新宿慕情・最後の事件記者」カテゴリーアーカイブ

最後の事件記者 p.216-217 誰もブタ箱などという者はいない

最後の事件記者 p.216-217 「オイ、ブンヤさん。電話だよ」ここは警視庁一階の留置場。逮捕状を執行されて、ブチこまれてから、生れてはじめての留置場生活。〝電話〟と聞いては、驚きのため飛び起きざるを得ない。
最後の事件記者 p.216-217 「オイ、ブンヤさん。電話だよ」ここは警視庁一階の留置場。逮捕状を執行されて、ブチこまれてから、生れてはじめての留置場生活。〝電話〟と聞いては、驚きのため飛び起きざるを得ない。

最後の事件記者(実業之日本社)

文春誌につづいて、昭和三十三年十二月に刊行した、同名の単行本の再録。文春誌の内容が、事件そのものであるのに対し、こちらは 自叙伝的な構成で、著者の「新聞と新聞記者論」をまとめている。

著者の読売社会部時代の、数々のエピソードを綴りながら、大新聞の内部からの、新聞・新聞記者とはなにか、の問いかけをつづけているが、四十四年十二月、創魂出版刊行の「正力松太郎の死の後にくるもの」で、外部からの大新聞批判を行い、結論づけている。

我が事敗れたり

浅草のヨネサン

「オイ、ブンヤさん。電話だよ」

「エ? 電話?」

私は自分の耳を疑った。思わず上半身を起したほどだった。

ここは警視庁一階の留置場、第十一房である。七月二十二日の夕刻、逮捕状を執行されて、ブチこまれてから、生れてはじめての留置場生活に、毎日、新聞記者根性丸だしの取材を続けていた私だったが、〝電話〟と聞いては、驚きのため飛び起きざるを得ない。

板敷きの上に、タタミ表のウスベリを敷いた留置場は、正座が、留置人心得という規則によって原則である。しかし、旅馴れた私は早くも担当サンの眼を盗んで、横になって午睡をたのしんでいたところだった。

二十五日間も暮したが、誰もブタ箱などという者はいない。つまり、往時の、不潔極まりない房内から、ブタ箱という名が生れたのだろうが、出たり入ったり、また出たりのオ馴染みさんで

さえ、留置場という。ブタ箱という名は、全くすたれたようだ。

最後の事件記者 p.218-219 私がこの房に転房してきた時先客が二人いた

最後の事件記者 p.218-219 大辻司郎と吉屋信子、この二人にフランキー堺を足したような顔のその男は、〝浅草のヨネさん〟といわれる、パン助置屋の主人であった。管理売春という、売春防止法でも重たい罪の容疑で入っている男だった
最後の事件記者 p.218-219 大辻司郎と吉屋信子、この二人にフランキー堺を足したような顔のその男は、〝浅草のヨネさん〟といわれる、パン助置屋の主人であった。管理売春という、売春防止法でも重たい罪の容疑で入っている男だった

二十五日間も暮したが、誰もブタ箱などという者はいない。つまり、往時の、不潔極まりない房内から、ブタ箱という名が生れたのだろうが、出たり入ったり、また出たりのオ馴染みさんで

さえ、留置場という。ブタ箱という名は、全くすたれたようだ。

それほどに、留置場は清潔であり、目隠し塀のついた水洗便所、消毒された毛布、白いゴハンと、設備、待遇ともに、犯罪容疑者の詰め所としては、立派であった。

それにしても、電話とは!

私はまだ、記者クラブにでもいるような、錯覚におちいった。呼びかけた男の顔をみて、留置場だナ、と思い返したほどである。大辻司郎と吉屋信子、この二人にフランキー堺を足したような顔のその男は、〝浅草のヨネさん〟といわれる、パン助置屋の主人であった。

管理売春という、売春防止法でも重たい罪の容疑で入っている男だったが、人柄は極めてよくフランキーのような明るさと機智とを持っている男だった。

私がこの房に転房してきた時、先客が二人いた。カタギの私は、この別世界の礼儀作法を良くは知らなかったが、普通の人間社会の礼儀を準用すれば間違いはないと考えた。

「どうかよろしくお願いします」

私は頭を下げた。両手をつくほどの必要はあるまいと思ったので小腰をかがめただけだった。

「十一房、ロの二六五番」というのが、私の認識票で、それが書きこまれた、小さな木札を入口の表札差しに、差しこんでおくのだ。

「……」

先客二人も、軽くうなずく。私はその房では新入りなので、一番奥の、一番下座である便所の

そばに腰を下した。

二人の世界が、彼らの意志とかかわりなく、三人になったのだから、この第十一房という、 小さな社会の構成要件が変ったことになる。つまり、革命だ。新しい社会秩序を確立しなければ、誰もが落ちつけない。

それには、この新入りの階級的出身と、社会的序列とを知る必要がある。旧支配階級が声をかけた。

「あんた、何です?」

何罪でパクられたのかということだ。私は心中ニヤリとした。この質問を待っていたからである。留置場でも、生活の智恵は必要である。

〝小さな喫茶店で、タダ黙って〟と、恋人と二人きりでいるようなワケには参らんのだった。

「ウン……。(ちょっと口籠って、どう説明したら判ってもらえるのかな、といったようなハッタリをつ

けて)つまり、難しくいえば犯人隠避といって……」

(写真キャプション)「最後の事件記者」は東宝で映画化、問題作に……

最後の事件記者 p.220-221 ヨネさんは中央見張り台にいる看守をうかがう

最後の事件記者 p.220-221 扇形に看房が並んでいる留置場は、カナメにあたる部分に、潜水艦の司令塔のような見張り台がある。ここに看守が一人坐ると、一、二階とも全部で二十八の看房が、少しの死角もなく見通せるのである。
最後の事件記者 p.220-221 扇形に看房が並んでいる留置場は、カナメにあたる部分に、潜水艦の司令塔のような見張り台がある。ここに看守が一人坐ると、一、二階とも全部で二十八の看房が、少しの死角もなく見通せるのである。

「あんた、何です?」
何罪でパクられたのかということだ。私は心中ニヤリとした。この質問を待っていたからである。留置場でも、生活の智恵は必要である。
〝小さな喫茶店で、タダ黙って〟と、恋人と二人きりでいるようなワケには参らんのだった。
「ウン……。(ちょっと口籠って、どう説明したら判ってもらえるのかな、といったようなハッタリをつ

けて)つまり、難しくいえば犯人隠避といって……」

「ああ、読売新聞のダンナですね」

ヨネさんは、私の思惑を裏切って、ズバリといい切った。

「エエ、ソウ」

私は驚くと同時に、極めて不器用な返事をしてしまった。

「新聞記者でもパクられるのかねェ」

彼は感にたえたようにいう。もう、ずっと以前から私のことを知っていたような、親し気な調子だ。ヨネさんは、このように情報通であった。そして、その情報が、どうして集まるのかという、ナゾを解いてくれたのが、この電話だったのである。

安藤からの電話

「安藤サン、安藤サン、ただ今、三田さんが出ますから、しばらくお待ち下さい」

ヨネさんは、留置場の外側の金網にヘバリつくと、看守の巡回通路の壁に向って、無線電話の通話調で話しかけた。呆ッ気にとられている私を促すと、チラリと内側の金網に視線を駆って、中央見張り台にいる看守の動静をうかがう。

扇形に看房が並んでいる留置場は、カナメにあたる部分に、潜水艦の司令塔のような見張り台がある。ここに看守が一人坐ると、一、二階とも全部で二十八の看房が、少しの死角もなく見通

せるのである。

その他に数人、収容者の出入を扱う看守がおり、彼らは手が空いていれば、動哨する。

「オレがシキテンをキッてる(見張りしている)から、あの便器にまたがって、用便と見せかけて話をするんだョ」

電話のかけ方から教わるのである。新米記者さながらに、私は教えられた通りにして、安藤親分のいるとおぼしきあたりに向って、小さな声で答えた。

「ハイ、三田です」

「ア、三田さん? 安藤です。体は大丈夫ですか?」

「エエ、大丈夫です」

私が留置場に入った翌朝、洗面の時にどこからか声がかかった。洗面は、例の見張り台の下のグルリに、水道栓がついて、流しになっているのである。

「オイ、読売! 身体は大丈夫か!」

「話をするンじゃない!」

見張り台、つまり洗面中の真上から、叱責の声がとんできた。昨夜、二階の二十二房というのに、はじめて熟睡した私だったが、まだ場馴れないのと、留置場内の地理に明るくないので、その声が私を呼んでいることは判ったが、何処からなのか、誰からなのか、見当もつかないのである。

それに、メガネを取り上げられているのだから、キョロキョロ見廻したが、金網ごしの相手の顔など、判りやしない。

最後の事件記者 p.222-223 文芸春秋から私に手記を書けって

最後の事件記者 p.222-223 安藤はその後も、「このたびは御迷惑をかけてしまって、何とも申しわけありません」とか、「会社の方は大丈夫ですか」「身体は悪くありませんか」などと、顔があうたびにキチンと声をかけて挨拶をしてきた。
最後の事件記者 p.222-223 安藤はその後も、「このたびは御迷惑をかけてしまって、何とも申しわけありません」とか、「会社の方は大丈夫ですか」「身体は悪くありませんか」などと、顔があうたびにキチンと声をかけて挨拶をしてきた。

見張り台、つまり洗面中の真上から、叱責の声がとんできた。昨夜、二階の二十二房というのに、はじめて熟睡した私だったが、まだ場馴れないのと、留置場内の地理に明るくないので、その声が私を呼んでいることは判ったが、何処からなのか、誰からなのか、見当もつかないのである。

それに、メガネを取り上げられているのだから、キョロキョロ見廻したが、金網ごしの相手の顔など、判りやしない。

その翌日かに、朝の運動の時間、また私に声をかけた、顔に傷のある青年がいた。

「オイ、読売!」

はじめて留置場に入る時、私の身体捜検をしてくれた巡査部長の看守が、私の身分を知ってから、親切に注意をしてくれた。「イイカイ。留置場の中には、どんな悪い奴がいるか判らないのだから、決して本名や商売のことなど、いウンじゃないぜ」と。

つまり、相手の家庭状況や住所を聞いて、先に出所すると、留守宅へ行ってサギなどを働くというのである。私は彼の注意を思い出して、あいまいに返事もしなかった。何しろ、知らない男だからだ。しかし、私の顔は「オイ、読売」という呼びかけに、明らかにうなずいていた。

「あなたは、読売の記者でしょう?」

相手の言葉が叮寧になったので、私はうなずいた。しかし、その日は、それで終り。何しろ、スレ違いのさい、看守が制止する中での会話だ。

「今朝運動の時、オレに声をかけた奴がいるンだけど、この前の洗面の時の奴と同じらしいよ。顔に傷があるンだけど、誰だい」

「何だい? オメエ知らねエのかい?」

調べの合間に、石村主任にきくと、彼は意外だという表情できき返した。

「ハハン、安藤かい?」

それで判った。房内には、顔に傷のある男が多いし、同一事件のホシは各署の留置場へ分散するのが通例だから、まさか安藤とは思わなかった。

手記の相談

運動というのは、毎日一回だけ、タバコ一本を戸外で吸わせてくれるのである。運動という名で呼ばれているが、駈け足や体操などするわけではない。オヤ指を焦がす位、時間をかけて吸う一本のタバコ、約八分ほどの間だけ、太陽光線を浴びさせる時間だ。

安藤はその後の運動の時間にも、「このたびは御迷惑をかけてしまって、何とも申しわけありません」とか、「会社の方は大丈夫ですか」「身体は悪くありませんか」などと、顔があうたびにキチンと声をかけて挨拶をしてきた。そのようなやりとりが、私と安藤との間にあってからの、この電話なのだ。

例のように、私の健康へのいたわりの言葉があってから、彼は用件に入ってきた。

「実はね、三田さん。文芸春秋から、私に手記を書けって、いってきたんだけど、どうしましょう」

「何、手記? いいじゃないか。あンたの横井を射ったことについての、感想をかけばいいよ」

「ブンヤさん! 担当!」

ヨネさんの低く押しつぶした、鋭い声が飛んだ。

最後の事件記者 p.224-225 私の事件を「苦しかった〝元〟記者」と

最後の事件記者 p.224-225 「それでね。何を書いたらいいか。少し教えて下さいよ」文春が安藤に手記を依頼してきた。〆切は二十日だという。これこそ、私にとってはビッグ・ニュースだった。
最後の事件記者 p.224-225 「それでね。何を書いたらいいか。少し教えて下さいよ」文春が安藤に手記を依頼してきた。〆切は二十日だという。これこそ、私にとってはビッグ・ニュースだった。

「ブンヤさん! 担当!」

ヨネさんの低く押しつぶした、鋭い声が飛んだ。私はさり気なく金網をはなれて、腰をふり、小用を済ませたように装った。

コツ、コツ、コツ。巡回の看守が、房の中を覗きこみながら通りすぎる。内側から看守の動きをみていたヨネさんが、安藤の九房の前を通りすぎたのを確認して、「イイヨ」と合図した。

断線である。電話は事故のため、通話中に切れてしまった。すぐ復旧にとりかからねばならない。要領を覚えた私は、また金網にヘバリついて、小声で十房を呼んだ。

「十房、十房。十一房から、九房の安藤さん」

「ハイ、十房」

私の声を聞きつけて、十房の見も知らぬ男が立ち上ってきた。

「十一房の三田から、九房の安藤さん」

「九房、九房。十一房の三田さんから、九房の安藤さん」

「ハイ、安藤です」

「アア、三田です」

断線した電話は、即座に復旧した。このように自由を拘束された留置場の生活では、案外に相互扶助の義務感が強いようである。電話が開通すると、はじめの中継者の十房は、すぐ離れてゴロリと横になったようだ。外側の壁に向って、九房の位置を考える。入射角と反射角は同じなのだから、ワン・クッションで、声が通る。九と十一なら、顔が見えないだけで、ヒソヒソ話が充

分に通ずる。

「それで、〆切は何時だって?」

「二十日までに書いてくれって。どうせ弁護士への口述になるんだけどネ」

「フーン。紙と鉛筆位、調べ室でくれないのかい?」

「ウン。……それでね。何を書いたらいいか。少し教えて下さいよ」

「担当!」

また断線である。私は金網をはなれると、ウスベリの上に寝ころがった。

我が事敗れたり

静かに考えてみる。文春が安藤に手記を依頼してきた。〆切は二十日だという。これこそ、私にとってはビッグ・ニュースだった。

文春が八月はじめに出した九月号に、横井英樹と三鬼陽之助の対談をのせ、『大不平小不平』という、新聞批判の欄では、「苦しかった〝元〟記者」と、私の事件を取り上げていることは、読ませてこそくれなかったが、調べ官の木村警部が、得意そうに鼻をウゴメかして、私にパラパラと見せてくれたので、すでに知っていた。

私が逮捕された数日後に、調べ主任に各社の記事の様子、つまり取り扱い方を聞いたことがある。すると、石村主任はしいて無関心をよそおっていった。

最後の事件記者 p.226-227 事の敗れたのを知ることができた幸運

最後の事件記者 p.226-227 私の名前が出てくるのは、月曜日のひるすぎ。私は素早くそう計算して、明日の正午までの十五時間位は、自由に行動できると考えた。その間に一切を片付けねばならない。
最後の事件記者 p.226-227 私の名前が出てくるのは、月曜日のひるすぎ。私は素早くそう計算して、明日の正午までの十五時間位は、自由に行動できると考えた。その間に一切を片付けねばならない。

私が逮捕された数日後に、調べ主任に各社の記事の様子、つまり取り扱い方を聞いたことがある。すると、石村主任はしいて無関心をよそおっていった。

「ナーニ、毎日か何かが書いていたっけよ。それもあまり大きくなくサ。そのほかは、何か小さな新聞が、二、三取り上げていたらしいよ」

石村さん、ありがとう。私は心の中で感謝しながら、「何だい、そんなこと、かくさなくたっていいじゃないか」と、いった。彼の態度から、私の逮捕の各社の記事は、決して私に好意的ではなく、しかも、全部の社が、割に大きく書いているのだナ、と感じた。それを、この主任は、私に打撃を与えると思ったのか、私が可哀想だったのか、心優しいウソをついてくれたのだと、判断したのだ。

私は新しい入房者があると、その人に根掘り葉掘り、私の逮捕の記事と、その論調とについて質問した。やはり、判断通りに、決して香んばしい扱いではないと判った。

横井事件に関連して、私が「犯人隠避」容疑で、逮捕されるにいたった当時の様子を、少し説明しておかねばなるまい。

日曜日は私の公休日だった。七月二十日の日曜日も、だから休みで、一日自宅にいた。ひるねをしたり、子供たちと遊んだりして、夜の八時ごろになった時、私のクラブの寿里記者から電話がきて、「大阪地検が明朝、通産省を手入れするが、予告原稿を書こうか」というのである。

彼一人にまかせておいても良かったのだが、何故か私は「今すぐ社へ行くから、待っていてくれ」と答えて、出勤した。翌朝の手入れのための手配をとり終って、フト、デスク(当番次長)の机の上をみると、読売旭川支局発の原稿がきている。何気なく読んでみると、外川材木店にいた

男を、安藤組の小笠原郁夫だと断定して、旭川署、道警本部が捜査しているという内容だった。

「我が事敗れたり」と、私は覚った。事、志と反して、ついにここにいたったのだ。私はそれでも、当局より先に、事の敗れたのを知ることができた幸運を、「天まだ我を見捨てず」とよろこんだ。

当局の先手を打って、小笠原に会ったのだが、ここで逆転、当局に先手をとられて、その居所を割り出された。それをまた私が、今夜、先手を取りかえしたのだ。

この原稿を読んだ瞬間には、私の表情はサッと変っていたかも知れない。しかし、読み終えた時には、全く冷静だった。そして、静かに読み通してみた。

小笠原は十八日朝、「札幌へ行く」といって、外川方を立去り、外川方では二十日の午後、警察へ届出たとある。すると、旭川署が外川さんを参考人として調べて、同氏の戦友の塚原さんの紹介であずかった男だ、といったに違いないから、警視庁では、明二十一日朝、塚原さんを呼ぶに違いない。

その口から、私の名前が出てくるのは、月曜日のひるすぎ。私は素早くそう計算して、明日の正午までの十五時間位は、自由に行動できると考えた。その間に一切を片付けねばならない。

辞職を決める

すぐに社を出ると、私は塚原さんを自宅にたずねた。この軍隊時代の大隊長だった塚原勝太郎

氏は、全く何の関係もない人だったのに、私が頼んで旭川へ紹介してもらったばかりに、事件の渦中へ引ずりこんでしまったのだった。

最後の事件記者 p.228-229 各社がどんな記事をかくか黙って経験してみよう

最後の事件記者 p.228-229 今までは書く身が書かれる身になるのだ。一体各社がどんな扱いをするか、どんな記事をかくか…その結果の私の逮捕記事であった。私は厳しい批判を受けていることを、留置場の中で知ったのである。
最後の事件記者 p.228-229 今までは書く身が書かれる身になるのだ。一体各社がどんな扱いをするか、どんな記事をかくか…その結果の私の逮捕記事であった。私は厳しい批判を受けていることを、留置場の中で知ったのである。

すぐに社を出ると、私は塚原さんを自宅にたずねた。この軍隊時代の大隊長だった塚原勝太郎

氏は、全く何の関係もない人だったのに、私が頼んで旭川へ紹介してもらったばかりに、事件の渦中へ引ずりこんでしまったのだった。

私は、塚原さんに事件の経過を知らせて、迷惑をかけたことを謝った。それからすぐ、読売の警視庁キャップの萩原記者と、社会部の先輩の一人をたずね、事情を説明すると同時に、辞職する決心を打明けた。小笠原を旭川へ落してやる時から失敗した時の覚悟は決っていたのである。

深更帰宅したのち、妻にすべてを話し、明日、警視庁へ出頭する準備をした。家宅捜索を受けても不都合なものはないし、あとは静かに辞表を書くだけだった。

二十一日の月曜日早朝、その辞表を持って金久保社会部長の自宅へ行き、取材に失敗した経過を話して、辞表を出したのである。社会部長は、「刑事部長と相談してみよう」といって、一緒に警視庁へ行った。部長は萩原記者と二人で刑事部長に会ったが、私は自分の担当の司法記者クラブへ行った。

その後、二十一日の正午ごろ、刑事部長と捜査二課長とに会った。しかし、私としては社を退職し、逮捕されるつもりなのだから、一応の事情を説明しただけだ。

その時、私はいった。

「この事件は取材以外の何ものでもありません。しかし、私の行為は犯人隠避に相当するのだから、逮捕されるのなら、何時でも出頭します。逮捕される時には、社を退職して逮捕されたいので、事前に教えて頂けないでしょうか」と。

こう話して、警視庁の記者クラブへもどってきた時、何人かの顔見知りの記者と挨拶をしながら、私はフト感じた。

——そうだ。クラブ各社の記者と会見して、私の事情を説明しておこう。

——イヤイヤ、私は司法記者クラブのキャップだ。その経験を積んだヴェテラン記者が、犯人隠避の疑いで逮捕されるのだ。今までは書く身が、書かれる身になるのだ。一体各社がどんな扱いをするか、どんな記事をかくか、黙って経験してみよう。

——それに、大特ダネをものにしようとして失敗したのだ。今さら、逮捕をカンベンしてくれと哀願したり、各社に記事をよろしくなどというのは、いかにも卑怯だ。

私はそう考え直した。だから、あえて黙っていた。そうして自分のクラブへ行き、部下の二人の記者にだけ、事情を話し、後事をたのんだ。

社へ行って後始末をしていると、辞表は受理されることになり、明朝の重役会を経て発令されるという。警視庁も、それを待って、二十二日正午に出頭しろといってきた。これですべては決ったのだった。私は当分の別れになる、銀座の街を歩いて帰宅した。

文春記事のいきさつ

その結果の、私の逮捕記事であった。どのように真実を伝えたか、どうかは別項にゆずって、私は厳しい批判を受けていることを、留置場の中で知ったのである。

最後の事件記者 p.230-231 私は房内ですでに想を練りはじめた

最後の事件記者 p.230-231 私の手記もまた、安藤の手記と組まして、十分に価値があるはずだと判断した。保釈出所するや、その翌日には、私は文芸春秋の田川博一編集長に会っていた。二十五日間の休養で、元気一ぱいだった。
最後の事件記者 p.230-231 私の手記もまた、安藤の手記と組まして、十分に価値があるはずだと判断した。保釈出所するや、その翌日には、私は文芸春秋の田川博一編集長に会っていた。二十五日間の休養で、元気一ぱいだった。

私が編集者ならば、やはり同じように安藤の手記をとろうとするに違いない。文春は発行部数数十万という大雑誌だ。ケチな新聞よりは読まれている。その雑誌が、九月号に引続き、九月上旬発売の十月号でも、安藤組を取りあげようとしている。

逮捕、拘留されている安藤は、取材の盲点である。私とて同様だ。それに着眼して弁護士を通じて、手記を取ろうとする編集者に感服すると同時に、それならば、私の手記もまた、安藤の手記と組まして、十分に価値があるはずだと判断した。

——そうだ。文春に私の立場を書こう。

私はそう考えると、差入れに通ってくる妻への伝言を頼んだ。接見禁止処分だから、会うことは許されない。

文春の編集部には、何人かの知人がいる。私が手記を書きたいという意志を伝えておいて、それが採用されるならば、あとは〆切日ギリギリまでに、保釈で出ればよいのだ。私は調べ官に、妻に〆切日を聞かせてほしい、と頼んだ。

〆切日は、安藤の手記が二十日だというから、二十五日ごろと考えた。妻の返事によるとやはりそうだった。私は房内ですでに想を練りはじめた。新聞ジャーナリズムが、私に機会を与えないならば、雑誌ジャーナリズムによるのが一番だ。

新聞は長い間、マスコミの王座に君臨し、いわば永久政権として安逸をむさぼってきたのである。これに対し、雑誌をはじめ、ラジオ・テレビと、他のマスコミが、その王座をおびやかしは

じめている。いろいろの雑誌に新聞批判の頁が設けられていることが、それを物語っているではないか。

私は安藤の相談に対して、「ただ申し訳ないと、謝らなければいけないよ。そして、横井が悪い奴ならば、その悪党ぶりをバラしてやれよ」と、答えておいた。

十五日に保釈出所するや、その翌日には、私は文芸春秋の田川博一編集長に会っていた。二十五日間の休養で、元気一ぱいだった。

「私は、横井事件を一挙に解決しようと思って、小笠原を一時的に、北海道という〝冷蔵庫〟へ納めておいたのです。それは、安藤以下、五人の犯人を全部生け捕りにするためです」

「ナニ? 五人の犯人の生け捕り?」

「そうです。そして、五日間、読売の連続スクープにして、しかも、事件を一挙に解決しようという計画だったのです」

「しかし、あなたは、大変な悪徳記者だと思われていますよ」

「そうです。私は各社の記事をみて、そう思いました。しかし、新聞は果して、真実を伝えているのでしょうか」

「……」

「なるほど。私が一番に感じたことは、少なくとも私の場合、新聞の時間的、量的(スペース)制約を考えても、新聞は真実を伝えていないということです。同時に、私もあのように、私の筆で

何人かの人をコロしたかも知れない、という反省でした」

最後の事件記者 p.232-233 落ち目の旧友に弁明の場を与えてやりたい

最後の事件記者 p.232-233 田川編集長は、柔らかな態度になった。「三田君、覚えているかい? 小学校で六年生の時、一緒によく遊んだッけね」「エ? じゃ、あの、田川君か!」私はこの奇遇に驚いた。
最後の事件記者 p.232-233 田川編集長は、柔らかな態度になった。「三田君、覚えているかい? 小学校で六年生の時、一緒によく遊んだッけね」「エ? じゃ、あの、田川君か!」私はこの奇遇に驚いた。

「なるほど。私が一番に感じたことは、少なくとも私の場合、新聞の時間的、量的(スペース)制約を考えても、新聞は真実を伝えていないということです。同時に、私もあのように、私の筆で

何人かの人をコロしたかも知れない、という反省でした」

「ウン。我が名は悪徳記者ッていう題はどうです」

「誰が、どうして、私を悪徳記者にしたんです。新聞ジャーナリズムがそうしたんだと思います」

「ヨシ、それで行きましょう。あなたの弁解もウンと入れて下さい。自己反省という、新聞批判も忘れないで下さい」

田川編集長は、「五十枚、イヤ、もっと書ければもっとふえてもいいです」と、仕事の話を終ると、柔らかな態度になった。

「三田君、覚えているかい? 小学校で六年生の時、一緒によく遊んだッけね」

「エ? じゃ、あの、田川君か!」

私はこの奇遇に驚いた。彼がまだ別冊文春の編集長のころ、会った時には、そんな話も出なかったし、また記憶もよみ返ってこなかったのである。

田川君の態度には、編集長としての、「悪徳記者」を取上げる気持と、それにより添うように、この落ち目の旧友に、十分な弁明の場を与えてやりたい、といったような、惻隠の情がにおっているようだった。

新聞というマンモス

「この記事は違っている。訂正してもらいたい」

「何処が違っているのです」

「当局ではこうみている、という形で記者の主観が入っている。当局とは何か、誰か、それを明らかにしてもらいたい」

「貴君が何時、何処で、いかなる理由で逮捕された、という事実を否定するのですか」

何というおろかなことだろう。私を「グレン隊の一味」に仕立てたかの如き、新聞記事に、抗議をしに各社を訪れたところで、その問答の中味は、このように判りすぎるほど判っていたのである。

担当の取材記者は、その社の応接室で、かつて私がしたように、私の抗議を突っぱねるに決っている。もちろん、決してウソは書いていないからである。

しかし、新聞記事というものは、好意をもって書くのと、ことさらに悪意をもたなくとも、好意を持たずに書くのとでは、読者へ与える印象には、全く雲泥の差がある。たった一行、たった一つの単語で、ガラリと変ってしまうのである。ことに、限られたスペースの新聞記事では、微妙な事件のニュアンスなどは全く消えさり、事実というガイコツだけが不気味に現れるのだ。

私は新聞記者である。新聞というマンモスを良く知っているつもりである。私の記事が真実で

はない、なぞと、蟷螂の斧の愚はやめよう。私は田川編集長の期待に応えて、面白い原稿を書こうと考えた。

最後の事件記者 p.234-235 めぐりあいというものはなかなかにドラマチック

最後の事件記者 p.234-235 田川編集長ばかりでなく、自由法曹団のウルサ型弁護士、石島泰とのめぐりあいなども、やはり、なかなかにドラマチックで、強い印象が残っている事件だった。
最後の事件記者 p.234-235 田川編集長ばかりでなく、自由法曹団のウルサ型弁護士、石島泰とのめぐりあいなども、やはり、なかなかにドラマチックで、強い印象が残っている事件だった。

私は新聞記者である。新聞というマンモスを良く知っているつもりである。私の記事が真実で

はない、なぞと、蟷螂の斧の愚はやめよう。私は田川編集長の期待に応えて、面白い原稿を書こうと考えた。

文春の記事を読んだ、福岡県の田舎の方から手紙をもらった。「……かかる目に見えない暴力と闘って下さい。しかし、あなたには記事にして発表する場と力があります。まだまだ弱い立場の人が沢山いるのです……」

共産党はお断り

メーデー事件のK被告

故旧いかで忘れ得べき——めぐりあいというものは、なかなかにドラマチックで、懐古趣味のある私などには、たまらないよろこびを与えてくれるものである。

田川編集長ばかりでなく、自由法曹団のウルサ型弁護士、石島泰とのめぐりあいなども、やはり、なかなかにドラマチックで、強い印象が残っている事件だった。昭和二十七年秋の選挙、といえば、共産党が血のメーデー以来の火焰ビン闘争の批判を受けて、全滅してしまったことで有名な選挙だったが、そのころのことである。

(写真キャプション)むかしの日共はホントのことを書いてもこれだ

当時、遊軍記者として本社勤務だった私は、〝反動読売の反動記者〟と目されて、共産党関係のデマ・メーカーといわれていた。そんなある日、私は村木千里弁護士の事務所にフト立寄った。

村木弁護士は、明大を出てから、東京裁判の間、ウォーレン弁護士の助手を勤め、独立してからはほとんど外事専門の弁護士をしていたのだが、彼女のもとに共産党の事件の依頼があったという。聞くとメーデー事件の被告だというので、私は面白いと感じた。

彼女の扱っているのは、アメリカ人を中心にほとんど出入国管理令、外国為替管理法、関税法とかの、いわば資本主義的外事事件ばかりなのに、そこへ共産党だというから、ソ連人がアメリカに逃げこんできたような感じだった。

何しろ、公判へ廻ってからのメーデー事件と

いうのは、アカハタとインターナショナルの歌の渦で、怒号、拍手など、とても審理どころではなく、その法廷闘争には裁判所も手を焼いていた。そんな狂騒の中で、いわば興奮から事件にまきこまれた、可哀想な被告たちのうちには、静かに考え出す者が出はじめて、分離公判を希望するものがあったのだが、今までは表面化していなかったのである。

最後の事件記者 p.236-237 「共産党はお断り」という大きな横見出し

最後の事件記者 p.236-237 根拠は「もう、共産党はゴメン」ということだった。家庭教師の口は断られ、就職内定は取消、妻は臨月、もう喰って行けない。だから、共産党でないと客観的事実で示したい、というのである。
最後の事件記者 p.236-237 根拠は「もう、共産党はゴメン」ということだった。家庭教師の口は断られ、就職内定は取消、妻は臨月、もう喰って行けない。だから、共産党でないと客観的事実で示したい、というのである。

何しろ、公判へ廻ってからのメーデー事件と

いうのは、アカハタとインターナショナルの歌の渦で、怒号、拍手など、とても審理どころではなく、その法廷闘争には裁判所も手を焼いていた。そんな狂騒の中で、いわば興奮から事件にまきこまれた、可哀想な被告たちのうちには、静かに考え出す者が出はじめて、分離公判を希望するものがあったのだが、今までは表面化していなかったのである。

村木弁護士への依頼者というのは、メーデー事件で、率先助勢と公務執行妨害の二つで起訴された、Kという東大工学部大学院の学生であった。彼は、メーデーに参加して、あの騒ぎが始まり、落したメガネを拾おうとしたところを、警官に殴られたので殴りかえしたという、検挙第一号の男だった。

私選弁護人を頼んできた理由というのが、統一公判を受けていたら、一体何時になったら終るのか判らないし、公判の度に休まねばならない。メーデー事件の被告というだけで職にもつけない、という悩みからだという。

そのころ、メーデー公判は、「統一なら無罪、分離なら有罪」と、しきりに宣伝されていて、被告団の結束を固め、法廷闘争を行っていた時期だった。村木弁護士に聞けば、さらに二人の被告が、分離を希望して相談にきているという。

私は、このようなメーデー公判の客観状勢を知っていたので、この分離希望の第一号はニュースだと感じた。しかも、K被告だけではなく後にも続いているという。

共産党はもうゴメン

車を飛ばして、練馬の奥の方のK氏の家を探した。会って話を聞いてみると、分離希望の第一の根拠は、「もう、共産党はゴメン」ということだった。家庭教師の口は断られ、就職が内定していた会社は取消す、妻は臨月で、もう喰って行けないのだ。だから、共産党でないということを、客観的事実で示したい——というのである。

私は心中ニヤリとした。いわば、彼の立場は〝裏切者〟第一号である。

「宜しい。あなたが共産党でないことは、記事の中にハッキリと書いてあげましょう。共産党とされて、喰って行けなくなったのだから、それを明らかにすれば、道は通ずるでしょう。そのことを手記にして、弁護士に訴えなさい。それがニュースのキッカケになるのですから……」

こうして、その記事は「自由法曹団をやめないと、真実はいつまで経っても判らない」という、共産党の指令のもとに、法定闘争という戦術の場にメーデー公判を利用している自由法曹団を、被告という内部から批判したものとしてまとめられた。

十月一日の投票日の数日前に、私はその原稿を提稿したのだったが、選挙前で紙面がなく、しばらくあずかりになっていた。

ところが、共産党の候補者が全滅し、それに対する論調が賑わっていた十月三日の夕刊に、それがトップで掲載されたのである。「共産党はお断り」という、大きな横見出しが、開票直後だっ

ただけに、凄く刺激的で、効果的だった。

最後の事件記者 p.238-239 共産党関係の自由法曹団の石島弁護人

最後の事件記者 p.238-239 この記事はモメるゾ! 同時に直感した。案の定、K氏から抗議がきた。数日後、石島弁護士が面会を求めてきた。——来たナ! しかも、石島か!
最後の事件記者 p.238-239 この記事はモメるゾ! 同時に直感した。案の定、K氏から抗議がきた。数日後、石島弁護士が面会を求めてきた。——来たナ! しかも、石島か!

ところが、共産党の候補者が全滅し、それに対する論調が賑わっていた十月三日の夕刊に、それがトップで掲載されたのである。「共産党はお断り」という、大きな横見出しが、開票直後だっ

ただけに、凄く刺激的で、効果的だった。

——ウーン。ウマク使いやがるなア!

私は、その夕刊を開いて、社会部と整理部のデスク(編集者)の腕の良さに、しばらくの間は、感嘆のあまりウナったほどだった。

——この記事はモメるゾ!

同時に直感した。私の記者生活の経験から、記事の反響は本能的にカギわけられる。案の定、翌四日になると、K氏から抗議がきたし、村木弁護士からも、「K氏が大学で吊しあげられたので、慌てだしている」と伝えてきた。

その数日後、社の受付から、私に石島弁護士が面会を求めている、と伝えてきた。

——来たナ! しかも、石島か!

私は緊張した。三階に通すように答えると、もう一度取材の経過をそらんじてみたのである。「大丈夫!」自分自身にいい聞かせる言葉だった。「オレは自信のない取材をしたことはないンだ!」

昭和二十三年から四年にかけての、約一年間というものを、私は司法記者クラブですごした。そのため、裁判記事には関心があり、共産党関係の公判廷で、「……自由法曹団の石島弁護人が鋭く検察側に食い下った……」旨の記事をよく読んでいたのだ。石島弁護人というのは、戦闘的な気鋭の弁護士だと承知していた。

第二の裏切り

K被告の記事は、すでにアカハタ紙が、「読売新聞またもウソ、全く記者の作文」と大きく反ばくし、東大学生新聞もまた、「商業紙の正体暴露、驚くべき虚偽の報道」と、全面を費していたのだった。

だから、私としても、弁護士付添の正式の抗議ともなれば、相当の覚悟がいる。しかも石島という名前も、負担だった。社会部長に報告して、私は編集局入口の応接間のドアを開いた。

「アッ! 何だ! 石島というのは……」

「やっぱり、三田って、お前か!」

同時に二人の口をついて出てきた叫びだった。めぐりあい、だったのである。いうなれば、敵味方に分れ、対立した立場で、たがいに男の仕事の場での、めぐりあいだった。

昭和十四年三月、東京府立五中を卒業したわれわれは、新橋の今朝という肉屋の、酒まで並べた別れの会から、十三年半ぶりで再会したのだった。しかも、石島と私とは、小学校、西巣鴨第五尋常小学校(のちの池袋第五小)でも同級で、一、二番を争った仲だったのだ。何という奇遇だったろうか。

二人は思わず握手をしていた。

「石島とは聞いてたが、フル・ネームが出てなかったので、君とは思わなかったよ」

最後の事件記者 p.240-241 K氏は裏切者として相当吊しあげられた

最後の事件記者 p.240-241 このトラブルの原因は、K氏の功利的なオポチュニストという、その人柄に問題があったのである。仲間を裏切った彼は、また、第二の仲間をも裏切ったのである。
最後の事件記者 p.240-241 このトラブルの原因は、K氏の功利的なオポチュニストという、その人柄に問題があったのである。仲間を裏切った彼は、また、第二の仲間をも裏切ったのである。

二人は思わず握手をしていた。
「石島とは聞いてたが、フル・ネームが出てなかったので、君とは思わなかったよ」

「オレもそうなんだ。三田という、あまりない姓だから、モシヤとも思ったンだ」

この意外な展開に、一番呆っ気にとられていたのは、K氏だったろう。だが、しばらくのちに石島弁護士は形をあらためて、私の記事への抗議に入った。私も、我に返って身構えた。

彼の抗議は鋭い。微細な点まで根拠を突っこんでくる。私は突っぱねるべきは突っぱね、説明すべきは説明した。約一時間のち、会見は物別れとなった。

このトラブルの原因の最大のものは、K氏の功利的なオポチュニストという、その人柄に問題があったのである。もちろん、私の記者としての態度にも、たった一つだけ問題はあった。

この抗議のある前に、私が調べてみた事情はこうだった。K氏はこの記事の出た翌日、学校へ行った時に、裏切者として相当吊しあげられた形跡があるのである。

自分が毎日生活する周囲から、こんなに強い反撥を受けたのでは、全くやり切れるものではない。K氏の態度は、また、変ったのであった。あれは読売が勝手にやったことであって、私は知らない、私だって迷惑しているのだ、と。

一人の女を捨てることのできる男は、二人の女をも捨てられる。こんな言葉がある。最初に、仲間を裏切った彼は、また、第二の仲間をも裏切ったのである。それと同時に、彼の感じたものは、新聞への無知、ということであろう。

つまり、読売という大新聞のトップ記事の影響力の強さを、彼は私と話している間には、それほど感じていなかったのであろう。しかも、彼のひそやかな裏切行為が、かくも派手に、かくも

効果的に使われるとは! というのが、彼の実感だったに違いないと、私は今でも信じている。

彼は信念のない人である。こういう種類の人物は、いかようにも使えるのである。私はこの「共産党はお断り」というスクープを、与論形成者として、意識的に造ったのであった。K氏はその素材である。

インテリはお体裁屋

スクープは造られるものだ、と私は信じて疑わない。新聞記者が好んで使う、「これはイケる!」「イタダケる」という言葉自体にそのことが現れている。ニュース・バリューの判断ということは、何を基準としていうのだろうか。

K氏はメーデーに参加して、たまたま検挙された。そして、〝悪質(暴力的な)な共産党員〟という、レッテルをはられた。その結果、彼は生活に窮してきた。彼はその言葉によると、共産党でもないし、悪質でもない。だから、このレッテルの下に生活に窮するということは、何としても不合理である、と考えた。そのレッテルから逃れるため、分離公判を受けたいと願って、村木弁護士のもとを訪れたのである。

そのことを、たまたま知って、彼のもとを訪れた私は、彼に何を訴えたいか、何を期待したいのか、とたずねた。彼は、共産党でないということを明らかにしたい、(それは、それを明らかにすることによって、取消された就職口や、家庭教師の口を回復し得ると期待したのであろう)もちろん、そ

のために公判を分離しようと思った、というのであった。

最後の事件記者 p.242-243 ミーハーを知らなくてはミーハーから取材はできない

最後の事件記者 p.242-243 インテリほどインチキなお体裁ぶり屋はいないのである。新聞記者の適性の第一は、インテリでないことである。ことに、事件記者には、インテリはダメである。
最後の事件記者 p.242-243 インテリほどインチキなお体裁ぶり屋はいないのである。新聞記者の適性の第一は、インテリでないことである。ことに、事件記者には、インテリはダメである。

そのことを、たまたま知って、彼のもとを訪れた私は、彼に何を訴えたいか、何を期待したいのか、とたずねた。彼は、共産党でないということを明らかにしたい、(それは、それを明らかにすることによって、取消された就職口や、家庭教師の口を回復し得ると期待したのであろう)もちろん、そ

のために公判を分離しようと思った、というのであった。

このような本音は、ことにインテリといわれる種類の人たちにとっては、それこそ本当に追いつめられてこなければ、吐けない言葉である。ここまで、本当のことをいわせるのが、記者の取材力である。インテリほどインチキなお体裁ぶり屋はいないのである。

私は兵隊の時に負傷したことがある。その傷口と出血をみて、私は脳貧血を起こしかけた。頭がジーンとなって、気が遠くなってゆくのを感じた時、「アア、俺は将校なんだ。こんなことで卒倒したら、笑いものになる!」という、お体裁の意識がヒラめいて、辛くも気を取り直したことがあった。

もっとも、これは、もし倒れれば、明日から将校として兵隊を使うことができなくなる、という、実利的な問題もあったのだが。

ロッキードとグラマンが、決算委で問題になっている当時、ある防衛庁高官が、赤坂のアンマさんに暴行を働いた、という事件が明るみへ出ようとした。この事件は、いろいろと止め男が出てきて、とうとうモミつぶされてしまったが、私が調べてみた限りでは事実である。

しかし、暴行の内容であるが、いわゆる強姦したのかどうかまでは、明らかではない。襲われた本人や、同僚の話によってみると、この防衛庁高官が、二十一歳のアンマさん(もちろん、正眼の娘さん)に、いわゆる襲いかかってきたことだけは確かである。

議員だからインテリではない、といったような逆説はやめて、国防大臣ともいうべき人だから

いわゆる知識人の範ちゅうに入る人物である。このような人でさえ、本音を吐けば、寝床に傍近く待らして、身体のマッサージをする娘さんに、何かを強要したくなるのである。私には、この老人の心理がよく判るから、ここで非難しようとするのではない。

つまり、東大の大学院学生であるK氏も、本音をはけば、食うのに困ってきて不安を感ずる一人の亭主にすぎないのである。しかも、インテリだから、歯を食いしばって、それに耐えて行こうとする、根性もないのである。

新聞記者の適性

新聞記者の適性の第一は、インテリでないことである。インテリであると、落伍すること請け合いである。インテリの記者には、表現力はあっても、取材力がない。ネタを取れるということと、記事が書けるということとは、車の両輪のようなものである。ことに、事件記者には、インテリはダメである。インテリの記者は、企画記事か発表記事、つまり取材競争のない記事しか書けないのだ。

一例をあげると、事件記者の取材の一番大きな対象は、お巡りさんである。お巡りさんはインテリではなく、ミーちゃんハーちゃんと同じ庶民、大衆の一部で、ただ国家権力を行使し得る、職業的専門家である。

ミーハーの心を知らなくては、ミーハーから取材はできない。お巡りさんの気持と、通じあい

交りあうものがなければ、彼らが公務員法でしばられている職務上の秘密を洩らすであろうか。発表を聞いて文字にすることは取材とはいわない。

最後の事件記者 p.244-245 今の気持を書いてください

最後の事件記者 p.244-245 K氏は私の前で、インテリのポーズをやめて、本音を吐いた。それには、私がインテリでないことを、先にK氏に見せてやったからである。相手がインテリでなければ、彼も何もブル必要がない。その方が気安いからだ。
最後の事件記者 p.244-245 K氏は私の前で、インテリのポーズをやめて、本音を吐いた。それには、私がインテリでないことを、先にK氏に見せてやったからである。相手がインテリでなければ、彼も何もブル必要がない。その方が気安いからだ。

ミーハーの心を知らなくては、ミーハーから取材はできない。お巡りさんの気持と、通じあい

交りあうものがなければ、彼らが公務員法でしばられている職務上の秘密を洩らすであろうか。発表を聞いて文字にすることは取材とはいわない。

その端的なケースが、捜査一課、つまり、コロシ、タタキを担当している記者たちである。テレビの事件記者の中で、スターとして登場してくる彼らは、新聞記者の花形の如くに扱われている。

しかし、現実にはどうだろうか。一課記者は、新聞記者仲間では、内心「フフン、デカか」と軽蔑されている。あるいは、気に喰わない一課記者を飛ばす時の文句は、「お前はデカか? 新聞記者なんだぜ、デカになってしまってはダメじゃないか」という。

だが、殺人事件が起ると、実際に各社を抜いてスクープするのは、そのデカみたいな記者である。あまり知性の感じられない、いわばデカになり切ったような記者である。本物のデカたちと共通の広場があるから、スクープできるのである。

この傾向は、本職のデカたちの間にもあるのだから面白い。強力犯を扱う捜査一課の刑事たちを横目にみて、会社から押収してきた帳簿類を調べながら、智能犯を扱う捜査二課の刑事たちはフフンと笑う。

「強力犯か、オレたちは智能犯だからナ」

そんな捜査一課、二課の刑事部の刑事たちをみる、公安部の刑事たちはまた腹の中で嘲笑う。

「フフン。ドロボーか。オレたちは思想犯だからナ」と。

ところが、さらに、同じように私服を着ているのだが、半張りを打ったドタ靴で、テコテコ歩き廻っている、これらの現場を持つ刑事たちに、ハナも引ッかけない一群がいる。それは、警務系統のお巡りさんである。

警務というのは、会社でいえば総務だ。この連中は、ドロボー一人を捕えることもできなければ、捕えても調書一つ満足にとれず、送検の手続きさえも充分ではない。つまり、同じ警察官でありながら、捜査という、警察官にとって、一番大切な、基本的な実務をせずに、事務屋でいてどんどん階級が上り、エラクなってゆく連中である。

新聞記者の世界も、もちろん、そうだ。事件記者というのは、フンダンに自動車が使えるだけで、実際には、軽蔑されているのだ。そうして、そのように一番大切な現場を踏んでいる記者よりも、総務畑といった、〝事件を知らない〟記者が早くエラクなる。何故かといえば、事件をやると、失敗して傷つく確率がふえるからである。危険率が多いのである。

記事訂正と記者

話がすっかりそれてしまったが、K氏は私の前で、インテリのポーズをやめて、本音を吐いたのであった。それには、私がインテリでないことを、先にK氏に見せてやったからである。相手がインテリでなければ、彼も何もブル必要がない。その方が気安いからだ。

そこで私はいった。「よろしい。貴方の御希望通りにお手伝いしましょう。そのためには、ニュースのキッカケというのがあります。その方が、記事を書きやすいから、あなたが、分離公判を受けたいという気持ちを、手記として、弁護士に寄せたという形式をとりましょう。今の気持を書いてください」

最後の事件記者 p.246-247 手記以前の問題では主張をまげていない

最後の事件記者 p.246-247 私の記者としての問題というのは、この手記の要約の仕方である。この手記要約の抗議については、私は彼の言い分を正しいと思っている。
最後の事件記者 p.246-247 私の記者としての問題というのは、この手記の要約の仕方である。この手記要約の抗議については、私は彼の言い分を正しいと思っている。

そこで私はいった。「よろしい。貴方の御希望通りにお手伝いしましょう。そのためには、ニ

ュースのキッカケというのがあります。その方が、記事を書きやすいから、あなたが、分離公判を受けたいという気持ちを、手記として、弁護士に寄せたという形式をとりましょう。今の気持を書いてください」

彼が書いてきた文章をみて、私は「バカヤロー奴」と舌打ちせざるを得なかった。彼の手記なるものは、彼の気持と全くウラハラな、例のむずかしい漢語の多い、公式的共産党的声明文である。「……し得る権利を保有したい」といった調子である。

学芸欄の論文じゃあるまいし、こんなものが全文社会面に載ると思って書いたのだろうかと、私はK氏の頭脳を疑った。インテリだから、文字にするとなると、自分の願っていることと、全くウラハラな漢語をつづり合せてしまうのである。

私はこの論文に大ナタを振って、話し言葉に近い部分と、赤いといわれて食えない、という部分だけを残した。そうして、手記の量が減ったので、弁護士のもとに申し出ている、他の二名の分離希望の被告の話とをまとめて、原稿を書きあげたのである。

私の記者としての問題というのは、この手記の要約の仕方である。K氏は抗議していうことには、「中学校の生徒に文章を要約させたとしても、もし私の手記をこのように要約したとしたら数師は多分落第点をつけるであろう」という。

今、素直にいって、この手記要約の抗議については、私は彼の言い分を正しいと思っている。しかし、手記以前の問題、「赤いといわれて食えない」という、根本的な問題において、彼の主

張を私はいささかも、まげてはいないと信じている。彼が、読売新聞の記事によって、〝赤くない〟という客観的立証を期待した限りにおいては、この記事はそれを立派に果している。

そして、その当時においては、共産党と自由法曹団にとっては、強烈な打撃であったことは確かであろう。

その後のK氏が、果して食えるようになったかどうか、記事のその意味での効果については、私は調べてみなかったので判らない。私は、K氏の抗議を、結論として全面的に突っぱねたのである。記者として、取消しから訂正などを出すということは、大変に不名誉なことである。

それは、彼の取材が不正確であったし、原稿の書き方が下手だ、ということだからだ。新聞内部の組織からいって、このような間違いの責任は、取材記者本人と、その原稿を採用して紙面に載せた当番次長、さらに社会部長ということになる。

一人の記者が、相手の抗議を入れて、しばしば訂正をし、取消しをしていたならば、それは記者としての失格を意味する。だから、新聞記者は訂正や取消しをがえんじないのである。新聞社が、訂正や取消しを簡単にしないのではなくて、その担当記者がしないのである。

長い年月と、費用とをかけて、これを裁判で争うだけの覚悟がなければ、新聞に抗議を申しこむのは、ドンキホーテである。新聞記者は、一、二の例外をのぞいて、全くのウソは書かないからである。もし、全くのウソを書いたとすれば、それは、ニュース・ソースがウソをついたか、全く善意の過失かの、どちらかである。

最後の事件記者 p.248-249 気持の良い笑いだった

最後の事件記者 p.248-249 「イヤ、大分御活躍じゃないか、反共記者ドノは!」「ハハハハ。しかし、石島弁護士というのも、御活躍だぜ」二人は、さっきの冷たい戦いも忘れて笑い合った。
最後の事件記者 p.248-249 「イヤ、大分御活躍じゃないか、反共記者ドノは!」「ハハハハ。しかし、石島弁護士というのも、御活躍だぜ」二人は、さっきの冷たい戦いも忘れて笑い合った。

石島弁護士の友情

K氏の事件も、アカハタ紙と東大学生新聞とが、大きく「読売のウソ」を報じたに止まった。しかし、面白いことには、アカハタ紙には「(K氏の立場が)反共の一線はハッキリしている」などの点は全くのいつわりだ、と、K氏はいっている。とあるのだが、この部分がすべてに詳しい東大新聞にはなく、アカハタ紙がつけ加えた感じがすることである。アカハタ紙がつけ加えず、K氏がその記者にだけそういったものなら、K氏のオポチュニスト性はいよいよ露呈されたワケだ。

「読売新聞が誠意をみせなければ、告訴するということも考えねばならない」

石島弁護士は、会談が最後にきたことを告げて、冷たくこういった。

「どうぞ。……もう、部長、局長に面会をお求めになっても、また、お会いになっても、ムダですから、その点もお断りしておきます」私も、静かに答えた。

石島弁護士はK氏を伴って、編集局を出ていった。私は一たん席へもどって、部長とデスクに帰った旨を断ると、急いで表玄関へ行った。以心伝心、彼はK氏と別れて、また戻ってきた。二人は喫茶店に入った。

「全く奇遇だったな」

「イヤ、大分御活躍じゃないか、反共記者ドノは!」

「ハハハハ。しかし、石島弁護士というのも、御活躍だぜ」

二人は、さっきの冷たい戦いも忘れて笑い合った。気持の良い笑いだった。

「だけどナ。今日のめぐりあいは、まだ良い方だよ。いつかは、警視庁の留置場で、Tの奴にあったよ」

「ヘェー。そうかネ」

Tは役人だったので、五中時代の友人だった、業者と一緒に、呑み食いして、洋服生地をもらったのが、汚職に問われた男だ。

「しかし、思い出すな。あのころを」

「ウン、結構、悪童だったからなア」

二人は時間のたつのも忘れて、すっかり話しこんでしまった。私が逮捕されるや、新聞記事をみた石島弁護士は、私の妻へ電話してきて、「お役に立てるなら、何時でも、どうぞおっしゃって下さい」と温かい言葉を贈ってくれたのだった。

最後の事件記者 p.250-251 私の人間形成に五中の影響は極めて大きかった

最後の事件記者 p.250-251 当時の私は成績優秀で、石島や商法の東大助教授三ヶ月章らと、一、二を争うほどであった。理の当然として、三人とも名門府立五中へと進んだ。
最後の事件記者 p.250-251 当時の私は成績優秀で、石島や商法の東大助教授三ヶ月章らと、一、二を争うほどであった。理の当然として、三人とも名門府立五中へと進んだ。

あこがれの新聞記者

懐しき悪童の頃

悪童の昔は懐しい。思想的立場の違う弁護士と新聞記者、しかも物別れになった事件を抱えてはいたが、小学校六年間の池袋かいわい、静かな大和郷を抜けて、駕籠町の五中へ通っていたころの、たのしい想い出話がはずんだ。

大正十年六月十一日、横井事件の発生と日を同じうして、大阪府下豊中郡(現豊中市)で私は生れた。当時、九大助教授を辞して、大阪市に大きな外科病院を経営し、その院長となっていた、父源四郎の五男であった。生後一年半で、〝医者の不養生〟から脳炎に倒れた父に死別し、一家は郷里岩手県盛岡市に帰ってきた。

キリスト教会の幼稚園から、県立女子師範の付属小学校二年に進んだ時、一家はあげて東京へ移り住んだのである。当時の私は成績優秀で、石島や商法の東大助教授三ヶ月章らと、一、二を争うほどであった。理の当然として、三人とも名門府立五中へと進んだ。

五中というのは、「創作、開拓」をモットーとした、自由主義校であった。私の人間形成に、

この中学の影響は極めて大きかった。人生の最初の関門ともいうべき、この中学へ合格できたという誇りが私を官僚志望へと向わせた。

級友の兄の少壮大蔵官僚に刺激されて、役人を目指して勉強にはげんでいた時代が、この私にもあったのだから懐しい。一高、浦和を目指すこの秀才少年も、やがて、上級生の中に、後の左翼評論家キクチ・ショウイチを知るにおよんで、早くもコースから外れてしまった。

中学二年のころ、五中の先輩故金杉惇郎の主宰する新劇団「テアトル・コメディ」というのが活躍していた。金杉夫人の長岡輝子の母堂が、私の母の女学校時代の先生だったので、お義理の切符が廻ってきた。私はそれをもらって、はじめて築地小劇場に行って、たまらない魅力を感じてしまった。

五中生の創作活動というのは、学校の奨励と相俟って、極めて盛んだった。その時、キクチ・ショウイチが演劇部というのを新設したものだから、私はイの一番に参加した。そうして、新協、新築地、文学座などと、当時の新劇公演をみて歩くうち、「役人になろうなんて、何てバカヤローだ」と、考えるようになってしまった。

上級に進むにつれ、私は「官僚」を完全に投げ出していた。校友会の雑誌部で「開拓」という校友会雑誌を、論文と創作だけで編集してみたり、真船豊の芝居を上演したり、学生新聞の発刊を計画しては、先生に叱られたりといったように、どちらかといえば左翼ヅイていたのだった。

卒業の時、水戸高校の文科を受けた。受験勉強などはあまりしていなかったが、学科試験には

十分自信があった。発表を見に水戸まで出かけてゆくと、合格しているではないか。自信があったとはいえ、こんな嬉しいことはなかった。同行して理科を受けた漢方薬問屋の倅山崎という男と、祝盃をあげようということになったのが、間違いのはじまりだ。

最後の事件記者 p.252-253 勝利の美酒に酔い痴れて

最後の事件記者 p.252-253 女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。
最後の事件記者 p.252-253 女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。

卒業の時、水戸高校の文科を受けた。受験勉強などはあまりしていなかったが、学科試験には

十分自信があった。発表を見に水戸まで出かけてゆくと、合格しているではないか。自信があったとはいえ、こんな嬉しいことはなかった。同行して理科を受けた漢方薬問屋の倅山崎という男と、祝盃をあげようということになったのが、間違いのはじまりだ。

当時は高等学校に入れば、大人の仲間入りである。二人は大人になったつもりで、水戸の駅裏にあったカフェー「ルル」という店に入って、はじめてタバコを吸い、ビールや酒を呑んだものである。おっかなビックリ、女の肩も抱いてみた。

深更、勝利の美酒に酔い痴れて、旅館に帰ってきたはいいが、どういうものか寝つかれない。私が反転すれば、山崎も寝返りを打つという有様で、雨戸のスキ間から朝日がさしこみはじめてようやくウトウトとした。

女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、文科は口試、理科は体検と別で、翌日はその逆だ。寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。曲りなりにも試験だけは受けさせてもらったが、結果はもちろんダメ。山崎も、カフェー「ルル」のせいか、卒業まで裏表六年かかるという始末だった。

「畜生メ、見ていろ」

浪人生活に入った私は、もう完全に演劇青年だった。やはり、五中の先輩のいた劇団東童で実践活動に入ってしまった。母親はこのグレた末息子に手を焼いて、徴兵の年がくると、「どうか、

学校だけはいっておくれ。お父さんに顔向けできないよ」と哀願した。

父亡きあとの長兄は、二高、京大理学部、東大大学院というコースの、徹底した官学主義者であった。「男は東大か京大、女はお茶の水にあらざれば人にあらず」といったコリ固りだった。だから、もちろん私の私大入学など認めようとしない。

徴兵逃れに、私は母の頼みで上智大学に入ったが、ドイツ語をサボったので二年に進級できない。私は演劇青年だから、落第したのを機会に、日大芸術科へ入学するといったけれども、長兄が「学資を出さない」と、日大入学を認めてくれない。

それを聞いた次兄が乗り出してきた。次兄は早大理工の、これまた徹底したアンチ官学派であった。「ヨシ、学資はオレが心配してやるから、その代り小遣いは自分でやれ」といって、私の日大入学を支持してくれた。

私は日大の芸術科に入ったが、その時、どんなつもりだったのか、演劇科や映画科をえらばずに、新設の宣伝芸術科というのを、専攻に選んでしまった。その理由は今では覚えていないが、時局はいよいよ急迫しており、国家宣伝という、与論形成のプロデューサーともいうべき、この科に何となく興味を覚えたものらしい。

私はこの日大で、作家三浦朱門の父、三浦逸雄先生に教わって、はじめて、ジャーナリズムへの開眼を受けたのだった。

「ヨシ、新聞記者か、少くともジャーナリストになろう!」

最後の事件記者 p.254-255 今でいうアルバイト学生だった

最後の事件記者 p.254-255 国策グラフ誌「ニッポン・フィリピンズ」が発刊されると、その編集部につとめて、ユーモア作家小此木礼助に編集を教わり、二紀会の橋本徹郎や若き日の亀倉雄策にレイアウトを教わったりした。
最後の事件記者 p.254-255 国策グラフ誌「ニッポン・フィリピンズ」が発刊されると、その編集部につとめて、ユーモア作家小此木礼助に編集を教わり、二紀会の橋本徹郎や若き日の亀倉雄策にレイアウトを教わったりした。

私はこの日大で、作家三浦朱門の父、三浦逸雄先生に教わって、はじめて、ジャーナリズムへの開眼を受けたのだった。
「ヨシ、新聞記者か、少くともジャーナリストになろう!」

私はそう決心した。しかし私は昔の苦学生で、今でいうアルバイト学生だった。次兄との約束もあり、銀座の喫茶店のボーイ兼バーテン兼マネージャーをしたり、コンサート・マネージャーをしてみたりして、小遣銭、というより遊ぶ金を稼いだのだった。

太平洋戦争が始まり、日本軍がマニラを占領するや、ライフの向うを張って、フィリピン向けに作られた、国策グラフ誌「ニッポン・フィリピンズ」が発刊されると、午後からその編集部につとめて、故人のユーモア作家小此木礼助に編集を教わり、二紀会の橋本徹郎や若き日の亀倉雄策にレイアウトを教わったりした。

そして、日大卒業の時がきた。戦争はすでにたけなわになっていて、我々は半年の繰り上げ卒業であった。私の日大入学に反対した官学派の長兄とは、その時以来ケンカ別れであった。同じ家にいても口一つきかなかったのだ。私はこの卒業の時に、何とか長兄をヘコましてやりたいものだと考えた。

そのため、もちろん兵隊に行って、戦死をするに違いないと思ったが、公募する会社の入社試験を受けて、長兄と仲直りする機会を作ろうと思ったのである。三浦先生に相談して、朝日、読売、NHKのアナウンサーと、三社を受験した。みな、それぞれに何十倍という競争率だった。

試験問題をみると、さすがにどこでも時局色があふれていた。朝日の作文は「戦争と科学技術」、単語には、承詔必謹とか七生報国といった類いで、読売も、論文が「決戦下新聞の使命について」、単語となると、波動兵器、応徴士、広域行政などで、和文外国訳が「東条首相の訓示」といった

有様だった。

成績には、三社とも十分な自信があったのだが、朝日からは「残念ながら、貴意に添い難く……」の返事がきた。不思議に思った私は、同郷の大先輩であった故伊東圭一郎出版局長をたずねて、事情を調べて頂いた。すると、「試験成績は合格圏内だったのだが、出身校が……」と、いい難そうに説明されたのである。

激怒した私は、数寄屋橋の上から朝日新聞社を振り仰いで、ハッタとばかりニラミつけた。

「畜生メ! 見ていろ、あとで朝日が口惜しがるような大記者になって見せるゾ!」

と、誓ったものである。朝日の三階のバルコニーから、演説をしてみたいというのが私の夢だったからだ。

(写真キャプション)朝日は日大出身ゆえに落第、NHKはアナ採用