出るンだい?」

「アッ、そうか!」

つい最近でも、妻は私がまだ読売にいるつもりで、こんなことをいう。彼女には、結婚以来の十年間の辛い、苦しい、そして寂しい、事件記者の女房生活から、私が社を去ったということがこのように納得できない。私が留置場にいる時、彼女は、社へ金を受取りかたがた、エライ人に

挨拶をした。

最後の事件記者 p.432-433 去るのが当然であると思う

最後の事件記者 p.432-433 警視庁へ出頭する直前、務台総務局長は、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片づいたら、また社へ帰ってきたまえ」と
最後の事件記者 p.432-433 警視庁へ出頭する直前、務台総務局長は、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片づいたら、また社へ帰ってきたまえ」と

文春記事の反響
「ね、パパ。暮のボーナスで、家中のフトンカバーを揃えましょうよ」
「エ? 暮のボーナスだって? どこからボーナスが出るンだい?」
「アッ、そうか!」
つい最近でも、妻は私がまだ読売にいるつもりで、こんなことをいう。彼女には、結婚以来の十年間の辛い、苦しい、そして寂しい、事件記者の女房生活から、私が社を去ったということがこのように納得できない。私が留置場にいる時、彼女は、社へ金を受取りかたがた、エライ人に

挨拶をした。

「これからは、お友達として付合いましょう」

その人のこの言葉を、妻は何度も持ち出して、私に聞く。

「これ、どういう意味?」

彼女をしていわしむれば、あんなに肉体をスリ減らし、家庭生活をあらゆる面で犠牲にして努めてきたのは、社のためだったのではないのか、ということらしい。しかも、今度の事件も、取材であったのだから、所詮は社のためである。それなのに、辞表を受理するとは、というのである。

だが、私はそう思わない。クビを切られずに、辞表を受取ってもらえて有難いことだと思う。その上、十四年十カ月の勤続に対して、三十万百八十四円の退職金、前借金を差引いて、三万円の保釈金を払って、なおかつ九万円もの金が受取れたことを、ほんとうに有難いことだと思う。一日五百九十円の失業保険は九カ月もつけてもらえた。

私は満足であり、爽快であり、去るのが当然であると思う。

ことに、警視庁へ出頭する直前、務台総務局長は、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片づいたら、また社へ帰ってきたまえ」と、温情あふれる言葉さえ下さった。私は、それでもう、退社して逮捕されることも気持良く、満足であった。「記者としての私」を、理解して頂けたからである。この時の気持が、満足であり、爽快であり、去る

のが当然だ、という気持なのだ。

保釈出所して、社の人のもとへ挨拶に行った。その人は、私から、記者としての〝汚職〟が出てこなかったことを、よろこんで下さった。もし、〝汚職〟が出たらその人も困るのであろう。だが、その人はいった。

「ウン、局長や副社長には、手紙で挨拶しておけばいいだろう」——もはや、会う必要はないということだった。

ある先輩は忠告してくれた。

「書きたい、いいたいと思うだろうが、裁判が済むまで、何も書くなよ。そして、また社へ帰ってくるんだ。無罪になる努力をするんだ。書くなよ」——何人もからこの有難い言葉を頂いた。だが、私はこの教えにそむいて、書いてしまった。

文春を読んだ先輩がいった。

「惜しいことをした。どうして、あれに批判を入れたのだい? あの一文で、君が筆も立つし、記者としての能力も、十分証明しているのに、社に帰るキッカケをなくしたよ」

「しかし、ボクは今でも、読売が大好きだし、大きくいって新聞に愛情を持っているんです。あれだって、愛情をこめて書いたつもりで、エゲツないバクロなんか、何もないじゃないですか。そうじゃありませんか」

友人がいった。

最後の事件記者 p.434-435 私は一人で護国青年隊事件を

最後の事件記者 p.434-435 「三光」という支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本のことで、この暴力団はK氏をおどかし、絶版を約束させたばかりか、金をおどし取ったという話を聞いたのである。
最後の事件記者 p.434-435 「三光」という支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本のことで、この暴力団はK氏をおどかし、絶版を約束させたばかりか、金をおどし取ったという話を聞いたのである。

ある先輩は忠告してくれた。
「書きたい、いいたいと思うだろうが、裁判が済むまで、何も書くなよ。そして、また社へ帰ってくるんだ。無罪になる努力をするんだ。書くなよ」——何人もからこの有難い言葉を頂いた。だが、私はこの教えにそむいて、書いてしまった。
文春を読んだ先輩がいった。
「惜しいことをした。どうして、あれに批判を入れたのだい? あの一文で、君が筆も立つし、記者としての能力も、十分証明しているのに、社に帰るキッカケをなくしたよ」
「しかし、ボクは今でも、読売が大好きだし、大きくいって新聞に愛情を持っているんです。あれだって、愛情をこめて書いたつもりで、エゲツないバクロなんか、何もないじゃないですか。そうじゃありませんか」
友人がいった。

「オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ」

私は無罪をかち取りたかった。私の「犯人隠避」の構成要件の第一である「拳銃不法所持犯人という認識」がなかったからだ。私は、東大名誉教授、法務省特別顧問で、刑法学の権威である小野清一郎博士に弁護人をお願いにいった。先生は第一番にいわれた。

「文春を読みましたよ。あの、記者としての反省、あれがなければダメですよ。よく気がつかれましたね」この言葉は、先生の新聞観なのではなかろうか。

そのほか、数多くの反響がある。だが、まず一つの事件を語ろう。

護国青年隊の恐喝

昨三十二年春、私は一人で、護国青年隊事件というのをやった。この右翼くずれの暴力団が、進歩的出版社として有名な、「光文社」のK編集局長をおどかしたということを、私はある右翼人から聞いた。

同社が出版した、「三光」という、支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本のことで、この暴力団はK氏をおどかし、絶版を約束させたばかりか、金をおどし取ったという話を聞いたのである。

私はこの話を聞くと、即座に二つの面からするニュース・バリューを感じた。一つは右翼くずれの暴力団が、いよいよ金に困って、出版言論に干渉しはじめた。これは言論の自由にとって、

重大な問題だということだ。

(写真キャプション カッパブックスの『三光』は残虐写真で売った)

第二は、その進歩的出版物で売り出した、光文社のベストセラー・メーカーのK氏が、暴力に屈して絶版を約束し、現にその広告の撤回をはじめた、という点である。その辺の売れるならエロでもグロでもといった、商売人根性丸だしの出版屋と違って、「三光」の出版意図を読んでも信念のあるはずの編集者だからである。

すぐ調査をはじめた。これが右翼人というニュース・ソースをもっていた私の強味である。K氏は否定するが、広告代理店を調べてみると契約した有効期間内に広告を撤去したことは事実だった。

光文社の編集室と同室の、他の編集の人たちに当ってみると、おどかしの光景は手に取るように判った。彼らが、K氏の机を叩いてドナリつけ、光文社の編集記者一同は、息を殺して机

にうつぶし、横眼で様子をうかがい、K氏はふるえていた、とその人はいう。