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正力松太郎の死の後にくるもの p.040-041 彼女の新聞記者遍歴

正力松太郎の死の後にくるもの p.040-041 私が、三大紙についての、象徴的な分析を発見したという録音テープの談話の主が、このオシゲであり、解析者というのも、オシゲその人であったのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.040-041 私が、三大紙についての、象徴的な分析を発見したという録音テープの談話の主が、このオシゲであり、解析者というのも、オシゲその人であったのである。

当時の警視庁クラブ詰め記者気質についていうならば、ともかく、〝呑む、打つ、買う〟の三道楽は、ある意味での美徳として、決して、非難さるべきものでなかったことは確かである。従って、このキャップ会の〝宴会〟が、刑事部長の意図した通りの効果を納め得たかどうか、〝言論統制〟が行なわれたかどうかについては、また稿を改めねばなるまい。

当時の新聞社の人事管理は、現在に比べると大変であったに違いない。まして、その中でも社会部、社会部なら警視庁キャップという管理職は、十名近い〝事件記者〟の精鋭を使いこなさねばならないのだから、並大抵ではなかった。

刑事部長は、二次会に銀座の「M」というバーに、キャップ連を伴った。皆は、そこのマダムに紹介され、ツケが利くことになるのである。通説によると、そのママが刑事部長の愛人だったというから、その辺のところは十分にわきまえていたのであろう。こうしてキャップ連中は、部下のクラブ記者を、安心して呑ませてやれることになる。もしも、あの当時のツケが、厳しく取立てられなかったとすれば、尻拭いをしたのは、警視庁であったに違いない。

ともかく、この「M」は各社の事件記者やそのグループで、毎晩のように賑っていたのであった。勘定が安心なばかりではない。もう一つ理由があった。いうまでもない、女である。

本名S・K、通称オシゲと呼ばれる、その「M」のホステスが、豪快に酒をのむばかりか、大の新聞記者ファンであったからだ。私が、このいわゆる現代新聞論を書くに当って、三大紙につ

いての、象徴的な分析を発見したという録音テープの談話の主が、このオシゲであり、解析者というのも、オシゲその人であったのである。

ここまで書けば、「三田の奴メ、一体、何を書こうとするのか?」と、不安の胸を押えられる、各社の中堅幹部の方々が、大勢おられるに違いない。

本格的な声楽家を目指して、上京してきた彼女は、音楽学校に入学した。故郷を捨ててきたのだから、学資も自分で稼がねばならない。美人とはいえないながらも、マアマアの顔で、生来の利口さから頭の回転が早い方だから、話していて退屈しない——となれば、若い身空でバー勤めに出ても、結構、通用しようというもの。

一応は学生だから、私鉄沿線の素人下宿に入って、二足のワラジの生活がはじまったのだが、声量もタップリな、若いツヤのある声が、次第に酒とタバコに荒れて、学校の方もともすればサボリ気味。そんな、学業と生活のギャップに悩みはじめた時期に、彼女は一人の新聞記者を知った。

悩みを酒の酔いにまぎらわしていたのも、金に困って身体の切り売りをしたことなどもあったようだった。そして、そんな生活から立ち直ろうとして、彼女はその記者に、本気になって打ち込んでいったのだが、その恋にもやがて破局が訪れた。男の妻の知るところとなったからだ。

オシゲは学校もやめて、女給業に専念し、しかも、銀座のバーの渡り歩きがはじまる。「M」に移った時期が、刑事部長氏がキャップ連をマダムに紹介したころだったから、サア大変。別れ

た記者のおもかげを求めて、彼女の新聞記者遍歴がはじまりだした。

正力松太郎の死の後にくるもの p.042-043 図々しくて阿呆なのが朝日

正力松太郎の死の後にくるもの p.042-043 それは、単なるネヤの追想ではなくて、彼女なりの批判が加えられて、新聞記者論からその所属社の新聞社論、大ゲサにいえば、「現代新聞論」そのものであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.042-043 それは、単なるネヤの追想ではなくて、彼女なりの批判が加えられて、新聞記者論からその所属社の新聞社論、大ゲサにいえば、「現代新聞論」そのものであった。

オシゲは学校もやめて、女給業に専念し、しかも、銀座のバーの渡り歩きがはじまる。「M」に移った時期が、刑事部長氏がキャップ連をマダムに紹介したころだったから、サア大変。別れ

た記者のおもかげを求めて、彼女の新聞記者遍歴がはじまりだした。

社をやめてから、もうしばらく経っていた私にも、その御乱行ぶりが聞えてきたのだから、察しがつこうというものだ。記者たちと飲み歩きの果てには、明け方、警視庁クラブの長椅子に倒れこみ、クラブを我が家の如く振舞う、とまで噂されていた。

彼女の〝悲願千人記者斬り〟は、何も警視庁クラブ詰めの記者ばかりではない。明け方の朝刊〆切りまで起きている、新聞社の編集局にまで乗ッ込んでくるのだから、その日の風の吹き工合だ。こうして、私の先輩である社長までが加えられた。

さて、オシゲはやがて、中年の役付き記者と深くなった。事実上、同棲同様であったらしい。心配した上司が、その記者を遠方に転勤させてしまったものだから、家庭さえブン投げてしまったその記者も、やっと眼が覚めるといった始末。げに、中年男の恋らしい結末だった。そして、どうやら、オシゲの記者遍歴は終りをつげる。

そんな時期に、私はオシゲと銀座でバッタリと出会った。数年振りであったろう。彼女の〝回顧録〟に、私はテープレコーダーの用意をした。一人一人社名と氏名をあげて、彼女のその男の想い出が、綿密に語られてゆくのだ。

それは、単なるネヤの追想ではなくて、彼女なりの批判が加えられて、新聞記者論からその所属社の新聞社論、大ゲサにいえば、「現代新聞論」そのものであった。だからこそ、私は参考資

料として、記録を残すためテープにとったのであった。

「読売の記者は、私がエライ人との寝物語で、何をいいつけようが、そんなことを気にしたり、他人の彼女だなんてことにこだわりゃしない。女がそこにいるから抱くのよ。イタせるからイタすのよ。イタせそうだから、イタそうとするのよ。私の経験は、読売の記者が一番多かったけど、これが共通のパターンね。

一番数が少ないのが毎日の記者。これはキャップの親しいバーで、誰がキャップの彼女だか判らないから、遠慮するし、警戒するのよ。親分、子分の意識が強いのネ。据え膳にだって、自分の立場を考えて、盗み喰いさえしないのが毎日よ。古いわねえ。

図々しくて、阿呆なのが朝日よ。アタシが男を斬っているのに、その中味まで判断できずに、形ばかりをみて、オレがバーの女の子を斬ったんだ、と思いこんでいるのよ。徹底したエリート意識ね。

オレは〝大朝日新聞の記者だ〟ッてのが、ハナの先にブラ下っているの。アタシが他社の記者を斬ってきて、そのあと続いて、朝日の記者を斬っているのに、マワシの二番煎じとも知らずに、〝朝日にイタして頂いて有難いと思え〟式なの。〝目黒のサンマ〟の殿サマは、裏返しにしたのを知っててオトボケするンだけど、朝日の記者は思い上ってるから、裏返しのパッというところが、読めないのねェ」

オシゲの〝新聞論〟、いい得て妙ではあるまいか。オシゲとはそれ以来、もう何年もあっていないし、その消息も聞かない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.044-045 Fという有能な整理記者がいた

正力松太郎の死の後にくるもの p.044-045 その退社の日たるや、けだし壮観であったという。Fの敏腕を惜しんだ上司たちの肝入りで、貸し主たちが呼び集められ、積みあげた退職金から順次に、〝支払い〟が行なわれ、残った四十万が自宅へ届けられた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.044-045 その退社の日たるや、けだし壮観であったという。Fの敏腕を惜しんだ上司たちの肝入りで、貸し主たちが呼び集められ、積みあげた退職金から順次に、〝支払い〟が行なわれ、残った四十万が自宅へ届けられた。

オシゲの〝新聞論〟、いい得て妙ではあるまいか。オシゲとはそれ以来、もう何年もあっていないし、その消息も聞かない。

「畜生、辞めてやる!」の伝統

さて、ここで、古き良き時代の新聞記者について語らねばならないだろう。

まず、二人のチャンピオンをあげよう。さきごろ、大阪読売の編集局長栗山利男(読売取締役)が、読売常務・編集局長の原四郎にたずねたという。「誰か、パチンコ狂はいないか?」と。

この言葉には、解説が必要である。Fという有能な整理記者がいた。ところが、これがまた大変な競馬狂で、仕事以外は、競馬のことしか念頭にないのである。そのキャリアは、累積赤字四百万円に達したというのであるから、想像を絶しよう。もちろん、負けに負け続けたというものではない。勝つ時もあるのだが、その時は景気良く派手に使ってしまうのだから、負けた時の借金が累積してゆくのだ。

ありとあらゆる所から借りつくして、流石に身動きが出来なくなってしまった。かくし てF

は、読売を退社して、その退職金四百万円を投げ出し、一度、借金の整理をすることとなる。借金と退職金がツーペイである。これでは、家族も困ろうと、友人たちが高利貸しを口説いて利子をまけさせ、四十万円を捻出した。その退社の日たるや、けだし壮観であったという。

Fの敏腕を惜しんだ上司たちの肝入りで、貸し主たちが呼び集められ、積みあげた退職金から順次に、〝支払い〟が行なわれ、残った四十万が自宅へ届けられた。だが、Fは悠然として、この四十万円で競馬に出かけ、倍の八十万円にして帰ってきたというのだ。しかも身辺整理の終ったFは、大阪読売に迎えられて、華麗な見出しで紙面を飾っている。

Fの能力に感嘆した栗山が、「とても、普通の状態では、東京が大阪へと手放してくれる記者ではない。大阪の陣容強化のため、もっと優秀な記者がほしいものだ」として、今度は競馬狂ではなくて〝パチンコ狂はいないか〟と、原にたずねたというものである。

もう一人は、Iというカメラマン。これまた、無類の酒好きで、早朝から酒気を帯びてはいても、一瞬のシャッター・チャンスを争う報道写真にかけては、抜群の腕前ではあった。私も、幾度かIと仕事に出かけたが、彼の名人芸には感嘆させられたものであった。

多くのカメラマンは仕事に出かけると、ヤタラとシャッターを切る。紙面に使われるのはタダの一枚の写真なのに、沢山写して、デスクや部長にえらんでもらうためだ。もっとも、未熟なカメラマンを育てるための、それが教育法でもあったのであろう。ところが、Iはいつも、仕事は

一枚限りである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.046-047 壮絶な出所進退

正力松太郎の死の後にくるもの p.046-047 競馬狂、酒好き。自らの手で掘った〝墓穴〟と嘲う者もいよう。しかし、朱筆の一本、カメラの一台に、絶大な自負がなくて、どうして退職金のすべてを投げ出せようか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.046-047 競馬狂、酒好き。自らの手で掘った〝墓穴〟と嘲う者もいよう。しかし、朱筆の一本、カメラの一台に、絶大な自負がなくて、どうして退職金のすべてを投げ出せようか。

多くのカメラマンは仕事に出かけると、ヤタラとシャッターを切る。紙面に使われるのはタダの一枚の写真なのに、沢山写して、デスクや部長にえらんでもらうためだ。もっとも、未熟なカメラマンを育てるための、それが教育法でもあったのであろう。ところが、Iはいつも、仕事は

一枚限りである。

最近は、小型カメラ全盛だが、Iの時代はスピグラ一本槍のころである。現場へ着くと、Iはただ一発のフラッシュガンを片手に握り、片手にスピグラというスタイル。フラッシュの点火を確実にするため、差込み部分をナめながら、チャンスを狙って閃光一閃。他社カメラマンがひしめきつづけるのをシリ目に、悠々と車にもどるという芸当であった。

昭和二十四年暮。当時国会担当であった私が、議員会館に女を連れこんで、温泉マーク代用にしている者が多い、という噂を聞きこんで、一晩張り込みをした時の相棒もIであった。……深夜、寒さにふるえながら待った甲斐があって、某参議院議員が、一見水商売風の女性と手をつないで会館へとやってきた。

玄関前の植え込みから飛び出した我々を見て、クダンの議員はクルリと反転、女を引っ張ったまま逃げ出した。一瞬の差で顔を写しそこねたIは、まだシャッターを切らない。二人で、待機中の車に飛び乗って、逃げた方角を追う。私が守衛にその男の顔を確認していた数分、否、数十秒のおくれがあったからだ。四国出身のK議員と判って勇躍する。

会館の周囲をグルリと走って、三宅坂方向をみると、何と、まだ手をつないだまま、二人が走っている。Iが運転手のSに落着いた声でいった。「あの二人を追い抜きざま、急カーブを切って、前を廻ってくれ」と。みると、例のスタイルでフラッシュをナめているではないか。

自動車部のSもヴェテラン、車がアメリカのギャング映画もどきの、鋭い悲鳴をあげて急転回した瞬間、車窓に構えたスピグラが光った。——翌日の夕刊一版から、トップを飾ったこの一発の写真は「噂の議員会館・門限後潜入記」の見出しを語りつくしていた。そして、この議員は翌春の参院選に落ち、衆院に廻ってきて、以来当選七回である。

Iは共同通信でデスク・クラスのカメラマンであったが、酒の上のケンカで椅子を相手に投げつけ、片眼を失明させてしまった。酔いさめたIは、退職金の全額を相手に贈って詫び、裸で読売に入社したのだという。

競馬狂、酒好き。自らの手で掘った〝墓穴〟と嘲う者もいよう。しかし、朱筆の一本、カメラの一台に、絶大な自負がなくて、どうして退職金のすべてを投げ出せようか。

私がいいたいことは、この二人の記者の行動についてではない。彼らにも、それぞれの家族もあり、家庭内の事情もあったろうから、退職金を投げ出すことについての、若干の感慨もあったであろう。個人的な事情とはいえ、退職金までもゼロにして、社をやめるという壮絶な出所進退をとりあげたいのだ。そして、二人ともその〝骨〟ならぬ〝腕〟が、立派に拾われているということだ。

古き良き時代の、ある新聞記者像として、この二人のエピソードを紹介した。読者のみならず、大新聞記者の多くの人たちには、もはや理解できなくなってしまった、この〝社を辞める〟

という感覚を、とりあげてみたかったのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.048-049 商売気のない〝孤高の新聞記者〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.048-049 「事件の読売」の社会部長として、足かけ七年もその職にあって、〝名社会部長〟の名をほしいままにしたのだから、その人となり、おおよその察しがつこう。〝孤高の編集局長〟と呼ばれる理由でもある。
正力松太郎の死の後にくるもの p.048-049 「事件の読売」の社会部長として、足かけ七年もその職にあって、〝名社会部長〟の名をほしいままにしたのだから、その人となり、おおよその察しがつこう。〝孤高の編集局長〟と呼ばれる理由でもある。

古き良き時代の、ある新聞記者像として、この二人のエピソードを紹介した。読者のみならず、大新聞記者の多くの人たちには、もはや理解できなくなってしまった、この〝社を辞める〟

という感覚を、取りあげてみたかったのである。

ある古手の記者が、原の統率する読売編集局を評して、「一犬虚に吠えて、万犬実を伝う」といった。だが、私はこの言葉を裏返して、〝一犬実に吠えて、万犬虚を伝う〟と訂正しなければならぬと思う。原の〝自信にみちた〟怒号を、バチッと自分で受止めて、万犬が〝虚〟を伝えるのを防ぐだけの、幹部級の新聞記者がいなくなったのが、編集の現状だと思う。——誰もが、現在の自分の地位と収入と、退職金とが惜しくなってしまったのである。

「畜生! 辞めてやる!」と口走るのが、事実、読売の伝統であったようである。名文家として知られた高木健夫(役員待遇)が、昭和三十年に書いている「読売新聞風雲録(原四郎編)」中の、「社長と社員」の文章に、正力陣頭指揮時代の読売の社風が、そのようにうかがわれるのである。

編集局長原四郎。常務取締役でもあって、読売の紙面制作の実力者である。国民新聞(注。徳富蘇峰の主宰した戦前の一流紙。現在も旬刊紙として、その題号だけは、細々と伝えられている)から、読売に移って、戦時中は東亜部次長、副参事。ビルマ支局長も経ている。明治四十一年二月十五日生れ。戦後は、文化部長から社会部長、整理部長、編集総務となり、取締役出版局長に出たのち、編集局長へともどってきた全くの記者。

編集局にいるかぎり、販売店のオヤジさんたちとは付合わないで済むが、出版局長ともなれば

そうはゆかない。販売店主やら広告代理店やら、ソロバン片手の交際ももたねばならない。ところが、原はそのような会合に出たがらず、部下まかせにするので、出版局育ちの部長連中が泣いたという伝説があるほどで、商売気のない〝孤高の新聞記者〟でもある。

古き良き時代に、新聞記者として育ち、幹部記者として戦争を見、戦後の反動で文化活動の盛んな時に文化部長を勤め、読売の伸張期である昭和二十年代に「事件の読売」の社会部長として、昭和二十四年から同三十年まで、足かけ七年もその職にあって、〝名社会部長〟の名をほしいままにしたのだから、その人となり、おおよその察しがつこう。〝孤高の編集局長〟と呼ばれる理由でもある。

高木は昭和二年に国民新聞に入ったのだが、しばらくして名文を買われて読売にトレードされたように、原もまた、美文をもって、国民から昭和十一年、高木に誘われて読売に移った。〝伝説〟ではあるが、原の暢達華麗な美文は、〝原文学〟とまで称されていた。

その原が、七年の長きにわたって社会部長であった時、十三年七カ月にわたって編集局長であったのが、小島文夫(故人)である。小島編集局長時代に、これらの「畜生! 辞めてやる!」という読売の伝統は、次第に薄れていったようである。

「正力社長の早朝出社は有名で、一般社員より一時間早く出て社内を一巡する。この時、だだ広 い編集局にただ一人、クズ鉛筆などを拾っている男がいる。

正力松太郎の死の後にくるもの p.050-051 「記事でとってる読者が五%」発言

正力松太郎の死の後にくるもの p.050-051 ただ一人、クズ鉛筆などを拾っている男がいる。 『あれは誰だ』『小島文夫という男です』『学校は何処かね』『社長の後輩、東大です』『あいつを部長にし給え』
正力松太郎の死の後にくるもの p.050-051 ただ一人、クズ鉛筆などを拾っている男がいる。 『あれは誰だ』『小島文夫という男です』『学校は何処かね』『社長の後輩、東大です』『あいつを部長にし給え』

「正力社長の早朝出社は有名で、一般社員より一時間早く出て社内を一巡する。この時、だだ広

い編集局にただ一人、クズ鉛筆などを拾っている男がいる。

『あれは誰だ』

『小島文夫という男です』

『学校は何処かね』

『社長の後輩、東大です』

『あいつを部長にし給え』(遠藤美佐雄「大人になれない事件記者」より。注。元読売社会部記者)」

小島は四十年十一月十五日、専務・編集主幹と昇格した直後に、社の玄関で倒れて逝ったが、その通夜の席で、記者たちは囁いた。

「ハリ公(小島の愛称)は、何のたのしみで新聞記者になったのだろうナ……」と。

彼は、その愛称をモジって、〝忠犬ハリ公〟と呼ばれるほどの正力の完全な番頭であった。 その端的な実例がある。いわゆる務台事件後の四十年六月、夏期手当をめぐる交渉委員会での発言だ。

「会社—会社の調査では、読売の読者のうち〝社主の魅力〟でとっているのが四〇%、〝巨人軍〟でとっているのが二〇%で、〝記事が良いからとっている〟というのは、わずか五%ぐらいだ。

組合—〝記事でとっているのが五%だ〟というのが、編集の最高責任者の言葉とすると、あまりにひどい。これではみんな記事を書く気も、働く気もしなくなる。

会社—社主の魅力が大きい以上、そうした記事(注。いわゆる〝正力コーナー〟と呼ばれて、当時、紙面にひんぱんに登場した正力動静記事)は扱わねばならない。批判的な読者の声も、ほとんど聞いていない(組合ニュース第十一号、六月十六日付)」

この「記事でとってる読者が五%」発言は、当時、全社的憤激をまき起し、小島は引責辞職にまで追込まれそうになったのだが、組合ニュース第十四号によれば、「会社側から陳謝」となって、危うくクビがつながった。これをもってしても、小島の人柄が判断されよう。

慄えあがった編集局長

小島のクビが危うかったことは、その前にもう一度ある。昭和三十二年秋の、例の「立松事件」の時である。売春汚職にからんで、社会部立松和博記者(故人)が、「宇都宮徳馬・福田篤

泰両代議士召喚必至」という、大誤報を放った時である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.052-053 大誤報のニュース・ソースが河井検事

正力松太郎の死の後にくるもの p.052-053 現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させよう、という、岸本派の狙いがあったのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.052-053 現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させよう、という、岸本派の狙いがあったのである。

小島のクビが危うかったことは、その前にもう一度ある。昭和三十二年秋の、例の「立松事件」の時である。売春汚職にからんで、社会部立松和博記者(故人)が、「宇都宮徳馬・福田篤

泰両代議士召喚必至」という、大誤報を放った時である。

原が、社会部長から編集局次長兼整理部長に栄転したあと、原の僚友景山与志雄が社会部長となった。古い社会部記者のタイプの、温情派であった景山は、原の後任としては、社会部長の椅子が重かったようである。おりからの売春汚職にさいして、やはり、〝ここらで一発!〟の気が動いたらしく、療養生活から出社してきたばかりの、司法記者のヴェテラン立松を起用した。

立松はいうまでもなく、昭電事件のスクープで「事件の読売」の評価を高めるに、大功のあったスター記者であった。彼は、米軍占領下で大量追放の憂き目にあった、思想検事閥に代って、GHQに迎合した経済検事閥(注。いわゆる〝馬場派〟のこと)の先達、木内曾益次長検事に可愛がられて、馬場——河井ラインに密着していたので、他社を呆然とさせる連続スクープを放つという、輝かしい経歴を作っていた。

景山には、立松のスクープ可能の〝限界〟が、十分に理解できていなかった。当時、立松のネタモトである河井信太郎検事は、現場を離れて、法務省刑事課長であったのだ。立松を部長直轄として、司法クラブのキャップであった私の、隷下には属させなかったのも、景山のアセリを示し、指揮統率上からも、誤報を生む原因となった。

なぜならば、立松は、長い療養生活から戦線復帰をしてきた直後であり、売春汚職と政界のつながりなどの、十分な基礎知識を勉強する体力も気力もなく、昭電事件当時のように、直接、逮

捕状まで見せてくれた河井検事のような、現場の検事がいなかった。(注。昭電事件における読売の派手なスクープは、事件そのものが、GHQ内部の対立からきた謀略でもあったから、逮捕状を事前に見せるだけの〝意義〟があったのである。そして、この事件に加担した経済検事閥は、この時から国家権力を私する〝よろこび〟を覚えて、検察を堕落させるのである)

立松は、私に良く、部長に対し負荷の任に耐えないことをコボしていた。もし、彼が私の指揮下にあったなら、私はあの原稿の出稿を認めなかったであろう。というのは、私の部下であった滝沢、寿里両記者とも、その内容が、当時〝怪文書〟として流れていた、マルスミ・メモ(注。代議士の氏名の上に、済の字を丸で囲った印のついた名簿)と、あまりに符合していたからである。

そして、立松記者の取材の最後のツメは、私と滝沢とが立会って、河井検事の自宅への電話取材ということになった。私が、あの大誤報のニュース・ソースが、河井検事であると公言できるのは、この事実と、立松が正式に部長、デスクに対し、「河井からの取材」と報告している事実とからである。

宇都宮、福田両代議士の、即日の告訴から、立松の現職逮捕となって、事件は大きくひろがった。検察内部の派閥対立から、告訴を受けた 岸本義広東京高検検事長の指揮の下に、「立松記者のニュース・ソースは河井検事に違いない」というので、現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させ

よう、という、岸本派の狙いがあったのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.054-055 〝研究させてみましょう〟と一言

正力松太郎の死の後にくるもの p.054-055 小野弁護士の謝礼が問題であった。本人に「ぶしつけながら……」と伺ったところが、小野弁護士曰ク。「私が、日本で一流の弁護士であるということをお忘れなければ、幾らでも結構です」と。
正力松太郎の死の後にくるもの p.054-055 小野弁護士の謝礼が問題であった。本人に伺ったところが、小野弁護士曰ク。「私が、日本で一流の弁護士であるということをお忘れなければ、幾らでも結構です」と。

検察内部の派閥対立から、告訴を受けた 岸本義広東京高検検事長の指揮の下に、「立松記者のニュース・ソースは河井検事に違いない」というので、現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させ

よう、という、岸本派の狙いがあったのである。

この時、マスコミは団結して、立松記者の不当逮捕の非を鳴らし言論の自由のための闘い、を展開した。立松は拘留がつかずに、三日目に釈放された。そこで、宇都宮、福田両代議士は、事件を国会に移し、小島編集局長を証人として喚問し、宣誓証言を求めようとしたのである。もちろん、「ニュース・ソースは河井検事」ということは、局長にも報告されていた。立松、河井の関係の過去があるだけに、〝河井のネタ〟ということで信頼されて、あの大誤報がトップになったものだ。

小島は、国会の証人喚問と聞いて、蒼くなってフルエた。証言拒否権がないのは明らかで ある。「どうしたらいいんだ」という小島の言に、私と、前任の司法クラブのキャップの萩原福三記者とで相談して、小野清一郎、名川保男、竹内誠の三弁護士を招いた。

これにもまた、エピソードがある。三弁護士に局長、部長、萩原と私の会議が開かれ、国会の証人喚問に対する、読売編集局長としてのとるべき態度が相談された。相談といっても、萩原と私とが、経過說明を行なっただけである。本社会議室で約一時間、事情を聞き終った小野弁護士はタダ一言、「難しい問題ですナ。ウチの助教授(注。小野は東大名誉教授)たちに研究させてみましょう」

会議はそれでお開きとなり、近くのレストランで夕食を差しあげて、三弁護士を車でお宅まで

お送りしたのであった。事件はその後、正力の出馬となり、同一スペース、同一活字の訂正記事で、両代議士の名誉回復を図って落着したが、さて、小野弁護士の謝礼が問題であった。

萩原と私が、アチコチ当ってみたが、このようなケースの謝金の額の前例がない。万策つきて、本人に「ぶしつけながら……」と伺ったところが、小野弁護士曰ク。「私が、日本で一流の弁護士であるということをお忘れなければ、幾らでも結構です」と。

一流の新聞社が、一流の弁護士への謝金となると、これは〝問題〟である。下手をすると、どちらかの〝一流〟にキズがつく。

小島は、萩原と私が相談した結果の、数字を記入した出金伝票を見て、目を丸くして叫んだ。

「小野先生は、〝研究させてみましょう〟と一言しゃべっただけだ! それなのに、こんなに!」

結局は説得されて局長印を押したけれども、小島は、あの時の〝蒼い顔〟を忘れて不服そうであった。彼には、人間の知的労働についての、正当な認識がなかったようである。

立松は、懲戒停職一週間、景山は一等部長である社会部長から、三等部長の少年新聞部長へと左遷されて、事件はすべて片付いた。景山の後任は、〝危険な〟社会部出身をさけて、経済部出身の金久保通雄であった。

年があけてから、立松がキャップの指揮下になかったので、直接の処分こそ受けなかったが、私には、「大阪読売の社会部次長はどうか」という、打診がきた。もちろん断った。すると、し ばらくして、「週刊読売の次長はどうだ」という。私は一笑に付した。

正力松太郎の死の後にくるもの p.056-057 気前良く何枚も女どもに呉れてやる

正力松太郎の死の後にくるもの p.056-057 私は唇を噛んで、この〝社会部と社会部記者を知らない〟新任部長の所業をみつめていた。その時だけはテーブルを引ッ繰り返して、部長と女どもを引っぱたいてやりたかった。巨人軍の試合の招待券!
正力松太郎の死の後にくるもの p.056-057 私は唇を噛んで、この〝社会部と社会部記者を知らない〟新任部長の所業をみつめていた。その時だけはテーブルを引ッ繰り返して、部長と女どもを引っぱたいてやりたかった。巨人軍の試合の招待券!

年があけてから、立松がキャップの指揮下になかったので、直接の処分こそ受けなかったが、私には、「大阪読売の社会部次長はどうか」という、打診がきた。もちろん断った。すると、し

ばらくして、「週刊読売の次長はどうだ」という。私は一笑に付した。けれども、この次には、もっと悪いポストで、私は社会部から追放されるナと、感じたのであった。

なにしろ、金久保が部長になるや、千葉銀事件、鮎川金次郎事件といったような、〝危険な事件モノ〟は、全くボツになって、無難な企画モノだけで、社会面がつくられるという状態であった。金久保は社会部育ちの古参次長たちを、逐次、部外へ出していった。小島の特命をうけたらしい、〝角をためる〟部長であった。

彼は、直ちに社会部内の現況を握るため〝管内巡視〟をはじめた。当時、司法記者クラブのキャップであった私の、御進講を受けた部長は、勉強を終って銀座のバーへと流れることとなった。

余談ではあるが、やはり、書きしるしておかねばならないことがある。馴染みのバーで馴染みの女の子たちに、社会部長就任を祝われた部長は、すっかり〝その気〟になってしまって、私の眼前で、巨人軍の試合の招待券を、気前良く何枚も女どもに呉れてやるのであった。

私は唇を噛んで、この〝社会部と社会部記者を知らない〟新任部長の所業をみつめていた。女どもの嬉々としてよろこぶ有様をみていて、酒好きと女好きでは人後に落ちない私ではあったが、その時だけはテーブルを引ッ繰り返して、部長と女どもを引っぱたいてやりたかった。巨人軍の試合の招待券! ジャイアンツ・ファンのデカや検察事務官にとって、これほどの贈り物があるだろうか。

警視庁や検察庁のクラブ記者が、夜討ち朝駈けの際に、この一枚の切符をポケットに忍ばせておれば、どんなにか心強いことか! この時の私の部長不信の念が、やがて、半年余を経て、私の横井英樹殺人未遂事件への連座となり、引責退社となるのである。そして、小島常務・編集局長は、三十一年に事業本部嘱託として入社してきた正力亨を戴いて、専務、副社長を目指しているための、〝安全運転〟であると噂されていた。

五人の犯人〝生け捕り計画〟

社会部中心の記述が続いているが、読者の御寛恕を乞いたい。が何しろ、〝事件の読売〟といわれて、三面(注。四頁時代の社会面)記事でノシてきた大衆紙である。ことに、原の社会部黄金時代のあとだけに、もうしばらく、筆を進めさせて頂くこととする。

前述したような小島の〝安全運転〟ぶりや、部長やデスクの〝事件記事圧殺〟によって、当時の読売社会部は、最近の大学のように荒廃してきた。私は、心中ひそかに決意しはじめていた。何かの事件を機会に、「社会部は事件」という実物教育をやってやろう、ということである。い

うなれば、社会部記者としてのクーデターである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.058-059 十年後の「新聞」を暗示

正力松太郎の死の後にくるもの p.058-059 『イヤ、社会部は事件だという、オレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?』 私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが、『古い』ンだって?
正力松太郎の死の後にくるもの p.058-059 『イヤ、社会部は事件だという、オレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?』 私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが、『古い』ンだって?

前述したような小島の〝安全運転〟ぶりや、部長やデスクの〝事件記事圧殺〟によって、当時の読売社会部は、最近の大学のように荒廃してきた。私は、心中ひそかに決意しはじめていた。何かの事件を機会に、「社会部は事件」という実物教育をやってやろう、ということである。い

うなれば、社会部記者としてのクーデターである。

小島局長、金久保部長、そして社会部デスクたちへの〝反逆〟である。その当時の雰囲気を私が読売を退社した直後に、文芸春秋昭和三十三年十月号に書いた、「事件記者と犯罪の間。—我が名は悪徳記者—」から引用しよう。

「私がもし、サラリーマン記者だったなら、もちろん、〝日本一の社会部記者〟などという、大望など抱かなかったから、こんな目にも会わなかったろう。(注。私は昭和三十三年六月十一日、銀座のビルで発生した、渋谷の安藤組による、横井社長殺人未遂事件にからんで、指名手配=あとで 誤認と判明=犯人の一人をかくまったカドで、犯人隠避容疑に問われた)もし、それで逮捕されたとしても、起訴はされなかったろう。

七月の四日すぎ(昭和三十三年)、多分、七日の月曜日であったろうか。警視庁キャップの萩原君が、ブラリと最高裁のクラブにやってきた。二人で日比谷公園にまで、お茶をのみに出かけた。

『オイ、岸首相が総監を呼びつけた(注。横井事件の早期解決指示のため)という大ニュースが、どうしてウチには入らなかったのだい。まさか、政治部まかせじゃあるまい』

と、私はきいた。

『ウン、原稿は出したのだが、それが削られているんだ。実際、ニュース・センスを疑うな。削った奴の……』

彼は渋い顔をして答えた。

『どうして、ウチは事件の記事がのらねェンだろう。全く、立松事件の影響は凄いよ』

『イヤ、社会部は事件だという、オレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?』

『エ? じゃ、社会部は、婦人部や文化部や、科学部の出店でいいというのか?』

私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが、『古い』ンだって?」

私はガク然とした——という記憶を、今だに持っている。萩原のこの言葉は、いみじくも十年後の「新聞」を暗示していたのであった。そして、それから旬日余りのちに、私のクーデターは失敗して、「横井事件の五人の指名手配犯人の生け捕り」計画は、ウラ目に出る。

七月二十一日の月曜日朝、部長と同道して、警視庁に新井刑事部長(前警視庁長官)を訪ねた私は、犯人隠避の事情を説明して引責退社の手続きの猶予を乞うた。翌二十二日午前中に、依願退社が決定され、私は正午に警視庁の表玄関の石段を上っていった。二十日の日曜日、別の事件のため出社した私は、旭川支局からの原稿「横井事件特捜本部は旭川に指名手配犯人の立廻り方

を手配してきた。立廻り先は……」を読んで、我が事敗れたりと知ったのであった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.060-061 前借伝票には局長の印が必要

正力松太郎の死の後にくるもの p.060-061 「何だ。ノミ屋の支払いか? ……今のうちから、前借りのクセをつけるな、酒は上手にのめよ」安サンはニコヤカに笑いながら、私の差出した伝票を丸めて、クズ籠に投げこんだのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.060-061 「何だ。ノミ屋の支払いか? ……今のうちから、前借りのクセをつけるな、酒は上手にのめよ」安サンはニコヤカに笑いながら、私の差出した伝票を丸めて、クズ籠に投げこんだのである。

七月二十一日の月曜日朝、部長と同道して、警視庁に新井刑事部長(前警視庁長官)を訪ねた私は、犯人隠避の事情を説明して引責退社の手続きの猶予を乞うた。翌二十二日午前中に、依願退社が決定され、私は正午に警視庁の表玄関の石段を上っていった。二十日の日曜日、別の事件のため出社した私は、旭川支局からの原稿「横井事件特捜本部は旭川に指名手配犯人の立廻り方

を手配してきた。立廻り先は……」を読んで、我が事敗れたりと知ったのであった。

殷鑑遠からず。私の退社、逮捕、起訴の経過をみつめていた、社会部の〝不平不満〟は、破れた風船のようにシボンで、金久保が小島に与えられた〝去勢〟任務は、望外の成果を納めたもののようであった。

立松事件、三田事件と、この半年余りの間に、立てつづけに読売社会部を襲ったアクシデントは、それから、四十年に小島が死去するまでの丸七年間、彼をして局長の椅子に安泰せしめたのである。そして、原はその間に出版局長として、外部におかれ、正力のランド熱中の影響から、読売は斜陽の一途をたどり、四十年春の務台事件当時は、まさに倒産寸前にまで傾いていたのであった。

小島の前任の編集局長、安田庄司(故人)についても語らねばならない。この人の愛称は〝安サン〟であった。小島の〝ハリ公〟と比べて、人柄が偲ばれるであろう。小島を、〝ハリサン〟と呼ぶ人はいても、安田を〝安公〟と呼ぶ人はいなかったのである。

昭和二十三、四年ごろ、まだ、チンピラ記者であった私が、どうしても金の必要に迫られた時、社で前借をすることを、社会部の先輩に教えられた。だが、この前借伝票には、当該局長の承認印が必要であった。私は、金参千円也、と書いた伝票を持って、勇を鼓して局長室のドアをノックした。

安サンは、初めて見る若い記者の入室に、いぶかし気な表情をした。私としても、はじめて編集局長とサシで会う次第だ。私が差し出した伝票を見て、安サンはいった。

「何だ。ノミ屋の支払いか? ……今のうちから、前借りのクセをつけるな、酒は上手にのめよ」

赤くなって、酒代を否定しようとする私をみて、安サンはニコヤカに笑いながら、私の差出した伝票を丸めて、クズ籠に投げこんだのである。ハッとする私に、安サンはおもむろに、自分の財布から三千円を取出して、「返せたら、返せよ」といった。——これが、〝安サン〟であった。

こうして編集局長の人となりと社業のおもむくところを眺めてみると、あるグラフが描かれるのである。第二次争議で、鈴木東民編集局長を追放して、〝共産党機関紙〟から脱け出した読売の、昭和二十三年以降の二十年代における飛躍的な伸びは、安田編集局長時代であったし、毎日を完全に蹴落して、朝日、読売の角逐時代を迎えられたのは、原四郎になってからである。小島時代の昭和三十年代は、事実、「新聞」なるものの、体質変化の過渡期でもあったろうが、読売の発展とはいい得ないであろう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.062-063 読売の社史・日本新聞年鑑

正力松太郎の死の後にくるもの p.062-063 二十一年五月、題号をもとの読売新聞に改め、二十五年六月、有限会社を株式会社に改組して、資本金を二、四三〇万に増資。二十七年十月には大阪読売新聞社を創立し、年来の素志たる関西進出を実現した。
正力松太郎の死の後にくるもの p.062-063 二十一年五月、題号をもとの読売新聞に改め、二十五年六月、有限会社を株式会社に改組して、資本金を二、四三〇万に増資。二十七年十月には大阪読売新聞社を創立し、年来の素志たる関西進出を実現した。

社史にはない二度のスト

ここでもう一度、読売の社史にふれておかなければならない。これは、昭和四十年版の日本新聞年鑑によるもので、読売の報告にもとづいたものである。

「本紙は明治七年十一月二日、芝琴平町の日就社から創刊された。題号の『読売』は三百数十年前から、京阪や江戸の町で売られていた〝読売瓦版〟に由来するものである。

当時、他の新聞がむずかしい文章で、政論をたたかわすのを主としていた中に、本紙はふりがなつきの読みやすい、大衆向きの新聞を作って人気を得た。

十年三月、銀座一丁目京橋のたもとに移転、二十年代にはいって高田早苗、坪内逍遙が相ついで主筆となるにおよび、文芸新聞としての色彩を濃くし、幸田露伴、尾崎紅葉が入社、後には泡鳴、秋声らの自然主義運動の本拠たるの観を呈した。

関東大震災では、全焼の厄にあったが、翌大正十三年二月、正力松太郎が第七代目の社長とな

るや、独創的な企画や紙面の刷新によって、驚異的な発展をとげるにいたった。

昭和十五年には九州日報、山陰新聞、十六年には長崎日々、静岡新報を合併し、十七年には樺太の四新聞を統合して、本社経営のもとに樺太新聞を創刊し、同年八月には、長い歴史のある報知新聞を合併して、題号を読売報知と改めた。

第二次大戦の終りごろ、軍部の新聞統合案に対し、正力は身をもってこれに反対し、辛くもその実現をはばんだが、昭和二十年十二月、戦犯の容疑を受けるに及んで社長を退き、後任に馬場恒吾を推して社長とした。

二十一年五月、題号をもとの読売新聞に改め、二十五年六月、有限会社を株式会社に改組して、資本金を二、四三〇万に増資。二十六年一月、馬場が退き、安田が代表取締役副社長に就任。二十七年十月には大阪読売新聞社を創立し、年来の素志たる関西進出を実現した。

二十九年十一月、創刊八十周年を迎えるに当たり、資本金を一億四、五八〇万に増資した。三十年二月、安田死去し、代わって務台光雄が代表となった。

同年四月、英字日刊紙ザ・ヨミウリを発刊、同年六月、高橋雄豺が代表取締役副社長に就任した。

三十二年五月、読売会館を建設、三十三年七月一日、株式会社日本自動車会館を合併して、資本金一億五、三三〇万となった。三十四年、北海道支社を開設し、タイムズ式ファクシミリを用

いて、東京最新版の現地印刷を開始した。

昭和三十八年八月、朝刊十六ページ、夕刊十ページ建てで、三○○万の発行にせまられ、第二別館を建設、超高速度輪転機を四十八台とした。三十九年九月。北九州市小倉区に西部本社を創立、九州進出を実現した」

正力松太郎の死の後にくるもの p.064-065 鈴木東民らは社長以下の退陣を要求

鈴木東民が組合長であるとともに編集局長に就任した。馬場は編集権を自分の手にとりもどすことに苦慮し、鈴木ら六名に勇退を求めたが、応じなかったので解雇することにした。第二次争議は、これを動機として起った。
正力松太郎の死の後にくるもの p.064-065 鈴木東民が組合長であるとともに編集局長に就任した。馬場は編集権を自分の手にとりもどすことに苦慮し、鈴木ら六名に勇退を求めたが、応じなかったので解雇することにした。第二次争議は、これを動機として起った。

三十二年五月、読売会館を建設、三十三年七月一日、株式会社日本自動車会館を合併して、資本金一億五、三三〇万となった。三十四年、北海道支社を開設し、タイムズ式ファクシミリを用

いて、東京最新版の現地印刷を開始した。

昭和三十八年八月、朝刊十六ページ、夕刊十ページ建てで、三〇〇万の発行にせまられ、第二別館を建設、超高速度輪転機を四十八台とした。三十九年九月。北九州市小倉区に西部本社を創立、九州進出を実現した」

会社側の社史には書かれていないが、第一次、第二次のストがあった。「組合史」第一巻(昭和三十一年、読売従組発行)にはこうある。

「一九四五年十月二十五日、読売新聞社の全従業員をふくむ、読売新聞社従業員組合が結成された。これが今日の我々の組合の出発点である。

九月十三日、論説委員鈴木東民ほか四十五名が、社内改革の意見書をつくり、主筆、編集局長の退陣を正力に申入れた。これを拒否されて、鈴木らの民主主義研究会は、社長以下の退陣を要求、正力は十月二十四日に、鈴木ら五名の退社を申し渡した。かくて、二十五日の組合結成とともに、第一次争議に突入した。

そこに、正力の戦犯容疑の逮捕状が出たので、十二月十二日、正力社長、高橋副社長、中満編集局長、務台常務は退任し、馬場社長、小林光政専務、鈴木編集局長の陣容となり、第一次争議は

解決の形となった。

鈴木東民が組合長であるとともに編集局長に就任したので、編集はもちろん人事や業務の全般に対して、経営協議会を通じて有力な発言をなしうることとなったため、実質的には、第一次争議中の組合の業務管理がそのままつづいている形であった。そのため馬場は編集権を自分の手にとりもどすことに苦慮し、四六年六月十二日、鈴木ら六名に勇退を求めたが、応じなかったので解雇することにした。第二次争議は、これを動機として起った。

その後、七月十四日から十七日まで、新聞発行は不可能となり、十七日、分裂した組合、刷新派組合員が大挙して工場を明渡し、十八日から新聞が印刷刊行された。

その間、GHQの両派応援の介入、日本新聞通信放送労働組合のゼネスト計画の失敗などの曲折を経て、十月十六日、鈴木東民以下の依願退社扱いによる解決をみ、分裂した組合もまた、従業員組合として一本化した」

この第一次、第二次争議の、詳しい事情は、「組合史」が文献中心の表現をしているのに対し、赤沼三郎「新聞太平記」(昭和二十五年、雄鶏社)(注。読売政治部出身の政治評論家花見達二のペンネームといわれる)は、このストの経過について、正力、高橋、務台、八反田、岡野、品川、清水らの現存幹部たちの役割りについてまで、情景タップリに叙述しており、馬場は主筆に迎えた岩淵辰

雄の提案をうけて、廃刊の決意を固めたという。七月十四日、新聞が停った日だ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.066-067 七月十四日、新聞が停った日だ

正力松太郎の死の後にくるもの p.066-067 『赤色新聞として汚名と害毒を世に流すよりも、いまここで七十年の読売の歴史を完全に閉じるが良い。そして読者にもお詫びしたい。~世の指弾をあび、蔑視の渦中にさらされて、何で読者大衆にまみえる顔があるであろう』馬場は壇上で泣いた
正力松太郎の死の後にくるもの p.066-067 『赤色新聞として汚名と害毒を世に流すよりも、いまここで七十年の読売の歴史を完全に閉じるが良い。そして読者にもお詫びしたい。~世の指弾をあび、蔑視の渦中にさらされて、何で読者大衆にまみえる顔があるであろう』馬場は壇上で泣いた

この第一次、第二次争議の、詳しい事情は、「組合史」が文献中心の表現をしているのに対し、赤沼三郎「新聞太平記」(昭和二十五年、雄鶏社)(注。読売政治部出身の政治評論家花見達二のペンネームといわれる)は、このストの経過について、正力、高橋、務台、八反田、岡野、品川、清水らの現存幹部たちの役割りについてまで、情景タップリに叙述しており、馬場は主筆に迎えた岩淵辰

雄の提案をうけて、廃刊の決意を固めたという。七月十四日、新聞が停った日だ。

「『赤色新聞として汚名と害毒を世に流すよりも、いまここで七十年の読売の歴史を完全に閉じるが良い。そして読者にもお詫びしたい。そのつもりで全従業員に訴えたい』

聞いていた重役は、みな泣いた。品川重役はたまりかねたか、

『社長、そんなことは思いとどまって下さい。わたしが今一度、工場へいって頼んでみますから……』

拳で涙をぬぐって出ていこうとする。もうそんなことが、なんの効果もないことは、みんなよく判っていた。

……輪転機は鳴りやんだ。新聞発行は停った。工場は暗黒になった。射るような夏の西日が、葬儀車のようにならんだ発送トラックを照らしつけた。工場は乗取られた。

……千九百名の社員が大ホールに集められた。空爆でただれ焦げた大ホールだった。馬場は壇上に立った。

『光栄ある伝統の本社も、ここに七十年の歴史を閉じるほかない。世の指弾をあび、蔑視の渦中にさらされて、何で読者大衆にまみえる顔があるであろう』

馬場は壇上で泣いた」

このあとに工場奪取の提案がなされ、青年行動隊が組織される。活字ケースをひっくり返されないため、千三百人の再建派が、青行隊を先頭に、四百人の籠城する工場を攻撃しようというのだ。当時は用紙割当制時代だから、すでに三日の休刊、活字ケースがバラされたら、さらに十日も休まねばならない。そしたら、割当てがなくなる。自然廃刊になるという危機感が、みなをいらだたせる。

「『万一の場合、死んでくれるものが、青行隊のなかに何人あるのか、すぐ調べてくれ』

それはもう真夜中であった。事は急を要し、秘密を要する。……青行隊の鈴木、鹿子田が、決死の覚悟の青年を点呼してみると、十三名あった。武藤委員長の前に、ひとりひとり呼ばれた。

『大丈夫か、やってくれるか』

『お父さんはいるか? お母さんは?』

そして、つぎつぎ固い約束が交わされた。さすがに、家族のことを口にすると、みんなおたがいに涙が流れた。

工場の二つの入口から、七名と六名が突入して活字の馬を奪還する。……青行隊が、活字台に伏せた、その体をふみこえて、工場に突入。……夜十一時五分前、再建派が青行隊を先頭に工場に向ってナダレを打った。

……『新聞が出ました。いま、再刊一号が出ました』

馬場は電話口で声をあげて泣いた。

『ありがとう。ありがとう。ありがとう』」

正力松太郎の死の後にくるもの p.068-069 毎日がストの洗礼を経なかった

正力松太郎の死の後にくるもの p.068-069 青地晨が、朝日—毎日をとりあげ、「大きく引きはなしている朝毎両紙の王座が、にわかにゆらぐものとは思えないのである」といっているが、青地の、読売と正力に対する認識不足は嘲うべきであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.068-069 青地晨が、朝日—毎日をとりあげ、「大きく引きはなしている朝毎両紙の王座が、にわかにゆらぐものとは思えないのである」といっているが、青地の、読売と正力に対する認識不足は嘲うべきであった。

……『新聞が出ました。いま、再刊一号が出ました』

馬場は電話口で声をあげて泣いた。

『ありがとう。ありがとう。ありがとう』」

朝日のストについて細川隆元が「朝日新聞外史(騒動の内幕)」(昭和四十年、秋田書店)を書いているが、花見と細川の筆力の違いもさることながら、終戦直後と昭和元録という、時代背景の差もあって、この読売争議ほど、朝日のはドラマチックではない。

もっとも、朝日もまた、終戦直後には、民主化騒動を経ているが、読売のそれにくらべると、正力の下獄などという、緊迫感の盛り上りに欠ける。さすがに読売は〝事件の読売〟だけのことはあると、改めて、花見の文章に酔ったほどであった。

読売と朝日とが、戦後、このような騒動によって、体質の改善が行なわれたのに対し、毎日がストの洗礼を経なかったことで、今日の朝読—毎日の差がついたという人もいる。しかし昭和二十八年に青地晨が、その著の「好敵手物語」に、朝日—毎日をとりあげ、「部数において朝日四百三万九千余、毎日四百五万五千余と、読売(東京)百八十九万七千余と産経百二十一万余部=二十七年二月現在、新聞協会編ザ・ジャパン・プレスより。但し数字は公称=を、大きく引きはなしている朝毎両紙の王座が、にわかにゆらぐものとは思えないのである」といっているが、青

地の、読売と正力に対する認識不足は嘲うべきであった。

元朝日記者の酒井寅吉もまた、文芸春秋誌の「新ライバル物語」(昭和四十年十一月号)で、朝日—毎日をとりあげているが、「……読売の経営難は朝毎以上。……この値上げ競争で結局、弱小新聞はふるい落され、二大新聞(朝毎をさす)の独占化へ進んでゆく道が大きく開かれることになる」と、観測を誤っている。

務台事件後の読売の一番困難な時期、つまり、酒井寅吉が、この〝読売の経営難は朝毎以上〟と書き、朝毎の二大紙独占化を予想した時点で、編集局長となった原四郎について、さらに語らねばならない。なぜなら、予想はくつがえされて、それからわずか四年後に朝日—読売の独占化時代に突入したからである。

強まる「広報伝達紙」化

読売編集局における、局長の原四郎を評して、〝一犬実に吠えて万犬虚を伝う〟というべきである、と述べたのは他でもない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.070-071 叛骨がすでに失われている

正力松太郎の死の後にくるもの p.070-071 個性を喪失してしまっている。新聞を作る、新聞記者たちの〝個性喪失〟は、すなわち、新聞そのものの、個性喪失を意味する。
正力松太郎の死の後にくるもの p.070-071 個性を喪失してしまっている。新聞を作る、新聞記者たちの〝個性喪失〟は、すなわち、新聞そのものの、個性喪失を意味する。

強まる「広報伝達紙」化

読売編集局における、局長の原四郎を評して、〝一犬実に吠えて万犬虚を伝う〟というべきである、と述べたのは他でもない。

局長と部長クラスとの間に、「断層」がありすぎるからである。「断層」については、さらに説明を加えねばならないであろう。前稿において、原を〝孤高の新聞記者〟と評し、〝古き良き時代〟における、ある新聞記者像として、二人の男の〝社を辞める〟という感覚を紹介したことを、読者は想起して頂きたい。

つまり、現在の部長クラス以下の、中堅幹部たちに、「畜生! 社を辞めてやる!」という、叛骨がすでに失なわれているのだ。個性を喪失してしまっている。新聞を作る、新聞記者たちの〝個性喪失〟は、すなわち、新聞そのものの、個性喪失を意味する。

早い話が、さる四十四年六月二十九日付の読売第十七面の「社告」の例がある。

「読売新聞はさる六月一日から紙面を刷新、連日二十ページとしてニュース面の拡充をはかるとともに、うち四ページをテレビ・ラジオ欄と読者の投書を主体として構成、扱いやすく読みやすい別刷りシステムをとってまいりました」

従来、何枚重ねかになっている新聞の、真ン中あたりのページにあったラジオ・テレビ欄を、これでは、番組探しのさいに、いちいち引ッ張りだしてくるのが面倒臭いので、手ッ取り早くラ・テ欄が見られるように、四ページの別刷りの、第二、第三面見開きに移すという「紙面刷新」を行なったということだ。

その結果、この別刷りの第一面に、読者投稿の気流欄と、呼び物の「昭和史の天皇」をすえ、

第二、第三面がラ・テ欄となった。こうすると、「読売新聞」の「新聞」たる所以である、政治、経済、社会の各面には全く〝触れる〟こともなく、新聞の中味を、折込広告と共に抜きとり、「扱いやすく読みやすい」ラ・テ欄に直行できるという仕組みになったわけである。

(承前)「これは幸い読者の圧倒的な支持を受けておりますが、本社によせられた多数のご意見のうち、別刷り四ページについて、テレピ欄は最初の面にあった方が、さらに便利だ、という向きが、日を追ってふえております。ごもっともなご意見ですので、七月一日から別刷り四ページを改定、ご希望にこたえることに、いたしました」

こうして、別刷り四ページの第一面がテレビ欄、第二面がラジオ・プロと放送ニュース、読みもの、第三面が「昭和史の天皇」「気流」「時の人」という、構成に変った。第四面は、従来からの全面広告である。

いうなれば、何の変哲もない「お知らせ」ではあるが、意味するところは大きい。

新聞はかつて、ラ・テ番組の掲載は、これを広告とみなすべきで、スポンサーの広告料で番組を作っている民放なのだから、この番組掲載に対して、ラ・テ局は広告料を支払うべきであると、主張したことがあった。たしかに、スジ論としては、この主張は正しかったが、民放に一蹴されてしまい、さりとて、ラ・テ番組のボイコットも叶わず、恥をかいただけで、この「番組広告論」は鳴りを静めてしまった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.072-073 読売の変り身の早さ

正力松太郎の死の後にくるもの p.072-073 朝日の政治紙、読売の大衆紙としてのスタートの違いもうかがわれる。読者大衆に媚びてゆく変り身の早さが、トップの座を、読売がおびやかすという、〝秘訣〟でもあるのだろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.072-073 朝日の政治紙、読売の大衆紙としてのスタートの違いもうかがわれる。読者大衆に媚びてゆく変り身の早さが、トップの座を、読売がおびやかすという、〝秘訣〟でもあるのだろう。

今、こうして、読売のさりげない社告をみる時、今更のように、変質してしまった「新聞」なるものの姿に、眼を見張らざるを得ないのである。

読売が、別刷り四ページの企画をたてたとき、その第一面に、「気流」のスペースをひろげて、持ってくるということを決めたのは、実に、〝新聞記者の良心〟の、最後の抵抗であったろうと考えられる。

だが、時代の波は、その〝記者の良心〟をも、わずかに一カ月で、とうとうと押し流してしまったのであった。

別刷りとはいえ、第一面にテレビ・プロがくるということは、これまた、サンケイが一週間のラ・テ番組の別刷りを折りこみでつけた時の、新聞界の紛争を想い起こさせよう。サンケイ新聞のラ・テ新聞の付録と、読売の別刷りとは、五十歩百歩である。

朝日の紙面刷新は、社説の活字を大きくして、「時の人」と投書欄とを組ませて、一ページを構成することであった。そして、これを「オピニオンのページ」と名付けた。読売のそれは、社説ではなくして、実際に読まれている「昭和史の天皇」を、投書と時の人とに組ませることであった。

ここらあたりに、朝日の政治紙、読売の大衆紙としての、それぞれのスタートの違いもまた、うかがわれるのであるが、一カ月にして、新聞のメンツをかなぐりすてて、読者大衆に媚びてゆ

く読売の変り身の早さが、朝日が百年にして築きあげたトップの座を、読売が五十年にしておびやかすという、〝秘訣〟でもあるのだろう。

オリンピック後の新聞広告不況時代に出てきた、「番組広告論」が民放に一蹴されたというのも、「新聞」がもはや「社会の木鐸」ではなくなってきているという、体質の変化を物語る一事例であり、かつ、読売のこのページ建ての変更が、それを裏付けている。

朝日を取材した。会社側の代表格で、渡辺誠毅常務にインタビューしたことがある。話題は東大OBの会の「意見広告」を朝日が掲載しなかったことと、宅配制度の見通しについてで、渡辺はこう語る。詳しい話は後述することにして、要約するとこうだ。

「宅配は全くはなくならない。料金を値上げするなら、紙代と配達料との二本立て計算というのが合理的な考えである」「しかし、日本の実情では、合理的だからといって、そのまま実行に移すことはむずかしい」「もしも、スタンド売りが中心になったとすれば、三億円事件のようなものがあれば売り切れ、何もなければ、大量の売れ残りといったように、部数が安定しない。部数が安定しないということは、経営を危うくするものだ」

広告主の紙面への干渉が、出稿・掲載という経済行為だ、と割り切れない〝日本的〟な習慣だと非難しながらも、今度は販売、拡張面では、その〝日本的〟な習慣を逆手にとって、読者の固定化を図ろうというのである。これは広告主の編集権への侵害であると同時に、読者の紙面撰択権

への侵害でもある。新聞とは、〝大朝日〟においてすらも、かくの通り、〝御都合主義〟であるということを示している。

正力松太郎の死の後にくるもの p.074-075 大新聞の「広報伝達紙」化の傾向

正力松太郎の死の後にくるもの p.074-075 これからの「マスコミとしての新聞」は、読者不在の傾向が強くなってゆく。それが、朝日、読売の〝超巨大化〟を推進して、言論機関としての機能が退化し、広告面を中心とした〝広報伝達紙〟の形をとってくるであろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.074-075 これからの「マスコミとしての新聞」は、読者不在の傾向が強くなってゆく。それが、朝日、読売の〝超巨大化〟を推進して、言論機関としての機能が退化し、広告面を中心とした〝広報伝達紙〟の形をとってくるであろう。

広告主の紙面への干渉が、出稿・掲載という経済行為だ、と割り切れない〝日本的〟な習慣だと非難しながらも、今度は販売、拡張面では、その〝日本的〟な習慣を逆手にとって、読者の固定化を図ろうというのである。これは広告主の編集権への侵害であると同時に、読者の紙面撰択権

への侵害でもある。新聞とは、〝大朝日〟においてすらも、かくの通り、〝御都合主義〟であるということを示している。

渡辺は、宅配崩壊後の〝新聞のあり方〟についての質問の中で、わずかにこの程度の具体論にサッとふれただけで、得意の専門分野の〝未来の新聞〟へと、体をかわしてしまったのである。

私は反問した。「部数が不安定では、経営が不安定だというのは、新聞経営者としての一方的な考え方であって、そこでは、〝読者不在〟ではないでしょうか」と。

事実、これからの「マスコミとしての新聞」においては、いよいよ読者不在の傾向が強くなってゆくのである。それが、朝日、読売の二巨大紙の〝超巨大化〟を推進して、いわゆる言論機関としての機能が退化し、意見広告などの、広告面を中心とした、〝広報伝達紙〟の形をとってくるであろう。

意見広告のすう勢は、同時に、言論機関としての、ミニコミ、小新聞、ガリ版新聞の隆盛を促してくるのだ。ここに、ハッキリと大新聞と小新聞の機能別併存が約束されよう。

私は渡辺との会見で、このような判断の確信を得たのだった。

読売の別刷り第一面から、投書欄が〝敗退〟したということ、それが、たとえかねてからの予定の〝撤退作戦〟であろうと、なかろうと、これは、大新聞の体質が、〝広報伝達紙〟に転換しつつあることを示している。

かつての読売編集局長の小島が、「社主の魅力でとっている読者が四〇%、巨人軍でとっているのが二〇%、記事が良いからとっているのが五%」と述べて、全社的失笑を買った話は、前稿で紹介したが、いまや、正確にいうならば、「新聞をとっている」理由の大部分は、ラジオ、テレビという新しい媒体が出現してくる以前からの、長い間の〝慢性的習慣〟であり、そして、新しい世帯の読者は、「ラジオ・テレビ番組があって便利だから」というのが、真相に近いのではあるまいか。

すでに、「社説」が盲腸化したことは、論説委員の質的、社内的評価の下落とともに、万人の認めるところであり、かつ「投書欄」の投稿者が、固定化し、プロ化していて、もはや、〝読者の声〟を反映していない事実もまた、関係者のひとしく認めるところだ。

この「社説」や「投書欄」が、新聞の〝社会の木鐸〟時代の、最後の名残りであった。朝日が、社説の使用活字を大きくして、組み方を変えたのも、読売が、別刷り第一面に、投書欄を持ってきたのも、ローソクの灯の最後の明るいまたたきであった。そして、この読売の別刷りのラ・テ番組に組み合わされている、放送ニュース、読みものなるものは、一般紙の娯楽紙寄り、芸能紙誌寄りの傾向を示して、わずかに、家庭・婦人欄にセックス記事の出てこないことで、一般紙としての〝権威〟を保っている、といえよう。

このような、大新聞の「広報伝達紙」化の傾向は、今後、強まるとも、決して弱まりはし な い。

読売梁山泊の記者たち p.064-065 退職金代わりに題号をもらった徳間

読売梁山泊の記者たち p.064-065 徳間のことを、もう少し書こう——「東京民報」から「埼玉新聞」に移り、そこで彼は「週刊アサヒ芸能新聞」という、タブの新聞の編集長になった。
読売梁山泊の記者たち p.064-065 徳間のことを、もう少し書こう——「東京民報」から「埼玉新聞」に移り、そこで彼は「週刊アサヒ芸能新聞」という、タブの新聞の編集長になった。

私は昭和十八年十月の読売入社であったが、戦前の実歴は、わずか一カ月。十名入社したほとんどが、間もなく入隊する。たしか、八名ぐらいが、社会部に配属されたが、慶応大学の「三田新聞」をやっていた青木照夫と、劇団の宣伝部で、新聞作りをしていた私との二人が、即日、働ける新人であった。

徳間康快は、同期でも、ひとり整理部に配属されて、とうとう、兵隊に行かなかった。そして、幸か不幸かの結論はまだだが、戦後の二度の、読売争議に関係して、読売を去ることになる。私も青木も、二度目の争議が終わった時に、シベリアから帰ってきたので、読売を辞めずに済んだのだった。

もしも、兵隊に取られずに、社に残っていたならば、私は、鈴木東民について、郷里の岩手県、釜石か盛岡に落ちていっただろう。

徳間の〝幸運〟は、読売を辞めて、左翼系の「東京民報」に入り、しかも、営業に移ったことにある。彼は、ここで、〝商売人〟としての力をつけた。

新聞社で、エラくなるには、編集ではダメなのだ。販売で、商売を覚えねばならない。原四郎が、出版局長になった時、局内外の不評は、相当にキビシイものだった。「週刊読売」などという、いまだに垢抜けない、赤字雑誌を抱えていながら、販売の会議には出ても、あとの宴会には出ないのだ、という。

販売店のオヤジたちとなんか、酒が呑めるか、という、原四郎のプライドが、欠席の理由だった、とか。それこそ、務臺光雄のバックアップがなかったら、原四郎も、出版局長止まりだったかも知れ

ない。

徳間のことを、もう少し書こう——「東京民報」から「埼玉新聞」に移り、そこで彼は「週刊アサヒ芸能新聞」という、タブの新聞の編集長になった。読売でも、「娯楽よみうり」などという、週刊紙を出したりした時代があったが、この「アサヒ芸能新聞」も、同じようにツブれた。

その時、退職金代わりに、この題号をもらった徳間は、独立して、「週刊アサヒ芸能」という、いまのスタイルの週刊誌にした。新聞スタイルを止めたのだった。そこに、「週刊新潮」の創刊などで、いわゆる〝週刊誌ブーム〟が起きて、アサ芸も軌道に乗った。

さらに、徳間と平和相互銀行を結びつける事件が起きる。平相の小宮山一族に、南方の島に勤務していた、海軍中尉がいた。読売の海軍報道班員だった、社会部の藤尾正行記者は、この男と仲良しになった。

平相の小宮山英蔵は、政治家とのコネを求め、藤尾の第一回の選挙などは、相当な応援をした、という。人によっては、〝平相の丸抱え〟だったともいう。このあたりが、平相と福田派との、付き合いの始まりだ。

だが、当選してしまうと、英蔵の思う通りには動かない。そこで、弟の重四郎を政治家にすることになる。その第一回の選挙は、徹底した金権選挙であった。もちろん落選ではあったが、埼玉県警の違反摘発が進む。

この小宮山重四郎の初出馬の参謀が、徳間だった。平相は、まず、元皇族の竹田恒徳を社長とする、 ペーパーカンパニーを作り、そこの手形を平相が割った形で、重四郎の選挙資金を捻出した。

読売梁山泊の記者たち p.066-067 徳間の大活躍が始まった

読売梁山泊の記者たち p.066-067 小宮山英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。
読売梁山泊の記者たち p.066-067 小宮山英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。

この小宮山重四郎の初出馬の参謀が、徳間だった。平相は、まず、元皇族の竹田恒徳を社長とする、

ペーパーカンパニーを作り、そこの手形を平相が割った形で、重四郎の選挙資金を捻出した。

買収工作の運動員たちが、次々と逮捕され会計責任者にまで及んだ。県警は、竹田社長の事情聴取から逮捕、つづいて候補者という構想でいた。ここで、徳間の大活躍が始まったのである。

もう、故人となったが、公卿華族の出で、警察に滅法カオの利く、芝山元子爵を徳間が担ぎ出す。学習院で、竹田社長の同期生だ。芝山は、県警本部長を訪ねて、「かりにも元皇族だ。そんな方を警察に引っ張るのか」とハッパをかけた。

小宮山派の違反は、そこで終わった。新聞雑誌に叩かれるばかりだった英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。

徳間も、新聞記者であった。しかし、彼が定年まで読売にいたら、これだけの力は持ち得なかったろう。やはり、商売の世界に入っていったからである。

新聞記者は、事実、カオが広い。だが、所詮はサラリーマンだから、商売には弱い。最後のツメが甘いのである。

正論新聞で、オートボールペンの倒産を取り上げたことがある。すると、警視庁クラブ時代の旧友、朝日紙の万代(ばんだい)記者が、訪ねてきた。ナントカ企画といったような名刺だったが、結局、二人で酒を呑んで、彼は不得要領な話をして、帰っていった。

同じように、朝日紙の央(なかば)忠邦という、創価学会記者がいた。彼が、もう一人読売だかの

記者と組んで、昭和六十一年七月の同日選で、奄美群島区の徳田虎雄候補の参謀を勤めたらしい。

二度目の挑戦だし、下馬評では徳田が保岡に勝つ、それも、公明票を押さえたからだといわれていた。そのあたりも、央が働いたらしい。

ところが、投票直前、保岡は二階堂に頼み、二階堂は竹入に頼んで、徳田に傾いていた公明票を、ひっくり返してしまった。票差は、わずか三千三百。徳田は敗れた。徳田の勝利を祝うため、鹿児島まできていた央らは、電話で、「ツメが甘いんだ!」と怒鳴られ、奄美大島へは渡れなかった。

いま、私も、ある程度の人生を生きてきてしみじみと思うことは、仕事も健康も、努力のあとは、運賦天賦。だれにも〈運命の一瞬〉を、どうつかむかの違いであろう。

激戦地へ行く奴もいれば、後方で、ノンビリする奴もいる。新宿のローカル紙「ニュー・シティ・タイムズ」を見ていたら、新宿の戸塚安全協会長になった、石油屋の大家萬次郎が、「ひと」欄に出ていた。

彼とは、北支・保定の予備士官学校の同期生。ところが、卒業の時に見当たらない。のちに聞けば、一族に将軍がいて、豊橋に転校して、卒業後は、京都連隊区付の見習士官。祇園の芸奴置屋に営外居住して、舞妓たちに竹槍の銃剣術を教えて、戦争が終わった、という奴である。

だが、私にだって、運はツイていた。新京特別市で終戦となり、在留邦人婦女子の保護をしながら、居抜きの家をまわっていて、日用日露会話という、ポケットブックを拾ったものである。

大隊の乗った貨物列車が、まっすぐ南下すると思っていたら、北上するではないか。私は、その時

から、警乗のソ連兵相手に、例のポケットブックで、ロシア語を習い始めた。関東軍には、露語教育を受けた兵隊がいるのだが、北支軍には、露語通訳はいない。