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正力松太郎の死の後にくるもの p.112-113 山特鋼の倒産時以上の規模

正力松太郎の死の後にくるもの p.112-113 週刊読売の小説、挿絵の稿料も未払いというのだから、あらゆるところの金を動員していたといってよかろう。累積赤字百二十九億円、社外での噂は、二百五十億とまで称された。
正力松太郎の死の後にくるもの p.112-113 週刊読売の小説、挿絵の稿料も未払いというのだから、あらゆるところの金を動員していたといってよかろう。累積赤字百二十九億円、社外での噂は、二百五十億とまで称された。

「正力の読売」として、零細企業から中小企業へ、そして、今日の大企業へと育ってきた読売には、いわゆるメイン・バンクがない。前年の暮、正力から三十億の金作りを頼まれた務台は、腹

案として三井、住友、勧銀などの主取引銀行で半分の十五億、これに成功すれば、残り十五億は、群小銀行の協調融資団的なものをつくって……と、考えていたらしい。

ところが、実際に動いてみると、前記三行の返事が合計三億。目標の一割にしか達しなかったという。それどころか、読売はオリンピックで借りた五億は別と思っていたが、銀行側はオリンピックだろうが、ボーナスだろうが、出た額は額というつれない返事で、暮のボーナス資金六億の借入れさえ危うかったということが、社主と組合の板ばさみになる務台に、つくづくと考えこませたといわれる。

もう一つ、〝真相〟なるものも流布されている。それは、「正力亨を副社長として読売に入れる」という、正力の案に、務台が反対したのだというものだが、私としてはこれはとらない。やはり、金繰りの問題で、読売本社をも危うくするほどの、資金のランド流出をうれえたとみるべきだろう。

そこへ、スト権確立の全員投票である。ここで読売がストに突入すれば、最後の信用を失ってもう金繰りは全くストップして、瓦壊への道を走るだけ、と判断したようである。その衷情は、辞表の「所感」中にある、「(読売が)永久に存続し発展することを希う」「本社百年の計を考え」という、切々の言葉にもうかがえよう。

このような情況下で、本紙はもとより、週刊読売の小説、挿絵の稿料も、前年十一月より未払

い(務台事件当時)というのだから、あらゆるところの金を動員していたといってよかろう。金田の契約金も分割にならざるを得ない。その結果、累積赤字百二十九億円(組合調べ)、社外での噂は、二百五十億とまで称された。

サンケイが前田久吉から水野成夫に交替した時の、累積赤字は社内説で三十六億、社外説で七十億といわれたものであるから、読売の現状は、山特鋼の倒産時以上の規模である。このような赤字の累増の一つの原因に、正力が蓄財しないので、大株主でありながら、増資に応ずる能力がないという、特異な点がある。設備投資の資金などは、普通、借入金ではなく増資で賄うものだからである。

組合が、七千五百円アップを固執した理由の一つに、新聞が儲かっているという事実がある。それが、正力個人の各事業に散らされている点を衝いているのだ。

務台専務は、このように各方面に手を拡げすぎた経営と金融操作とに、ついに辞表を出して去った。が、これが、〝踏絵〟的効果をもたらしてしまった、という意外な事実が起きてしまった。

というのは、〝正力の読売〟は、その前置詞として、〝務台あっての〟〝正力の読売〟であることが、務台の辞任によって、明らかにされたのであった。まず、組合が戦略戦術の転換をはじめた。その根拠は、〝務台あっての読売〟という、正力の名前を外した論理である。役員会は「絶対に辞めさせぬ」と狼狽し、販売店は「務台復帰」を唱えて、その旗印を明らかにした。

正力松太郎の死の後にくるもの p.114-115 反正力派というものはない

正力松太郎の死の後にくるもの p.114-115 横須賀税務署への申告をみても、正力の私生活は、極めてつつましいものであるが、務台もまた、私財の蓄積を図り、自己の勢力を貯えようという人柄ではなかった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.114-115 横須賀税務署への申告をみても、正力の私生活は、極めてつつましいものであるが、務台もまた、私財の蓄積を図り、自己の勢力を貯えようという人柄ではなかった。

読売には、反正力派というものはない。正力直系派と、非直系派とに分類すれば出来よう。というのは、実力で正力に対し得るのは、務台専務をおいて、他にいないからである。高橋副社長は、長い正力との友人関係からその席についていただけで、販売も広告も知らない。しかも、務台専務は、正力に拮抗しようという人柄ではないので、反正力派がないのである。

横須賀税務署への申告をみても、正力の私生活は、極めてつつましいものであるが、務台もまた、私財の蓄積を図り、自己の勢力を貯えようという人柄ではなかった。販売店主たちを支配している、〝務台教〟の伝説に、次のような話がある。まだ、米軍の占領中のこと、務台の令息が、古くなったオーバーを新調してくれと頼んだという。その時、彼は、財布から千円札を一枚出して与えた、という。

それほどに、身辺も飾らず、衣料の値段などには、さらに関心がなかったという、務台の清廉な人格を物語る話である。

組合もまた、務台支持だったのである。務台なきあと、組合は交渉の相手がなくなってしまった。交渉委を開いたが、列席の会社側には、誰一人として、経営の数字について責任ある交渉のできる重役がいなかった。経営者が不在になったのであった。

列席の重役諸公を見渡して若い城石書記長(社会部)がいった。「務台さんが大半の責任(注。務台所感の言葉)なら、みなさんは小半ですか」この痛烈な皮肉にも誰も答えなかったという。

もちろん、務台が辞めたのをチャンスとして、後を襲って自分が経営の任に当ろうという、風雲児の重役もいなかった。

組合が、残った重役諸公に「当事者能力なし」と結論してから、戦術転換がねられ、スト権確立全員投票の中止、七千五百円アップ撤回、務台復帰呼びかけを決定し、闘争委の投票に図った。その結果は、賛成二十八、反対二十二、無効一の少差で決った。反対二十二票は、印刷技術者として、人不足の折柄、引ッ張りだこの一、二階の工場委員で、賛成二十八票は、三階の編集から上のホワイトカラー組。彼らは務台なき読売の崩壊を憂えたのであった。

こうして務台復帰の花道は作られ、つづいての、社側の新賃金体系の撤回と二千円アップを呑んで、春闘は終り、務台専務は再び読売にもどってきた。この時の闘争委の票決は、賛成三十五、反対十九、工場の反対票は固く、前回の少差におびえたホワイトカラーの、闘争委員の出席率が良くなった点をみると、読売の危機は本物であり、春闘後の改選で、城石書記長が委員長になったことは、この組合の〝務台支持〟が、全社員に支持されたことである。と同時に、この二度の票決の内容は、ウデに職のある工場労働者と、ウデに職のない事務系労働者との、危機感の差を示しているともいえよう。

ここで特に断っておかねばならないのは、組合は春闘を終るに当って、すべてを無条件に呑んだのではなかった。「経営の姿勢を正せ」「新聞の公器性を守れ」の二条件を、会社に確約させ、 かつ、読売ランドの実態調査には、会社も協力するとの言質をも取ったのであった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.116-117 正力はつねに読売においては絶対者

正力松太郎の死の後にくるもの p.116-117 私の入社当時、編集局の中央に起ったまま、叱咤激励する正力の姿は、若さと情熱にあふれ、その魅力が若い読売を象徴していた。しかし、戦後の正力は、日本テレビで終った。
正力松太郎の死の後にくるもの p.116-117 私の入社当時、編集局の中央に起ったまま、叱咤激励する正力の姿は、若さと情熱にあふれ、その魅力が若い読売を象徴していた。しかし、戦後の正力は、日本テレビで終った。

ここで特に断っておかねばならないのは、組合は春闘を終るに当って、すべてを無条件に呑んだのではなかった。「経営の姿勢を正せ」「新聞の公器性を守れ」の二条件を、会社に確約させ、

かつ、読売ランドの実態調査には、会社も協力するとの言質をも取ったのであった。この二点こそ、「ランド」と「正力コーナー」なのであるし、かつ、ここに現在の大新聞がもっている、古いタイプの新聞の残滓が、集約的に現れてきているのである。

「正力松太郎氏は、すでに八十一歳。さすが、足腰に衰えが見える。……それと、いくらかことばが聞きとりにくい」(週刊文春四月十九日号)

それでも正力はつねに、読売においては絶対者である。だから、〝猫の首に鈴〟をつけに行く者がいない。都議会汚職の時、最後まで都会議員の辞表を出さなかった八十歳の老人と同じように、老いの一徹と信念とが、ないまざって、いよいよ絶対者として君臨する。

「思えば読売の重役商売ほどあほらしい立場はなく、労組からは突き上げられ、正力からは〝何をしているか〟と叱られ、全くたまったものでないらしい。御意に召さない忠言をすれば〝君、辞め給え〟と二言目にはクビをいい渡されるらしい。従って保身術上、何事も忍従と心得、ひたすら御機嫌伺いをしているのが、役員諸公の内務令となっている」(三月二十日付「新聞情報紙」)ほどである。

だが、「務台光雄だけは別格であったらしい。務台はただ一筋に読売の発展を祈念し、滅私奉公を信条として忠勤を励んできた。……しかし、正力は務台のただ者ならざる器を見抜きかつ恐れ、仲々枢機に参画させなかった時期もあった」(前出同紙)という。

務台専務は復帰したが、だからといって、好転の材料がある訳ではない。ただ、眼前の崩壊の危機を喰い止めただけである。事業は金繰りである。金融能力のない重役をズラリと並べて、組合に「当事者能力なし」と断定されるような経営陣に、一体、何を期待できるといえよう。

昭和十八年の私の入社当時、編集局の中央に起ったまま、叱咤激励する正力の姿は、五十九歳、若さと情熱にあふれ、その魅力が若い読売を象徴していた。しかし、戦後の正力は、日本テレビで終った。

国会議員に打って出、原子力大臣になり、勲一等を飾った正力は、読売の発展にすべてを使い果したヌケガラで、〝死に欲〟のミイラ同然になってしまったのである。

時代が変り、社会構造が変り、人心が変り、すべてが、正力の連戦連勝時代と変っているのに、昔の、成功の記憶だけで、事業ができるものではないことを、判断するだけのセンスも、カンも、そして体力も衰えてしまったのである。「正力タワー」がそれを象徴する。

中小企業のオヤジは、オヤジが先頭に立って働き、走りまわらねばならないし、その魅力で人も集まり、育ってゆく。しかし、大企業はそうではない。組織であり、その組織への信頼が融資につながる。融資が組織をすべらし、事業が成り立ってゆくのである。

読売に組織がないことは、すでに述べたことで明らかである。務台の辞任で、後継者がいない烏合の衆と化したではないか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.118-119 販売店を掌握した務台の金融手腕

正力松太郎の死の後にくるもの p.118-119 倒産の危機読売も、務台が復帰してくるや、たちまち〝不死鳥〟のように起き上った。分割支給で妥結したボーナスを一括支給に、タナ上げ退職金の支給開始までやる——務台の金融能力の実力を、まざまざと見せつけられた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.118-119 倒産の危機読売も、たちまち〝不死鳥〟のように起き上った。分割支給で妥結したボーナスを一括支給に、タナ上げ退職金の支給開始までやる——務台の金融能力の実力を、まざまざと見せつけられた。

販売の神サマ復社す

だが、務台復帰後の読売の〝復興〟は目覚ましかった。その年の暮のボーナスは、組合との妥結条件で、三回の分割支払い、第一回だけを年内、残りは越年して、一、二月に支給するという、キビシイものだったが、会社側は、全額を年内に支給し終ってしまった。

そればかりではない。私が街角で出会った停年退職者の一人は、「話があるから、お茶でものもう」と、誘うのである。聞いてみると、タナ上げになっていた退職金が、一部支給されたのだという。「イヤア、あんたの記事のおかげで、退職金まで出たよ。ありがとう」

キツネにつままれた感じだったが、その前年の秋、私は読売の現状を心配して、月刊「現代の眼」誌九月号に〝正力さんへの直訴〟の形で、「読売新聞の内幕」八十枚を発表していたのだが、それが、彼のいう〝あんたの記事〟だったのである。

つまり、それこそ、倒産の危機にまで追いこまれていた読売も、前述したような経緯ののち、務台が復帰してくるや、たちまち〝不死鳥〟のように起き上ったのである。組合もまた、完全に務台ペースにひきずりこまれ、しかも、分割支給で妥結したボーナスを、一括支給にするなどの

スタンド・プレーから、タナ上げ退職金の支給開始までやるという、何も彼も、結構ずくめのことばかり——今更のように、務台の金融能力の実力を、まざまざと見せつけられたのである。

正力と務台との出会いは、今から四十年前の昭和四年、当時、全盛の報知新聞の市内課長であった務台を販売部長として迎えたのに始まる。こうして務台専務は、正力社主の女房として、販売一本槍で歩んできたが、今日の読売の大をなした正力も、務台あってのことであった。これら正力の各種の事業の成功のカゲには、読売新聞の信用と、販売店を掌握した務台の金融手腕があったればこそであろう。

その務台が、復社してから四年、あれほどの危機の中から読売は毎日を押えて、朝日と覇を競うにいたるのだが、その概況をみてみよう。

昨年秋のABCレポート(注。新聞雑誌販売部数考査機関。スポンサー、代理店、媒体側ともに会員となり、会費で運営され、広告料金の科学的適正を期するもの。オゥディット・ビューロー・オブ・サーキュレーションの略)の数字で、朝日との実数差四十万部という大まかな表現をとってきたが、その数字は改訂しなければならない。数字は44・1~4のABC部数であるが、これらの〝戦況〟を、業界紙「新聞展望」紙の記事によってみよう。

「前号で『朝日—東京—の下向き表情』を所報し、発行部数の落ちを伝えた原因として、読売に

反撃されたことを、第一原因とした。では、具体的にどのように、朝日と読売の部数がシノギを削っているかを、つぎに示すとしよう。〈太郎坊〉

正力松太郎の死の後にくるもの p.120-121 全朝日・全読売 部数比較表

正力松太郎の死の後にくるもの p.120-121 全朝日新聞対全読売新聞 部数比較表(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.120-121 全朝日新聞対全読売新聞 部数比較表(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.120 全朝日新聞対全読売新聞 部数比較表(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.120 全朝日新聞対全読売新聞 部数比較表(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.121 全朝日新聞対全読売新聞 部数比較表(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.121 全朝日新聞対全読売新聞 部数比較表(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)

正力松太郎の死の後にくるもの p.122-123 朝日と読売がシノギを削っている

正力松太郎の死の後にくるもの p.122-123 この記事の見出しは、「著しい読売の伸び、朝日との差加速的」とあり、六百万の大台競争に、読売が激しく迫っていることを物語っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.122-123 この記事の見出しは、「著しい読売の伸び、朝日との差加速的」とあり、六百万の大台競争に、読売が激しく迫っていることを物語っている。

昨年秋のABCレポート(注。新聞雑誌販売部数考査機関。スポンサー、代理店、媒体側ともに会員となり、会費で運営され、広告料金の科学的適正を期するもの。オゥディット・ビューロー・オブ・サーキュレーションの略)の数字で、朝日との実数差四十万部という大まかな表現をとってきたが、その数字は改訂しなければならない。数字は44・1~4のABC部数であるが、これらの〝戦況〟を、業界紙「新聞展望」紙の記事によってみよう。

「前号で『朝日—東京—の下向き表情』を所報し、発行部数の落ちを伝えた原因として、読売に

反撃されたことを、第一原因とした。では、具体的にどのように、朝日と読売の部数がシノギを削っているかを、つぎに示すとしよう。〈太郎坊〉

本号では、オール朝日新聞とオール読売新聞のABC報告部数を比較して、別表を調整してみた。この表を見れば、両社の勢力分野が一目瞭然であるばかりか、全国制覇を争う宿命の明日が推測される。

一月度は朝日が読売より56万7千57部の優位にあったのが、二月、三月で大きく水がちぢまり、四月にはわずかに、15万2千9百89部という数字を示してきた。

しかも、名古屋に朝日は36万4千4百57部という部数を持っているのに対して、読売は発行していない。その数字を別にしての差であるから、読売の実質的底力が実証されるというもの。特に新聞の販売部数は、上昇線をたどっている社と、下降線をたどっている社とは、その格差が違ってくる。上げ潮の勢いはいうまでもない」(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)

同紙はさらに、朝日、読売両紙の東京管内の部数を続報している。

「全国制覇にシノギを削る朝日対読売の部数が、わずかに15万部の差となったことを、具体的数字で示したが、本号では東日本での実態を、同じようにABC部数で比較してみた。もちろん、東日本では読売が朝日を圧してたが、朝日は読売陣営に対して大々的な攻撃を加えて、44・1・15日部数を、全朝日で5百83万9千4百88部という記録を発表した。

その一月度部数を東京本社管内にみると、朝日は4万3百90部多い。二月になると、逆に読売が3万3千17部多くなった。読売が逆にまきかえしたというより、朝日の背伸びが原因したとみられる。

三月度は、9万5千2百75部となり、さらに四月度は、14万9千66部と、月を追って水は開く一方である。ここまでくると、急坂を転倒する、ひとくれの〝石ころ〟が加速度を加えるように、朝日の落差が著しくなってくる。

四月度の比較表によると、各県の実態が明瞭であるが、これからも業界の両雄は、随所に激烈な競争を展開して、覇を争うことであろう。(この表で、富山と石川は、朝日は大阪管内であるが、部数は僅かである)〈太郎坊〉(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)

この記事の見出しは、「著しい読売の伸び、朝日との差加速的」とあり、六百万の大台競争に、読売が激しく迫っていることを物語っている。さて、このような読売の部数の伸びという事実を前に、もう一度業務の務台——編集の原という、読売の実力者コンビを検討しなければならない。

さきに、原の「記者としての体質」はどうなったか、という疑問の提起をしておいた。実はそ

こに〝一犬実に吠えて、万犬虚を伝う〟と、評した所以があるのであって、新聞の体質が変ったにもかかわらず、記者としての体質は、古き良き時代そのままに変っていない、と私は考えている。原ばかりではない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.124-125 朝日・読売(東京) 部数比較表

正力松太郎の死の後にくるもの p.124-125 朝日(東京)対読売(東京)部数比較表(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.124-125 朝日(東京)対読売(東京)部数比較表(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.124 朝日(東京)対読売(東京)部数比較表(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.124 朝日(東京)対読売(東京)部数比較表(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.125 朝日(東京)対読売(東京)部数比較表(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)
正力松太郎の死の後にくるもの p.125 朝日(東京)対読売(東京)部数比較表(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)

正力松太郎の死の後にくるもの p.126-127 根ッからの新聞人〝新聞屋〟の姿

正力松太郎の死の後にくるもの p.126-127 その一語一語にこもる闘魂、気魄は、とても、七十三歳の〝老副社長〟のイメージではない。ましてや、あの〝務台教〟伝説の、円満洒脱さなど、その片鱗すらうかがえなかった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.126-127 その一語一語にこもる闘魂、気魄は、とても、七十三歳の〝老副社長〟のイメージではない。ましてや、あの〝務台教〟伝説の、円満洒脱さなど、その片鱗すらうかがえなかった。

さきに、原の「記者としての体質」はどうなったか、という疑問の提起をしておいた。実はそ

こに〝一犬実に吠えて、万犬虚を伝う〟と、評した所以があるのであって、新聞の体質が変ったにもかかわらず、記者としての体質は、古き良き時代そのままに変っていない、と私は考えている。原ばかりではない。

〝販売と業務の神様〟務台もまた、古き良き時代の〝神サマ〟であり、その〝神格〟はさらに上昇して、今や、〝務台教〟の御本尊として本堂の奥深く鎮座ましまして、販売の現況を知らないとまで、販売店主に指弾されているのである。これは、読売の一販売店主からの切々の訴えで、私もまた、はじめて知らされたことであった。

現場から〝遊離〟したといわれる、務台—原ラインによって、なおかつ、読売は着々と部数を伸ばし、〝日本一の発行部数の新聞〟という、正力社主の悲願へのコースを突っ走っている——この矛盾を何と説明できようか。

七十三歳の〝ブンヤ副社長〟

私はまず、務台代表を訪ねた。この小柄で柔和な、七十三歳の老副社長も、談「新聞論」に及

ぶと、一変して闘志みなぎる〝青年〟と化した。忙しく応接とデスクを往来しては、資料を示していう。

「確かに、もはや私は販売店を〝歩いて〟いないから、〝現場〟を知らないかも知れない。しかし、〝販売〟の何たるかは、今でも知っている」

若い。決然たる言葉であった。私は、次の言葉を待った——務台副社長の、激しく力強い言葉に、私は一瞬、我れと我が耳を疑ったのであった。

卒直にいって、私が読売記者であったころの務台専務と、「新聞論」やら、「販売政策論」などを、話題とすることは絶無であったし、面談の機会があったとしても、それは、本社モノ取材の指示か儀礼的会話にすぎなかったのである。今、こうして、「新聞論」を話題として会見してみると、その一語一語にこもる闘魂、気魄は、とても、七十三歳の〝老副社長〟のイメージではない。ましてや、あの〝務台教〟伝説の、円満洒脱さなど、その片鱗すらうかがえなかった。

そこにあるのは、根ッからの新聞人、いうなれば〝新聞屋〟の姿であった。

「六百万の大台? 馬鹿も休み休みいいなさい。読売だって、朝日だって、それどころではない。読売にとっては、打倒朝日の、朝日を追い越すという、ただそれだけの、大きな目標ですよ。朝日だって、死にもの狂いで、読売を寄せつけまいとする。両者共に、苦闘死闘の真最中だ。……六百万の大台競争などとは、まだ、遠い話だ」

正力松太郎の死の後にくるもの p.128-129 新聞の部数を論ずるならば

正力松太郎の死の後にくるもの p.128-129 四十四年二月現在の数字で、読売は五二七・二万。これに対し、朝、毎は、五六〇・〇万、四四五・一万という部数。実に、読売が三百四十万を伸ばしたのに対し、朝日百六十万、毎日六十万の増加にすぎない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.128-129 四十四年二月現在の数字で、読売は五二七・二万。これに対し、朝、毎は、五六〇・〇万、四四五・一万という部数。実に、読売が三百四十万を伸ばしたのに対し、朝日百六十万、毎日六十万の増加にすぎない。

この言葉は正確ではないかも知れぬ。だが、雰囲気だけは間違いない。務台は、青年のような熱気のこもった態度で、ある意味では〝ヤクザッぽく〟さえ感じられる〝新聞屋言葉〟で、追いこみ切れない朝日との実数差を口惜しがっていた。

それはちょうど、私たちが、下山事件で、三鷹事件で、他社との抜いた抜かれたを口惜しがり、社の付近の小汚ないノミ屋で、歯をかみ鳴らしながら、ブンヤ言葉で語り合うのにも似ていた。務台はつづける。

「私は、昭和二十六年一月、武藤三徳常務のあとをうけて、読売に帰ってきた。その当時は朝刊二頁、一枚ペラの新聞の時代だった。たしか、昭和十七年春ごろから、新聞用紙が統制になり、販売は共販だった。

私が昭和四年以来の読売へもどってきて、(注。昭和二十年十二月、正力社長辞任=巣鴨へ収監されたため=とともに、務台も辞めた)数カ月、二十六年五月には、用紙の統制撤廃となり、二頁朝刊は四頁に、さらにその十月には、三社協定で夕刊二頁の朝夕刊セット販売へと進んだ。

新聞の部数を論ずるならば、統制のワクが外され、自由競争へと移った、昭和二十六年五月の三社の部数と、現在部数との比率を見てもらわねばならない」

当時の読売は、東京本社だけで、一八六・七万、朝日、毎日両社は東京、大阪、西部、中部四本社制で、合計、それぞれ、四〇〇・二万と三八三・七万。読売の倍以上の部数であった。

それから十八年を経た、四十四年二月現在の数字で、読売は中部を除く三本社制となり、五二七・二万。これに対し、朝、毎は四本社制のまま、五六〇・〇万、四四五・一万という部数である。実に、読売が三百四十万を伸ばしたのに対し、朝日百六十万、毎日六十万の増加にすぎない。(注。数字は読売販売局発行パンフレットによる)

前稿で紹介した業界紙「新聞展望」の、朝日と読売の実数差十五万というのは、読売が名古屋本社をもたないので、その差が除かれている数字だ。私の調べた、ABCレポートによる、三社の全部数は、朝日五六〇・七万、読売五二七・二万、毎日四五三・八万ということになり、朝日、読売の差は、三十三万五千部ということである。

けだし、読売はこの十八年間で、朝日の二倍強、毎日の六倍弱の部数の伸びを示し、かつては倍以上の開きをみせていた朝日に、わずか三十三万の差で迫っているのである。

——この驚異的な伸びの原因は何ですか?

「紙面が、つねに時代と大衆にマッチしていたこと。それと、販売店が努力をつづけてやまなかったこと——」

答は即座にハネ返ってきた。ソツのない、そしてまた、〝味〟のない答であった。

だが、務台のいわんとした答は、そんなものではなかったようである。

「朝日の五六〇万、これは押し紙(注。本社が販売店に押しつける部数)が多い。ある社などは、あ

えて社名を伏せますがネ。ABCレポートで、二十万部もの水増しをしているし、読売だけは、ホントの実販売部数です。私はABCの監査委員です。ですから、その部数を、承認しなかった。水増しのウソ部数を認めれば、ABCレポートに権威がなくなる。朝日の部数は確かだが、内容は、押し紙だ。ある社の水増しも、確証がつかめた——」

正力松太郎の死の後にくるもの p.130-131 岩淵辰雄は回想する

正力松太郎の死の後にくるもの p.130-131 この計画は失敗に終って、務台の復帰となる。私は務台にいった。『読売は、正力の〝モノ〟なのだから、正力に返してやるのが本当だ』と。務台も、もちろん賛成した。
正力松太郎の死の後にくるもの p.130-131 この計画は失敗に終って、務台の復帰となる。私は務台にいった。『読売は、正力の〝モノ〟なのだから、正力に返してやるのが本当だ』と。務台も、もちろん賛成した。

だが、務台のいわんとした答は、そんなものではなかったようである。

「朝日の五六〇万、これは押し紙(注。本社が販売店に押しつける部数)が多い。ある社などは、あ

えて社名を伏せますがネ。ABCレポートで、二十万部もの水増しをしているし、読売だけは、ホントの実販売部数です。私はABCの監査委員です。ですから、その部数を、承認しなかった。水増しのウソ部数を認めれば、ABCレポートに権威がなくなる。朝日の部数は確かだが、内容は、押し紙だ。ある社の水増しも、確証がつかめた——」

務台の話は、私が質問をさしはさむ余地すら与えず、とうとうとつづく。彼の脳裡には、もはや、毎日新聞のごときは、その存在すらない。

あるのは、大朝日五百六十万部のみであった。その差を、ジリジリと詰めて行く、冷酷なまでの〝販売の務台〟の姿であった。

正力松太郎。八十四歳。当時、熱海で静かに休んでいたが、彼の全生涯を打ちこんだ読売が、日本一の発行部数の新聞になることが、彼の夢であった。イヤ、「世界一の新聞」というべきであろうか。

正力の読売に賭けた夢のほどが、前述したテレビのクイズ「プラウダか読売か」の、寓話にしのばれるのであるが、今や、読売は、報知や福島民友などといった、系列紙の発行部数を加えなくとも、自前で「日本一」に迫りつつあるのだった。

そして、その〝正力の夢〟の完成は、もはや、務台に委ねられたというべきであろう。

「正力は、務台のただ者ならざる器を、見抜き、かつ恐れ、仲々枢機に参画させなかった時期も

あった」(40年3月20日「新聞情報」紙)見方も紹介した。評論家の耆宿(きしゅく)である岩淵辰雄は、馬場恒吾社長時代の読売で、招かれて主筆を数カ月つとめたことがあるが、彼もまた、そのような〝正力の不安〟を指摘する。

「安田庄司と武藤三徳とが組んだスクラムは、読売を正力から奪おうとした、一種のクーデターである。あの当時の金で五千万円を武藤は準備していた。正力が払いこめないのを見越して、増資しようというのである。この計画は失敗に終って、務台の復帰となる。私は務台にいった。『読売は、正力の〝モノ〟なのだから、正力に返してやるのが本当だ』と。務台も、もちろん賛成した。事実、あのころの正力は、非常に疑ぐり深くなっていて〝務台に読売を奪られる〟といった感じを持っていたようだ。しかし、務台はそんなケチな男じゃない」

と、岩淵は回想する。

「務台はただ一筋に読売の発展を祈念し、滅私奉公を信条として忠勤を励んできた。だから、務台光雄だけは(読売の重役商売ほどアホらしいものはなく、という前段をうけて)別格であったらしい」

と、前出の「新聞情報」紙もいっている。

私が、読売の驚異的な発展の理由を問うたのに対し、務台の即答をソツもなければ、味もないといったのは、この辺の〝今昔物語〟に由来しているのである。務台が、いわんとしていること は、「販売の何たるかを知っている」という務台の言葉である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.132-133 敢闘に次ぐ敢闘の〝読売精神〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.132-133 岩淵のあげる務台の功績の第一は、朝日、毎日という、関西商法の新聞販売方式の盲点を衝き、本社から直接に、その小売店を工作して、毎日系の小売店を大量に、読売系列に編入した、点にあるという。
正力松太郎の死の後にくるもの p.132-133 岩淵のあげる務台の功績の第一は、朝日、毎日という、関西商法の新聞販売方式の盲点を衝き、本社から直接に、その小売店を工作して、毎日系の小売店を大量に、読売系列に編入した、点にあるという。

私が、読売の驚異的な発展の理由を問うたのに対し、務台の即答をソツもなければ、味もないといったのは、この辺の〝今昔物語〟に由来しているのである。務台が、いわんとしていること

は、「販売の何たるかを知っている」という務台の言葉である。

「確かに、もはや、私は販売店を〝歩いて〟いないから、〝現場〟を知らないかも知れない。しかし、〝販売〟の何たるかは、今でも知っている」

昭和四年、務台は、正力に迎えられて、読売の販売部長となった。岩淵のあげる務台の功績の第一は、務台の入社後数年ののちに、朝日、毎日という、関西商法の新聞販売方式(注。一県ごとに大卸し新聞店があり、その下に小売店を置いた)の盲点を衝き、本社から直接に、その小売店を工作して、毎日系の小売店を大量に、読売系列に編入した、点にあるという。

これによって、読売は大きく伸びて、今日の販売店を組織し、さきにあげた驚異的数字の伸びを示すにいたるのだ。と同時に、これが、今日の〝務台教〟の基礎ともなっているのである。そして、今日まで、務台を一筋につらぬいてきたものこそ、敢闘に次ぐ敢闘の〝読売精神〟なのであった。

「八月二十九日には大手町の新社屋の地鎮祭があるし、銀行借入金は殖えこそすれ、減る状況ではないよ。二百億もの大仕事なのだから、それこそ、全社員がフンドシを締めてかかるべき、決戦の秋なのだ」

務台は、心に期するものがあるかのように、言葉を切って、しばし沈黙した。

毎日をふり切ってもはや相手とせず、朝日追いあげに執念を燃やす彼の表情は、まさに〝勝負

師・務台〟のそれであった。朝日制覇ののちの六百万の大台のせと、新社屋の完成こそ、務台が正力の知遇に報いる、最後の花道なのであろう。

〝読売精神〟地を払うか

四十四年八月中旬ころ、読売の全社員と、新聞関係者に、務台の個人名の一通の封書が郵送されてきた。印刷物なので、ここに全文を紹介しよう。

「読売復社の挨拶(昭和二十五年三月七日)掲載紙『新聞通信』の送付について」という見出しの印刷文の末尾は、「務台光雄(読売新聞社 代表取締役 副社長)」の個人名で、肩書は括弧内に小さくそえられている。

「前略、暑さ酷しい折柄ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。降て小生儀、大正七年早大を卒業後、富士瓦斯紡績、郡山紡績を経て大正十二年から数年間、当時の報知新聞社で新聞の勉強をさせて頂き、昭和四年、正力社長のご好意により、読売新聞社に入社して今日に至っております。その間五十余年、公私、内外に亘り、いろいろのことがありましたが、日本にとり一番

大きな事件は第二次大戦と日本の敗戦であることは申すまでもありません。

正力松太郎の死の後にくるもの p.134-135 左傾—読売新聞は最も急進的

正力松太郎の死の後にくるもの p.134-135 同志と共に左右何れにも偏しない、厳正中立な新聞社を創るべく極秘裡に計画を進めておったのであります。先ず最高幹部に新聞界のベストメンバーを迎え、高速度輪転機二台を確保し、資金の見透しもつき
正力松太郎の死の後にくるもの p.134-135 同志と共に左右何れにも偏しない、厳正中立な新聞社を創るべく極秘裡に計画を進めておったのであります。新聞界のベストメンバーを迎え、高速度輪転機二台を確保し、資金の見透しもつき

「前略、暑さ酷しい折柄ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。降て小生儀、大正七年早大を卒業後、富士瓦斯紡績、郡山紡績を経て大正十二年から数年間、当時の報知新聞社で新聞の勉強をさせて頂き、昭和四年、正力社長のご好意により、読売新聞社に入社して今日に至っております。その間五十余年、公私、内外に亘り、いろいろのことがありましたが、日本にとり一番

大きな事件は第二次大戦と日本の敗戦であることは申すまでもありません。そして読売新聞と正力さんにとっても、これは最大の事件で敗戦直後の昭和二十年の十月に朝日、毎日に次いで読売にも共産党との連絡のあった戦争責任追及の争議が起り、正力社長がその解決に努力中、戦犯の指名を受け、更に十二月十一日に巣鴨に収容されることが発表されましたが、その前日、正力さんの堅い決意と体を張っての徹夜の交渉により、経営権と人事権を会社に確保し、馬場さんを後任社長に推薦し、これを決めた後巣鴨に行かれたことはご承知の通りであります。私は争議の起る前の十月五日に、終戦後に新らしく生れた日本新聞連盟の理事長に推薦され就任しておりましたが、正力社長の辞任と共に、本社の取締役は辞任し、連盟の仕事に専念しておりました。

しかし当時の新聞は敗戦の事実とソ連を含めた連合軍司令部の政策の影響を受けて、殆どの新聞が左傾し、中でも読売新聞はその指導的立場に立って最も急進的でありました。従ってこれをこのまま放置するときは、やがて日本の独立にも悪影響を及ぼし、その復興と再建に大きな支障を来すこと必至と考え、同志と共に左右何れにも偏しない、厳正中立な新聞社を創るべく極秘裡に計画を進めておったのであります。先ず最高幹部に新聞界のベストメンバーを迎えることに成功し、高速度輪転機二台を確保し、資金の見透しもつき新聞用紙の配給については、相当量につき(第一回分五十万部、以後成績に応じて増量することに)総司令部首脳の諒解を得て創刊直前にあったのであります。

しかしこのことが偶々読売の最高主脳部に伝わり、その後先方の要請により、私と馬場社長の意を受けた、武藤常務と会見、懇談の結果

一、読売新聞を正常化して、日本の再建と復興に努力すること。

二、その実現には両者が(馬場、武藤と務台)全面的に協力してこれに当ること。

三、務台は創刊準備中の新聞の発行を止めて、これに要する努力を読売の正常化と再建のために尽すこと。

このように両者の意見が一致いたしましたので、新設新聞の関係者と協力者には、卒直に事情を説明して、中止につき諒解を求めましたところ、何れも読売が正常化すれば、われわれの目的は達せられるからといって諒承して頂きました。

そこで武藤氏と会見の上、その他具体的の方策についても種々協議し、その準備にとりかかったのであります。

斯くて昭和二十一年の春から夏にかけて、世間の注目を浴びた読売の極左分子追放、主導権確立の、第二次争議は、幹部の努力と社員、販売店の協力により、小生またその責任を果して、計画通り赤化社員の退社と共に解決され、久しぶりに読売本来の姿にかえったのであります。

ところで争議の解決後小生は前の話し合いにもとづき、専務として当然読売に復帰する筈でありましたが、実際にはそれが実現せず——その後幾多の紆余曲折を経て二十五年の二月に——平

取締役として入社することになったのであります。

正力松太郎の死の後にくるもの p.136-137 読売にとっても貴重な記録

正力松太郎の死の後にくるもの p.136-137 務台の挨拶全文が記録されている。これには、務台の「新聞観」と、純一無雑な「読売への忠誠心」とが盛られている。そこに、務台がこのコピーを配付した意図がうかがわれるのであるが
正力松太郎の死の後にくるもの p.136-137 務台の挨拶全文が記録されている。これには、務台の「新聞観」と、純一無雑な「読売への忠誠心」とが盛られている。そこに、務台がこのコピーを配付した意図がうかがわれるのであるが

ところで争議の解決後小生は前の話し合いにもとづき、専務として当然読売に復帰する筈でありましたが、実際にはそれが実現せず——その後幾多の紆余曲折を経て二十五年の二月に——平

取締役として入社することになったのであります。そして翌三月七日に開かれた読売七日会(各県の代表的有力店主の会)の席上で数年ぶりに復社の挨拶をいたしましたが、その話の内容が当時、業界紙の一つであった「新聞通信」に詳しく掲載されたのを記憶しております。ところが、その新聞を小生の友人が、偶然にも今日まで保存しており、先日現物を持参して来社され、曰く『これは君にとって当時を偲ぶ記念品であると思うが、読売にとっても、貴重な記録であるから、これをファックスにとって広く関係者に見てもらったらどうか』という話があったのであります。そこで早速再読いたしましたが、二十年後の今日からみて、反省と参考になる点が多々あるように思いましたので、言われるままに、改めて増し刷りをいたしました。

斯様な次第で、その一部を同封お届け申し上げますが、お暇の折にでもお読みいただければ幸いと存じます。

末筆乍ら時節柄ご自愛専一に愈々ご健勝にご活躍の程お祈り申し上げます。 敬具」

同封された業界紙「新聞通信」紙(25年8月11日付)は、第二面の全面を使って、「務台光雄氏 読売新聞復帰第一声」という、凸版の全一段通しの横見出し。頭に、「複雑怪奇な私の復社、正力社長反対の真相に就て」という、五段の二本見出しで、読売七日会(注。販売店主の会)例会における、務台の挨拶全文が記録されている。

「務台光雄氏が復帰して、始めての読売七日会は、都内読売会幹部も交えて、七日(注。25年3月)午後二時から、日比谷陶々亭に開催。当日地方から出席した販売店八木会長以下五名、都内野村会長以下三十一名、本社から馬場社長、安田副社長、武藤常務業務局長、小島取締役、務台取締役、菊池販売部長、村田出版局総務部長、その他各部長、各担当社員列席して開会」

と、本文記事があり、馬場社長と武藤常務の挨拶を簡単に紹介したのち、務台演説の全文となっている。

これには、務台の「新聞観」と、純一無雑な「読売への忠誠心」とが盛られている。そこに、務台がこのコピーを配付した意図がうかがわれるのであるが、同時に、掲載紙が新聞業界紙であったことから、それらを記事の重点とせずに、前半の人事問題にウェイトを置いて、そのような見出しをつけていることもあって、反響は意外な形で出てきたのであった。

まず、務台の「新聞」と、「読売」への愛情を、そのコピーによって見てみよう。

「水を飲みて源を思うは人の至情なり——事の成るには必ず成るべき理由と、依って来るところがあるのであります。いつか馬場社長が拙宅へ御出でになった時、いろいろと御話を承りましたが、その時私は新聞人の在り方について、即ち新聞人の根性について御話しをいたしたのであります。

正力松太郎の死の後にくるもの p.138-139 自己の全生命を読売に託す

正力松太郎の死の後にくるもの p.138-139 愛社心とは何か、それは理屈ではない、われわれのこの感情が偶々問題にぶつかった時、止むに止まれぬ力となって外に現われたものと思うのであります。
正力松太郎の死の後にくるもの p.138-139 愛社心とは何か、それは理屈ではない、われわれのこの感情が偶々問題にぶつかった時、止むに止まれぬ力となって外に現われたものと思うのであります。

新聞人はプライドを持たなければならない、いやしくも天下の大新聞の社長ともあろう者は、他の地位に、例えそれが総理大臣であろうと、また大政党の総裁であろうと、これに心を動かして腰がふらつくようでは仕方がない、新聞には別の使命があるからこれを通すという強い信念と、高い識見がなければならない、然もこのことは一般新聞人に対しても言い得ることだといって御話し、社長もこれには全幅の賛意を表されたのでありますが、新聞に従事する者は編集、業務各々立場は異るも、これを天職とし、これに殉ずる覚悟が必要と思うのであります。

その時私は更に進んで誠に僭越ではありましたが、次の御話しをしたのであります。

私は今でも読売新聞は自分のものであると思って居る、というのはこれは所有権の問題ではない、所有権は株主にあることは勿論であるが、それは所有権を遙に超越した力強いものである。所有権はこれを他に譲渡しようと思えば何時でもできるし、また一旦譲渡すれば全く関係のなくなるものであるが、われわれのこの気持というものは如何なる権力を以ても、また如何なる金力を以ても絶対に冒すことのできない、俗に血の繋りと申しましょうか、富貴も淫する能わず威武も屈する能わざるものであります、自己の全生命を読売に託すということ、そしてこれに生活の意義を見出すということ、考えればこれは極めて平凡なことでありますが、われわれ凡人はこれに大なる誇と無限の悦びを感ずるのであります、愛社心とは何か、それは理屈ではない、われわれのこの感情が偶々問題にぶつかった時、止むに止まれぬ力となって外に現われたものと思うのであ

ります。(中略)

(読売信条については)〝われわれは真実と公平と友愛を以て信条とする〟真実とは虚のないこと、作りごとのないことである。私が私の復社について極めて概略ではありますがその要点を御話し申上げたのは、坊間これにつき無責任なる噂がとんでおる。例えば私が読売に復社したのは、こんどは前の場合とは全然反対に正力さんの推せんによるものであるとか、あるいはまた務台は正力系を代表して入ったのであるとか、更に務台の立場は品川や清水と同じであるとか、その他いろいろ為にすると思われるような風説がとび、業界に誤解を生じているのであります。

併し私が読売に復社したのは、前にも申上げた通り馬場社長の御好意によるものであり、また品川、清水の両氏が読売の重役になったのは、正力さんの株を代表して入ったのに対し私の場合は復社の上重役になるということで復社に重点があり、重役は付け足りとは申しませんがこれは第二で、その他両氏の立場とは性質が全然異るのであります。かような次第でありますからこの間における事情を明にし、真実を御伝えするのが業界のためにも、また読売のためにも必要であって、これが私の義務であり、責任であると信じましたので申上げた次第で、全く他意はないのであります、従って私の話は神明に誓って間違いのないことを特に申上げます。

言うまでもなく新聞は社会の公器であります、これは株主のものでもなければ経営者のものでもない、また社員のものでもありません。

正力松太郎の死の後にくるもの p.140-141 社員たちの受け取り方

正力松太郎の死の後にくるもの p.140-141 このコピーの見出しは、「複雑怪奇な私の復社、正力社長反対の真相に就て」とある。しかも、岩淵辰雄が指摘するように、馬場恒吾をロボット化した、安田副社長——武藤常務ラインの、対正力クーデターという、微妙な情勢下の務台復帰であった
正力松太郎の死の後にくるもの p.140-141 このコピーの見出しは、「複雑怪奇な私の復社、正力社長反対の真相に就て」とある。しかも、岩淵辰雄が指摘するように、馬場恒吾をロボット化した、安田副社長——武藤常務ラインの、対正力クーデターという、微妙な情勢下の務台復帰であった

従ってこれを運営するに当っては正力系もなければ馬場系もない、またあってはならないのであります、広く読者の心を心として使命遂行のために会社一丸となって最善の働きのでき得るようその協力体制を作ることが必要であります。

昔から派閥のある新聞は必ず読者と世間の信用を失い、やがて没落の運命を免れないのであります、私の心境は強いてこれをいうならば、読売系に属すという以外に答を知らないのであります。(中略)

馬場社長は常に新聞は読者のものであることを説き社員には謙虚たれと教えているのであります。

私はこの社長の精神と指導に遭い、安田、武藤の両君ともこん然一体となり幹部諸賢並に各位の御鞭撻の下に、心を新にして新生の一歩を踏み出し、大読売建設の礎石たらんことを切に念願するものであります」

前述したように、このコピーの五段見出しは、「複雑怪奇な私の復社、正力社長反対の真相に就て」とある。しかも、岩淵辰雄が指摘するように、馬場恒吾をロボット化した、安田副社長——武藤常務ラインの、対正力クーデターという、微妙な情勢下の務台復帰であったのである。しかも、二十五年三月にこの第一声をあげてからも、務台の読売出社は「玄関に武藤が待ってい

て、務台の出社を阻止した」(岩淵の話)などと、なかなかウマクゆかず、本人が語るように、翌二十六年一月からになるのである。

このような人事問題の部分が、見出しや大きな活字で組まれているのであるから、コピーを送られた社員たちの受け取り方は、まさに〝親の心子知らず〟であった。肝心の「新聞」や「読売」への愛情が、吐露されている部分は、活字の細かいせいもあって、見落されてしまったのである。

務台側近筋は、その意図をこう語る。

「務台さんの願いは、もう二十年も前の、あの第一次、第二次のストのころのことを知ってる人が少なくなり、戦後派の若い人たちが社員に多くなってきました。もう、〝読売精神〟といっても、それがどんなものなのか、理解されなくなってきているのです。

二万の小新聞『読売』が、正力さんが第七代の社長となってから十年で八十万、十二年で百万、十五年で百五十万、という、驚くべき躍進をとげ、戦後もまた、用紙統制の撤廃時に、百八十七万。それが、十八年間で五百二十七万という、またまたの大躍進です。

この成長の秘密は、務台さんによれば、やはり〝読売精神〟なのです。薄給にもめげず、読売と共に生き、読売と共に死ぬという、運命協同体の精神が、いわゆる〝読売精神〟なのだと説かれます。

正力松太郎の死の後にくるもの p.142-143 いうなれば〝檄〟を飛ばした

正力松太郎の死の後にくるもの p.142-143 薄給に甘んじて、読売と共に生き、読売と共に死ぬ、運命協同体の思想は、昭和三十年代までは、その神通力を発揮した。だが、「新聞」そのものの体質の変化は、この思想を現実遊離に追いやった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.142-143 薄給に甘んじて、読売と共に生き、読売と共に死ぬ、運命協同体の思想は、昭和三十年代までは、その神通力を発揮した。だが、「新聞」そのものの体質の変化は、この思想を現実遊離に追いやった。

今年はいよいよ、新社屋建設の初年度。しかも、日本制覇の朝日との決戦の年です。この秋に当り、全社員に、いうなれば〝檄〟を飛ばしたのが、あのコピーの配布でした。

もちろん、小林与三次副社長にもお見せしたし、全重役の了解もとって、やったことでした。それも、たまたま、務台さんの友人の方(注。御手洗辰雄といわれている)が、蔵書の整理をしていたらあの新聞が出てきた。発行所に聞いてみると、もう、保存もされていないという。そこで、『これは貴重な資料だから、保存されたらどうか』と、務台さんに下さった。読み返してみると、今の読売社員に訓えるべき内容を含んでいる、というので、自費で作られて、個人の資格で配られたものなのです。

ところが、全く思いもかけない反応が起きてしまって……」

思いもかけない反応——というのは、改めて説明するまでもなかろう。〝ポスト・ショーリキ〟をめぐる、正力コンツェルンの動きである。

薄給に甘んじて、読売と共に生き、読売と共に死ぬ、運命協同体の思想は、昭和三十年代までは、その神通力を発揮したのであった。だが、「新聞」そのものの、体質の変化は、この思想を現実遊離に追いやってしまった。ここに、務台—原ラインが、現場から浮いてしまっているという、私の論拠がある。

出向社員は〝冷飯〟組

さて、ここらで各社の体質をみなければならない。

昭和十八年十二月十五日現在の社員名簿によれば、有限会社読売新聞社は、代表取締役社長正力松太郎以下二千八百三十三名。しかも、ほぼ二割もの応召休職者を加えての人数だから、実数は二千名チョットであろう。それから二十年六カ月後の、三十九年六月一日現在の名簿をみると、社主(注。法的権利義務がない)正力松太郎、代取副社長高橋雄豺、代取専務務台光雄以下(注。社長空席)四千六百五名。

二十年前に現在の本館が外側六階、内側三階だったものが、増築され、さらに二つの別館ビル。札幌、高岡、大阪、北九州の四発行所を加え、完全な全国紙の態勢を整え、四十年元旦の社告によると、東京本社三百三十二万六千七百部、大阪本社百二十六万四千部、西部本社二十八万一千部、合計四百八十七万九百十四部の有代部数を発行している。人員は二倍、部数は五倍という、驚くべき発展ぶりである。

この数字に見る限り、読売は、日本三大紙の雄と、称し称せられるのも当然である。そして、

社主正力松太郎もまた、この事実に関する限り、〝偉大なる新聞人〟と、自ら誇り、かつ尊敬せらるべきことも、動かし難い事実である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.144-145 出向社員は出先での〝冷飯〟組

正力松太郎の死の後にくるもの p.144-145 世間では、読売の子会社と思われているすべての正力系会社が、すべて〝赤の他人〟で、歴史があり、有能な人材を多数かかえた読売新聞社の社員は、働き盛の五十五歳定年で、老後の生活を考えねばならない
正力松太郎の死の後にくるもの p.144-145 世間では、読売の子会社と思われているすべての正力系会社が、すべて〝赤の他人〟で、歴史があり、有能な人材を多数かかえた読売新聞社の社員は、働き盛の五十五歳定年で、老後の生活を考えねばならない

この数字に見る限り、読売は、日本三大紙の雄と、称し称せられるのも当然である。そして、

社主正力松太郎もまた、この事実に関する限り、〝偉大なる新聞人〟と、自ら誇り、かつ尊敬せらるべきことも、動かし難い事実である。

試みに、三十九年度の社員名簿をみると、総員四千六百五名の大世帯にもかかわらず、出向社員は、タッタの百六十一名という点が、問題である。その内訳は、大阪読売九六、報知印刷所二○、報知新聞一六、西部本社八、よみうりテレビ六、健保組合三、観光、映画社、日本テレビ、関東レース各二、興業、日響、福島民友、新聞輸送各一、という実情である。

昭和十八年の二千余名が、倍の四千六百にふくれた読売新聞も、ようやく、社員構成が逆ピラミッドになろうとしている。つまり、頭でっかちである。これをピラミッドの正常な形にするのが、企業としての健全な形である。そのためには、大企業は子会社を持ち、そこに幹部社員を出向させて、各々その所を得さしめるのが、当然であろう。

ところが、この出向社員数をみてみると、如何に読売新聞社の社員が、苦しむかが判然としよう。つまり、世間では、読売の子会社と思われているすべての正力系会社が、すべて〝赤の他人〟で、歴史があり、有能な人材を多数かかえた読売新聞社の社員は、働き盛の五十五歳定年で、老後の生活を考えねばならないということだ。

しかも、これらの出向社員は、すべて出先での〝冷飯〟組である。各社にはそれぞれ人事閥が確立されており、読売出向社員を冷遇している。いわんや、新聞の定年組の天降るポストなどは

皆無である。従って、新聞社員は定年が近づくと、それこそ猟官運動に没頭して、何とかして定年延長を獲得しようとする。

猟官には、良心の抹殺と迎合とオベンチャラが、絶対の要件であり、仕事は責任の回避と、同僚のアラ探し、裏切り、蹴落し、その他のあらゆる悪徳のオンパレードである。経営の悪化は、必然的に定年厳守を原則とするから、読売新聞で生き残るためには、新聞人であってはならない。

読売興業という会社は、野球部で読売巨人軍を持ち、新聞部で、九州読売新聞を持っている。しかし、興業の全株を読売新聞が持っており、巨人軍の興業権を読売新聞が持っているので、九州読売の赤字七千万円を読売が負担しているのも、巨人軍の稼ぎを読売が流用しているのも、法的には問題がなさそうである。九州読売を、なぜ興業にやらせたかというと、巨人軍が稼ぐ黒字を、税金にとられないで、九州の赤字にあてようという計画らしい。つまりは、税金で新聞をやろうというわけだ。

姉妹紙であるとみられる、報知新聞でさえ、今や、〝嫁にいった妹〟のような存在で、読売育ちの竹内四郎社長が急逝し、正力亨社長になってからは、組合の勢力拡張めざましく、竹内が懸命に試みた読売との人事交流、読売の〝植民地化〟は崩壊してしまった。大阪のよみうりテレビで六人、NTVにいたっては、タッタの二人という出向社員数が、電波との関係を物語っていよう。また、「読売広告社」なる会社は、これこそ、全くのアカの他人で、正力すら関係がないと

いう会社である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.146-147 ランドの〝死の行進〟が始まった

正力松太郎の死の後にくるもの p.146-147 関東レースは、もともと正力が追放中のウサ晴らしに始めた会社で、京浜、京成、五島慶太、川島正次郎、永野護らの応援を得て、川崎と船橋の競馬場、船橋のオートレース場を持ち、それを賃貸している、大家業であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.146-147 関東レースは、もともと正力が追放中のウサ晴らしに始めた会社で、京浜、京成、五島慶太、川島正次郎、永野護らの応援を得て、川崎と船橋の競馬場、船橋のオートレース場を持ち、それを賃貸している、大家業であった。

姉妹紙であるとみられる、報知新聞でさえ、今や、〝嫁にいった妹〟のような存在で、読売育ちの竹内四郎社長が急逝し、正力亨社長になってからは、組合の勢力拡張めざましく、竹内が懸命に試みた読売との人事交流、読売の〝植民地化〟は崩壊してしまった。大阪のよみうりテレビで六人、NTVにいたっては、タッタの二人という出向社員数が、電波との関係を物語っていよう。また、「読売広告社」なる会社は、これこそ、全くのアカの他人で、正力すら関係がないと

いう会社である。

問題の「ランド」、株式会社関東レース倶楽部(注。現在は株式会社よみうりランドに一本化された)もまた、同様に〝家族〟ではない。いわば、親父のメカケのようなもので、読売新聞としては、家財を持ち出してまで、生活の面倒をみる義理はないはずである。ただ、ここでは、正力社主が堂々と代表権をもって、代取会長である。新聞と同じく社長空席のまま、立教出の後楽園系、代取副社長高橋雄二が続く。平取には、川島正次郎、永田雅一らに伍して、新聞の高橋雄豺副社長 正力亨取締役、清水与七郎監査役の三氏が列っている。

関東レースは、もともと正力が追放中のウサ晴らしに始めた会社で、京浜、京成、五島慶太、川島正次郎、永野護らの応援を得て、川崎と船橋の競馬場、船橋のオートレース場を持ち、それを賃貸している、大家業であった。その限りでは、家主だから安定した黒字会社で、別にどうということがなかったから、社員二十名ほどの小会社で、常勤幹部も、それに見合った人材で充分だったのである。

ところが、戦後のゴルフ・ブームに着眼した正力が、プロ野球、テレビの大衆化の故智にならって、読売パブリック・コースを造ろうと計画したことから、ランドの〝死の行進〟が始まったのであった。

東京読売カントリークラブというメンバー・コース、続いては遊園地のランドとなり、七十万

坪の大計画となってしまった。これが、いわゆる「正力コーナー」問題化の始まりである。「正力コーナー」というのは、読売新聞の紙面に、連日のように登場する、正力社主の写真入り宣伝記事のことを、社内でそう呼んでいるのだ。

全社員二十名ばかりの小会社関東レースは、こうして、正力の〝畢生の事業〟とも、〝私の悲願〟とも称する、「読売ランド」によって、従来の、川崎、船橋の営業所の他に、二つ のゴルフ場と、遊園地とを直営する、傭人とも六○○名ほどの大会社にふくれ上ったが、読売の出向社員二名と、定年退職者一名は、単なる一遊戯場の支配人に過ぎず、課長よりも低い地位に置かれている。

読売ランドもまた、組織がない。その乱派ぶりは、急激にふくれただけにひどすぎる。ランド内のモノレールビル二階にある、関東レース倶楽部の本社は、総務、経理、営業、管理の四部制だが、各営業所に責任者がいるわけではない。船橋オートレースは総務部、ランドとゴルフ場は営業部、競馬場は管理部と、経理部を除いた三部が縄張りを持ち、自己勢力の拡張争いをしている。かつて、市営川崎球場の田辺重役が、読売安田編集局長(故人)に、「一回で良いから巨人を川崎に出してくれ」と頼みにきたことがあった。理由を聞いてみると、「巨人が出場すれば、売店は入場者五千人で七〇万、一万人で百四十万以上の利益をあげられる。すると一回で一カ月の維持費が出るから」という。

正力松太郎の死の後にくるもの p.148-149 ランドの〝黒い噂〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.148-149 ランドの経営の内容は、本論からはずれるので、しばらく措こう。ただ、正力の〝私の悲願〟が、黒い手に汚されたのでは、正力のために惜しまねばならない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.148-149 ランドの経営の内容は、本論からはずれるので、しばらく措こう。ただ、正力の〝私の悲願〟が、黒い手に汚されたのでは、正力のために惜しまねばならない。

そのように売店の売上げ利益は大きい。だが、ランド内の売店は、東京レストラン経営という、新設の会社に委託され、その会社の監査役に、ランド建設の工事人である、大成建設営業本部第三部長仁科英男氏が加わっていた。また、同様に、ランドと同時期に新設された、清水スポーツサービスセンターという、ランド御用の会社には、ランド営業部長志倉竜男が重役として名を列ねていた。これは何を意味するのであろうか。読売が大成建設に支払った金は、ランドだけで八十億、未払い三十億ともいわれ、その工事人が、ランド御用会社の重役である。

そればかりではない。スポーツ用品、備品の納入についても、〝黒い噂〟は多く、経理部長であった志倉が営業部長に転じ、経理部長には巨人軍の高橋が出向し、常任監査役には、正力亨夫人の父に当る梅渓通虎が当られたというが、新聞が苦しんでまでヒネリ出している金が、特定個人の私腹を肥しているとすれば、読売労組は何とするであろうか。ランドの経営の内容は、本論からはずれるので、しばらく措こう。ただ、正力の〝私の悲願〟が、黒い手に汚されたのでは、正力のために惜しまねばならない。

ランドの後背地、都下南多摩郡稲城村は、首都圏構想によって、住宅都市として開発されることになっている。関東レース高橋副社長が、最近、ランド七十万坪を宅地造成して売却したい旨を語ったといわれるが、読売はランドとの奇妙な関係を明らかにしておかねば、もしもの時は、ソックリ、アカの他人のものとなるのである。

正力〝法皇〟に対する本田〝天皇〟

派閥とボスの集団! 私はかつての毎日新聞を、あえてこう表現せざるを得ない。戦後、正力の読売が驚異的にのびて、それまでの〝朝毎〟二紙対立の時代から、〝朝毎読〟三大紙時代となり、さらに、毎日の〝有楽町敗退〟から〝朝読〟二紙拮抗時代へと変ってしまったのも、時の流れである。毎日記者をして「朝日の〝大朝日意識〟と読売の〝読売精神〟、しかし毎日には何もない!」と嘆ぜしめたのもむべなるかなであろう。

その毎日の体質をみてみよう。

毎日新聞の実態を、端的に示す一つのエピソードがある。

前社長本田親男は、〝本田天皇〟と称せられるほどの、長期独裁政権をほしいままにした人であった。その〝本田天皇〟が〝御巡幸〟の旅に出られ、時間の都合で深夜おそく、宿泊予定の旅館に到着された時のことである。当該温泉地を管内に持つ毎日新聞支局長は、恐懼感激して御入浴を先導申しあげ、自ら〝天皇〟のお背中をお流し申しあげたのであった。時刻は、もはや午前二時をまわっていた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.150-151 〝本田天皇〟が〝御巡幸〟の旅

正力松太郎の死の後にくるもの p.150-151 「もう、三時になったかネ?」「ハッ。まだでございます。只今、副参事でございます」時間をきかれても、身分だと感違いして気付かぬことは、彼らの念頭をうずめているものが、出世であり、コネ作りであるということ
正力松太郎の死の後にくるもの p.150-151 「もう、三時になったかネ?」「ハッ。まだでございます。只今、副参事でございます」時間をきかれても、身分だと感違いして気付かぬことは、彼らの念頭をうずめているものが、出世であり、コネ作りであるということ

前社長本田親男は、〝本田天皇〟と称せられるほどの、長期独裁政権をほしいままにした人であった。その〝本田天皇〟が〝御巡幸〟の旅に出られ、時間の都合で深夜おそく、宿泊予定の旅館に到着された時のことである。当該温泉地を管内に持つ毎日新聞支局長は、恐懼感激して御入浴を先導申しあげ、自ら〝天皇〟のお背中をお流し申しあげたのであった。時刻は、もはや午前二時をまわっていた。

田舎支局長の分際をもってして、〝天皇〟に直接御奉仕申しあげ、かつ、御下問の御奉答申しあげるチャンスは、それこそ、千載一遇とあっては、恐懼感激も無理からぬことであった。心地良げに、身体を流させているうち、〝天皇〟はフト呟いた。

「もう、三時になったかネ?」

「ハッ。まだでございます。只今、副参事でございます」

「⁉」一瞬、耳を疑ったかの如き表情であった〝天皇〟はこの老支局長の大マジメな返事の意味に気付いて、満足気にうなずかれたという。この作り話とも思えるエピソードには、さらにオチまでついている。〝御巡幸〟を終えられた〝天皇〟が、東京に帰られるや、この支局長のもとに、「任参事」の辞令がとどけられ、その〝御仁徳〟のほどが、偲ばれたというのである。

この寓話が表現している一切のことが、かつての毎日新聞の実態であった。参事、副参事といった身分制が、能力や仕事の実績よりも、情実とコネを重んじ、〝出世慾〟をカキ立てさせるシステムとなり、新聞人としてのプライドなどは、上司のオヒゲのチリを払ううちに吹ッ飛んでしまって、かりそめにも大毎日新聞の支局長でさえ、三助となり果てるということだ。

記者の夜討ち朝駆けは、ニュース・ソースに対してではなく、自分の上司への御機嫌奉仕としての、自宅詣りであって、時間をきかれても、身分だと感違いして気付かぬことは、彼らの念頭をうずめているものが、ニュースではなくて、出世であり、コネ作りであるということである。

かつまた、即坐に、参事に出世させてやる〝天皇〟の人事のろう断をも、付け加えている。

戦後、毎日新聞の幹部たちが追放されて、上の方が空いた時、当時大阪本社編集主幹兼主筆であった本田は、組合の推せんを得て、社長の地位に就いた。そして、この時の挨拶に、「私は社長ではなく、人民委員長である」と、宣言したという。古い毎日の記者たちは、そう聞いたというのだが、活字になった記録がないので、本田が〝人民委員長〟と、呼称したかどうかは明らかではない。しかし、〝人民委員長〟が〝天皇〟に変貌するまでの十余年の歳月は、由緒ある毎日新聞にとって、まことに惜しみある歴史の空白であった。試みに、戦後二十年間の毎日の紙面の動きを見てみるが良い。

「朝・毎」と一口で呼ばれ、良きにつけ、悪しきにつけ、政治新聞としてスタートしたこの二大新聞は、ライバルとして張り合い、共に日本のオピニオン・リーダーとして伸びてきたのであった。だが、戦後、村山、上野両家との闘いで、いわゆる〝近代革命〟を経験した、朝日新聞との差は、大きく開いていった。硬派新聞として、朝日との闘いに敗れた毎日は、紙面作りでの、朝日追随をアキラメて、読売に挑戦してきた。

朝・毎の政治新聞としてのスタートに対して、読売は、根ッからの大衆新聞として生れてきていた。そして、昭和十年代に躍進をつづけて、朝毎の牙城に迫り、二紙対立の時代から、三紙てい立の時期へと入ってきていたのである。その読売もまた、戦後に〝革命〟を体験していた。二

度にわたるスト騒ぎである。そして、その結果、朝日と同様の体質改善が行なわれていたのである。