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シベリヤ印象記(0) 4月18日配信スタート

シベリヤ印象記 ~1945-1947~ 1999年4月1日開設 管理人:田志偉(デンシイ)
シベリヤ印象記 ~1945-1947~ 1999年4月1日開設 管理人:田志偉(デンシイ)

三田和夫著「シベリヤ印象記」は、1999年4月18日~2000年9月25日の間、「編集長ひとり語り」と併行して執筆された。途中の記事発表日付は不明なので、便宜的に日付を振ってある。なお、本文中では、「シベリヤ」ではなく「シベリア」で表記を統一。

シベリヤ印象記

~1945-1947~

このとき僕達は
これから地獄のような日々を迎えるとは思いもしなかった…

1999年4月1日開設

管理人:田志偉(デンシイ)

2年間にも及ぶシベリヤ抑留時代を
ジャーナリストの視点で赤裸々に語ります。
残り少なくなった戦争の実体験を持つ筆者の青春時代の自叙伝。

1999年4月18日メルマガ(無料)配信スタート
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シベリヤ印象記(1) シベリヤ印象記のはじめに①

シベリヤ印象記(1)『シベリヤ印象記のはじめに①』 平成11年(1999)4月18日 画像は三田和夫22歳(左から2人目。歯を見せて笑顔 1943~1944ごろ)
シベリヤ印象記(1)『シベリヤ印象記のはじめに①』 平成11年(1999)4月18日 画像は三田和夫22歳(左から2人目。歯を見せて笑顔 1943~1944ごろ)

シベリヤ印象記(1)『シベリヤ印象記のはじめに①』 平成11年4月18日

1999年4月16日、ハルピン学院の最後の同窓会が催された。敗戦で消滅した、中国東北部ハルピン市にあった学院は、最後の学生さえも70歳を過ぎて、同窓会の維持が難しくなったという理由からだった。

この学校は、ロシア語とソ連事情の教育が中心だったので、東北部に進入してきたソ連軍によって、対ソスパイ養成機関とみなされてシベリアに送られたものが多かった。

と同時に、シベリア抑留の中心となったのは、在満部隊(旧関東軍)だったが、対ソ圧力であった関東軍では、ロシア語教育が行われており、通訳できる兵隊を養成していた。だが、私の所属していた北支軍では、そんな兵隊はいなかった。なにしろ、関東軍を南方戦線に抽出したあとに、北支軍をあてて、私たちの師団主力はソ満国境に出ていたが、移動の最後尾の私の大隊が長春市(旧新京)に到着したのが、1945年8月13日の夜だったほどだ。だからロシア語のロの字もわからない。

15日の天皇放送から、満州国軍の反乱、その鎮圧、在留婦女子の保護、治安の維持と目まぐるしい数日の後、ソ連軍の首都入城となった。国境地帯で交戦した気の立っているソ連軍は新京市内に入れず、日本軍と交戦していない部隊を入城させたというソ連司令部の話だったが、虐殺、強姦、掠奪は、日常茶飯事だった。家に押し入ってきたソ連兵が、父母の面前で娘をレイプしようとする。それを止めに入った父親に、“ダダダダッ”とマンドリン(ソ連製自動小銃)が火を噴く。母親も標的にされる——戦争の悲惨な姿が、一夜にして崩壊した満州帝国の首都で、絶え間なく展開されたのだった。

首都に武装した日本軍がいると、衝突の恐れがあるというので、半分だけ武装解除された日本軍は、南の公主嶺市に撤退する事になった。8月19日のことだった。半分というのは、重火器は取られたが、小銃、軽機関銃程度は認められた。公主嶺までの行軍の自衛のためである。事実、ソ連兵と共に暴徒化した満人たちも日本人を襲っていた。この新京での4日間の体験は、敗戦都市ではナニが起こるか、それこそ、筆舌に尽くし難い“地獄”であるということだ。

公主嶺は、かつて日本の軍都だった。だから兵舎の数が多い。新京から追われた私たちは、それらの施設に入って、まず食料の確保である。公主嶺の貨物廠(倉庫群)から、米、味噌、醤油を自分たちの部隊にどれだけ多く取りこめるかである。ここにはまだソ連軍が進駐していなかったのだ。

満州には、百万関東軍を30年間養えるだけの食料が備蓄されている、といわれた。事実、食料だけは豊富にあったが、兵器、弾薬はゼロに等しかった。そして、掠奪に群がる満人たちを追い払いながら、大型の荷車に山のように米を積んで兵舎に持ちこんだ。

衣類も新品が積まれていた。食料が終われば、衣類と酒と甘味品だった。北支軍は綿の軍服だったが、関東軍は日本と同じ羅紗(ラシャ=羊毛)の軍服だ。兵隊たちは争って羊毛服に着替えた。ネルの下着、毛の防寒下着もあった。北支では見たことのないものばかりだ。ことに、ウイスキーやチョコレートの入った航空食糧には驚いたものだった。

やがて、ソ連軍が進駐してきて、兵舎のまわりに歩哨が立った。将校の軍刀以外は、完全に武装解除されたからだ。兵営の中に軟禁されたことになる。日本に帰れるとばかり思いこんでいた私たちは、敗戦とはいえ元気一杯だった。毎朝起きると、フンドシをはじめ、下着、軍服とすべて新品に着替え、運動会を催したり、体操をしたりと、日本での新しい生活に備えていた。昨日1日着ただけの衣類は、塀の外に放り投げ、満人たちが拾っていった。

敗戦とはいえ、公主嶺の1カ月は天国さながらのゼイタク暮らしだった。虐殺やレイプも見聞きせず、帰国の希望に燃えた若者の集団生活で、ビールに砂糖を入れたりの悪フザケや、食べ放題、飲み放題の生活だったからだ。

昭和20年の10月も半ばすぎ、駅から貨車に乗った。列車で南下して朝鮮経由で祖国へ、と思いこんでいたのに、汽笛とともに列車は北上するではないか。「そうか。南下ルートは混んでいるからナ」と、不安を打ち消す噂が流れた…。だが、北上をつづける列車は、やがて満州里(満ソ国境の街)目指しての一本道へと進んでいった。

「シベリア送りだ」「捕虜だぞ」と、絶望的な声が無気味に列車を支配していた。私も覚悟を決めた時、あるひらめきがあった。新京での在留邦人保護の時、一軒の民家で拾った「日用日露会話」というポケットブックを思い出したのだった。(つづく) 平成11年4月18日

シベリヤ印象記(2) シベリヤ印象記のはじめに②

シベリヤ印象記(2)『シベリヤ印象記のはじめに②』 平成11年(1999)5月8日 画像は三田和夫65歳(最後列中央高笑い シベリア会1986.11.27)※シベリア会:シベリア・チェレムホーボ収容所の戦友会
シベリヤ印象記(2)『シベリヤ印象記のはじめに②』 平成11年(1999)5月8日 画像は三田和夫65歳(最後列中央高笑い シベリア会1986.11.27)※シベリア会:シベリア・チェレムホーボ収容所の戦友会
シベリヤ印象記(2)『シベリヤ印象記のはじめに②』 平成11年(1999)5月8日 画像は三田和夫65歳(最後列中央高笑い シベリア会1986.11.27)※シベリア会:シベリア・チェレムホーボ収容所の戦友会
シベリヤ印象記(2)『シベリヤ印象記のはじめに②』 平成11年(1999)5月8日 画像は三田和夫65歳(最後列中央高笑い シベリア会1986.11.27)※シベリア会:シベリア・チェレムホーボ収容所の戦友会

シベリヤ印象記(2)『シベリヤ印象記のはじめに②』 平成11年5月8日

多分、8月16日の深夜のことだったと思う。私が初めてソ連兵と接触したのは…。

「有力なソ連戦車集団は、8月15日未明、新京南郊外に到着する模様…」という、首都防衛軍司令部の命令で、私たちは南新京の丘陵地に防衛線を造った。ソ満国境に進出していた師団司令部とは、もはや連絡も取れない私たち第205大隊は、防衛軍に編入されていた。「一兵能く敵戦車一両を倒し…」というのは、体当たり自爆を意味していた。だが戦車用の爆雷もなく、手投げ弾を4、5個ごとにヒモで縛ったものを抱えて飛びこむ…。

タコ壷を掘って身を潜め、地面に耳を当てて地響きを聴いていた。「オレの人生もこれで終わりだな」と、静かに想った。回想に出てくる恋人も妻子もなく、母親だけしか思い浮かばなかった。読売新聞新京支局に、北支から満州に移駐したことを、母親に伝えたいと、幾度か電話したが、空しくコーリングが鳴りつづけるだけだった。

そんな回想のうちに、15日の朝が明けて正午の放送を聴いた。天皇の声は、あのイントネーションで本物だと思ったが、どうやら戦争が終わったことを知った。

「また、読売新聞に戻れる!」日本の敗戦というよりも、生きていて良かった、というのが実感だった。

8月15日の午後から、満州国軍の反乱が起き、部隊は邦人婦女子の保護にまわった。我が三田小隊50余名を指揮して、日本人宅をまわり、付近の錦ヶ丘高女の校舎に集合させていた時のことである。先方から隊列を組んだ兵隊が進んでくるのである。

「オヤ? ここらあたりは私の担当で、他の部隊がくるハズもないのに…」と、我が方も隊列を組んで進みながら、先方を凝視してみると、どうも日本軍らしくない。と、距離が詰まってきたところで、先方もこちらに気付いたようだ。ソ連軍だ!

どちらが先に発砲するか、息詰まる瞬間がつづく。どうやら、向こうもオッカナビックリの感じだった。広い道路の両側で、日ソ両軍は素知らぬフリをして、スレ違った。兵力は同じぐらいの、先遣隊だったらしい。首都には、戦闘していない部隊を進駐させたので、衝突が避けられたのだろう。信じられないような事実である。

そんな邦人婦女子の保護で、日本人宅をまわって、悲惨な死体も数多く目撃した。レイプしたあと、生かしておくと問題化のおそれがあるので、殺してしまうのである。そして、ナニ気なく拾ったのが、日用日露会話本だ。貨物列車が西に向かった時から、私はロシア語を習いはじめた。先生は、三田小隊の貨車に乗りこんでいる、若い警戒兵である。

私は、そのソ連兵の隣で、イチ、ニイ、の数詞から、コンニチワ、サヨナラなど、会話本のフリガナを読んでは、彼に発音を直してもらった。もちろん、無学な彼は、ロシア文字も読めないが、発音は理解できる。

1カ月ほどの貨車輸送ののち、私たちはバイカル湖の南側を3分の1周ぐらいまわって、イルクーツク州チェレムホーボ(のちに地図で見ると、シベリア鉄道でイルクーツクから二駅目だった)に到着した。昭和20年10月の半ば頃だったろう。

1カ月ほどのロ語特訓で、私は基礎ロシア語の概要を身につけていた。それは、私の丸2年間のシベリア生活に、大いに役立ったし、旧部下たちの生命の安全にもプラスしたと信じている。

チェレムホーボ第一収容所。この炭坑町にきたのは、私たちが第一陣だったろう。北支派遣軍第十二軍第百十七師団第八十七旅団独立歩兵第二百五大隊。同第二百三大隊。合計3000名(ソ連側は、数が判り良いように、一大隊1500名を原則とし、数が足りない分は満州内で、日本人を見れば拉致してピッタリにしていた)。これを第一大隊、第二大隊として、さらに満州部隊の1000名の第三大隊を付け加えて、4000名の大収容所を組織した。

なぜ、ここに軍の組織を列記したかといえば、ソ連側は、日本兵捕虜を統制しやすいように、日本軍の建制をそのまま利用した。そして、点呼など、日常生活のほとんどを、自主管理させたのだった。

だが、やがて、軍の建制のままでは、団結が良すぎて、ソ連側の意図した反軍闘争、対将校階級闘争など、いわゆる民主化闘争の壁になることに気付き、収容所を改廃し、部隊をゴチャマゼにするのだった。

それらは、私たちが将校梯団の第二陣として、満2年で“ダモイ(帰郷)”したのちのことで、昭和21年の春、日本兵捕虜の死ぬべき連中が死に、身体も極北の地に適応したのを見届けてからだったのである。(つづく) 平成11年5月8日

シベリヤ印象記(3) シベリヤ印象記のはじめに③

シベリヤ印象記(3)『シベリヤ印象記のはじめに③』 平成11年(1999)7月3日 画像は三田和夫66歳(右から2人目ワイシャツネクタイ シベリア会1987.12.05)※シベリア会:シベリア・チェレムホーボ収容所の戦友会
シベリヤ印象記(3)『シベリヤ印象記のはじめに③』 平成11年(1999)7月3日 画像は三田和夫66歳(右から2人目ワイシャツネクタイ シベリア会1987.12.05)※シベリア会:シベリア・チェレムホーボ収容所の戦友会

シベリヤ印象記(3)『シベリヤ印象記のはじめに③』 平成11年7月3日

私たちを詰めこんだ貨車が、公主嶺から新京(長春)を過ぎ、ハルピンを経て国境の町、満州里からシベリアに入り、進路を西に向けた時から、貨車の中はどよめきが起こった。戦争が終わったのだし、テッキリ祖国日本へ帰れるものだと、誰もがそう思いこんでいたのだから、西に向かったということは、ようやく、自分たちが戦時捕虜になったことを教えてくれた。シベリアに入りながらも、列車は東に走り、ウラジオから日本へという、最後の夢が打ち砕かれたからだ。

簡単に旧軍の組織(建制)を説明しておこう。まず、現役兵(満20歳で徴兵)だけの部隊が甲編成。現役兵と召集兵(満二年の現役兵役を終わり、予備役になっていた者や、兵隊検査で乙種合格だった者なので、年齢は20代後半から30代の者)とが半々というのが、乙編成という。満州に駐屯して、対ソ圧力になっていた関東軍などは甲。私たちのように、中国本土に駐屯していたのは乙であった。関東軍は内地部隊と同じ編成だったが、支那派遣軍などは「野戦軍」と呼ばれ、実質的に臨戦体制だったのである。

それが、前回述べた「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」である。これは組織の名称で、会社の中の局、部、課、班と同じだ。これが甲編成だと、3個小隊(大体12、3名の分隊が4個)で1個中隊。3個中隊で1個大隊。3個大隊で1個聯隊。3個聯隊で1個師団。というのが原則だった。師団長は中将、聯隊長は大佐、大隊長は少佐、中隊長は大尉か中尉、小隊長は少尉であった。

軍は「将校は国軍の楨幹」として、旧制中学2年から入学できる幼年学校、中学4年、5年から入学できる士官学校(幼年学校卒業生を含む。海軍は江田島の兵学校)と、職業軍人を育成した。士官学校を卒業すると見習い士官に進み、半年余りで陸軍少尉に任官する。さらに、大尉になると、軍官僚の養成のため陸軍大学を受験できる。実に、陸軍士官学校を卒業すると、21、2歳で少尉任官、大尉は24、5歳であった。それで「天皇陛下の軍隊」を指揮する能力が養われたのだ。

こうした職業軍人の将校は、時間と教育費を注ぎこみながら、少尉の役職は第一線小隊長だから、戦死率が高くモッタイないというので、予備士官学校を設け、一般兵(徴集)から幹部候補生を募った。試験にパスすると、その成績で甲種(士官適)と乙種(下士官適)とに分けた。甲種幹部候補生が入学するのが、この予備(役)士官学校だった。1年の教育で少尉に任官させ、同時に予備役に編入される。現役の少尉より格下で、消耗品だったのである。

軍は、この予備役将校を乙種編成部隊の下級幹部として活用した。それが、師団(旅団)⇒独立歩兵大隊となる。天皇から賜った軍旗(聯隊旗)がないのだ。独歩大隊は小銃中隊5、機関銃中隊1、大隊砲中隊1の、7個中隊で正規の大隊より大きく、聯隊より小さい組織である。これが支那派遣軍だった。二〇三、二〇四、二〇五、二〇六の独歩四大隊が百十七師団になる(2個大隊宛、八七、八八旅団)のだが、一般の兵隊検査を受け、初年兵として一般兵と同じく訓練と生活をともにしたのち、幹候試験に合格して、予備士官学校に進み、将校になってもとの部隊に帰ってくる。

正規の士官学校では、兵隊と一緒の生活をしていない。エリート将校なのである。関東軍や内地部隊の甲編成部隊では、階級章の星の数が、上下関係のすべてなのである。そういう環境にいた部隊は、捕虜になっても、そうである。だから、団結力とはいえないが、上下関係に縛られるのだった。

それに対し、野戦軍であった私たちの二〇三、二〇五の大隊は、対共産軍、対国府軍との戦闘で、死線を共にくぐってきたので、団結力があった。入ソ当時、この日本軍の建制のままだと、自主管理させるのには便利だったが、抑留が長引き、シベリアの気候風土に馴れてきた捕虜たちに、思想教育するのにはこの建制が邪魔になってきたことは、想像に難くない。

大体からして、満ソ国境の部隊を、米軍の本土上陸に備えて内地に戻し、その穴埋めに北支からやってきた我々は、在満部隊とは異質だった。だから、建制のまま炭坑労働に従事させて1年余り、まず将校と下士官兵とを分離し、将校だけの作業隊で石炭掘りをさせたのだった。そこらあたりが、軍隊に“しんにゅう”をつけて“運隊”と呼ぶように、私たちは労働成績優良ということで、将校梯団の第2陣として、早期に帰国復員できた。丸2年の捕虜生活だった。(つづく) 平成11年7月3日

旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた

シベリヤ印象記(4) シベリヤ印象記のはじめに④

シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫の手紙原稿(シベリア会のみなさんへ1986.12.07)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫の手紙原稿(シベリア会のみなさんへ1986.12.07)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫66歳(左から2人目 シベリア会の水上温泉旅行・奥利根館1987.06.21)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫66歳(左から2人目 シベリア会の水上温泉旅行・奥利根館1987.06.21)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫66歳(右端 シベリア会の水上温泉旅行1987.06.22)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫66歳(右端 シベリア会の水上温泉旅行1987.06.22)

シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年8月28日

旧軍隊の組織について、長々と書いたのはほかでもない。60万人の日本兵を捕虜にして、一割の6万人を死なせてしまったソ連だが、この60万人の組織が、在満日本軍のほかに、在支軍、在蒙軍、一般市民に分かれる。それらの出身別を理解しないと、ソ連側の対応が理解できない。

チェレムホーボ第一収容所は、私たち第二〇五大隊基幹の1500名が第一大隊、第二〇三大隊基幹の1500名が第二大隊、在満軍(関東軍は南方転出していたので、その交代部隊)基幹1000名の第三大隊、計4000名の収容所だった。戦闘に勝って捕虜を獲得すると、これを収容する建物と食料とが重大問題である。どうして食わせるかが、頭痛のタネである。コソボの難民問題も同じである。いわゆる南京事件で、日本軍が捕虜を殺したというのは、日本軍でさえ食料に事欠くのだから、正規に捕虜とする前に“処置”してしまった事も、事実であろう。

私たちがチェレムホーボに第一陣として到着した時、ソ連側は食料の準備など、できていなかった。私たちが満州から貨車に積みこんで持ってきた、米、味噌、醤油で、12月頃まで食いつないだのだ。その間に、ソ連側は満州から、日本軍が蓄積していた馬の飼料(コーリャン、アワ、ヒエ、などの雑穀類)を輸送してきて、支給した。

つまり、ソ連側の日本兵捕虜をどうするのか、その大方針が昭和20年いっぱい、決まっていなかったのである。そればかりか、零下数十度の酷寒である。私の体験したのが零下52度。風速1メートルで体感温度は1度下がる。日本人の多くが、初めて体験する寒さだから、作業するどころではない。手はいわゆる軍手の綿、その上に毛の防寒手袋。さらに和紙の入った防寒大手袋をしても、寒さで手がシビれてくる。足も綿靴下、毛の防寒靴下、さらに防寒靴という毛皮裏の靴。そんな重装備でも、足踏みをしながら、手の指を握ったり、伸ばしたり。顔は毛皮つきの防寒帽で耳まで覆っていても、鼻の頭がスーっと白くなって凍傷にかかる。鼻覆いという毛皮で鼻を隠し、露出しているのは目と口だけ。それでも、吐く息でマツ毛に白く氷がつくという始末だった。

米が無くなり、馬の飼料のオカユになって急速に体力が落ちていった。そこに寒さとシラミによる発疹チブス。昭和20年12月から21年3月までの間に、私の推計では800名(2割)が死んだと思う。それも、30歳代以上の召集兵が中心である。20歳代と30歳代との体力の違いが、これほど明らかに、目に見えたのである。

そして、さらに驚いたことには、翌21年の冬である。20年の冬を乗り切った20歳代の連中は、もう身体が酷寒に馴れて、地下炭坑での採炭シャベルを使うのに、胸をハダけて働けることだった。そればかりか、昭和22年の冬の日本で、オーバー不用の寒さ知らず(ついでに、ひもじさ知らず)だった。ただし、23年の冬からは寒かったし、空腹だったのである。人間の身体は1年で風土に同化できることを知った。

ソ連側は、日本兵捕虜を、組織的にシベリア開発の労働に使用し、帰国後の親ソ分子の養成のための洗脳、いわゆる民主化運動を進めたのは、このような無秩序の抑留から、死ぬべきものを死なせたあとの、約1年を経過してからだった。

初等教育も十分でないソ連だから、10月、11月の早朝の寒さの中の点呼で、警備兵たちは、三列に並べて数を数え出すが、十位を過ぎると怪しくなる。五列に並べ直して、また始める。バカらしくて、寒さの中に何十分も立っていられるものではない。大隊長がソ側に交渉して、点呼は日本側の責任でやることになった。

続いて、作業隊の編成、勤務。すべてに日本側の自主管理となった。野戦軍であった私たちは、建制のままで作業隊を組織したのである。一例をあげると、地下炭坑のシトウリヤナは、各中隊から1個小隊宛、朝8時から午後4時、4時から深夜12時、12時から朝8時と、8時間労働の三交代制。三田少尉は三田小隊52名を連れて作業する。そして、炭坑側の要求するノルマ100トンの採炭を完遂すれば、金ダライ(満州からの戦利品の金属製洗面器)一杯のオカユを4人で分配し、ノルマ達成以下だとそれを6人、8人、10人と分配量を減らしてゆく。

この建制の作業は、仲間たちと協力して働くのだから、もう、軍曹も伍長も、上等兵も一等兵も、階級は関係無しだ。だが、礼儀だけはキチンと守られていた。21年いっぱいを経て、ソ連側の管理組織が整備されてくると、この建制のままの捕虜集団では、洗脳教育が難しいことを知ってくる。(つづく) 平成11年8月28日

編集長ひとり語り第39回 士はおのれを知る者のために

編集長ひとり語り第39回 士はおのれを知る者のために 平成12年(2000)6月7日 画像は三田和夫71歳(1993.03)
編集長ひとり語り第39回 士はおのれを知る者のために 平成12年(2000)6月7日 画像は三田和夫71歳(1993.03)

■□■士はおのれを知る者のために■□■第39回■□■ 平成12年6月7日

もうすぐ、6月11日がくると、私は満79歳になる——考えてみると、長い人生を過ごしてきたことになる。3月、4月になると、兵隊の会や、シベリア会といった集まりがある。そういった会に出てみると、天皇陛下のために生命を捧げて神国日本を護ろうといったことも、つい先ごろのようでもあり、もうずいぶんと昔のことのようでもある。でも軍隊とは、シンニュウをつけて“運隊”だったから、生きのびて今日があるのだ。

「士はおのれを知る者のために死す」という。天皇の場合は、いまはやりのマインド・コントロールだったのだろうが、ある時、ひとりの政治関係の老人がこういった。「どうだ。小渕をどう思うね。彼を総理にするため、一肌脱がないか」と。私は答えた。「イヤです。人物が小さいから…」と。

あの時、ハイといえば、正論新聞の経営はラクになったろう。櫻井広済堂のボスに、「ウチで印刷してやろうじゃないか」と誘われたが、「結構です」といった。彼に借金ができて、親分ヅラされるのがイヤだったからだ。

政治家では、読売時代に農林省クラブで見ていて、河野一郎(洋平じゃない)なら、親分にしてもいい、と感じた。軍隊でいえば、中隊長の島崎正巳中尉か。新聞記者では読売の原社会部長。その延長線上の務台光雄社長。記者生活の中で知ったヤクザの親分衆にも、人間的に魅力のある人もいた。人の上に立つ人には、やはりそれだけの魅力があって、「あの人のためならば…」と、思えるのである。

府立五中のクラス会があって、安楽死が話題になった。と同時に、長寿と延命と介護の問題も…。ひとりがいった。年を老ってボケになるのも天の配剤だと。シモの始末など、ボケなら恥じないという意味だ。だが、自分自身の意思で、自分自身の行動ができなくなって、生き永らえることは、私にはできそうもない。その延命にどんな意味があるのか。

私が、正論新聞の刊行に努力するとき年齢を感じたことがない。だから、今後も原稿を書きつづけるのであろう。そして多くの友人知己の訃報を聞くたびに、おのれを知る者のために死すべき機会を失ったのを悔やみ、馬齢を重ねつづける…。 平成12年6月7日

編集長ひとり語り第40回 皇太后さま、さようなら…

編集長ひとり語り第40回 皇太后さま、さようなら… 平成12年(2000)6月18日 画像は三田和夫48歳(1970.06.08)
編集長ひとり語り第40回 皇太后さま、さようなら… 平成12年(2000)6月18日 画像は三田和夫48歳(1970.06.08)

■□■皇太后さま、さようなら…■□■第40回■□■ 平成12年6月18日

報道機関の揃い踏みみたいに、皇太后さまの微笑みのおだやかさと、品の良さとが報じられていた。

だが、それもそうだが、エピソードを語るむかしの女官たちの姿を、テレビで見たときに私は愕然とした。いまの時代に、これだけの年齢(俗にいえば老婆のタグイ)で、これだけ美しく、これだけ上品な女性が、まだ生き残っていたのか、という驚きである。しかも和服姿である。

いま、巷にあふれている、40歳、50歳代のオバサンたち。そして、60歳、70歳代の老女たち——そのほとんどが醜いし、そして、所構わず、あたり構わず、奇声、嬌声を大きく高く発して、ひんしゅくを買っていることにさえ、気がつこうとしない。

さきごろ、特急列車に乗った。空いていたので、向かいの座席をクルリとまわして、靴を脱ぎ、足を伸ばして、眠ろうとした。昨夜が寝不足だったから、この2時間は貴重な睡眠時間だった。が、眠りはすぐ破られた。

私から4席ほど先の席で、3、4歳の男の子が、甲高い声で騒ぎ出したのだ。後ろ姿で30歳後半の母親は何も言わない。30分ほど我慢していたが、ついに立った。

「ここは公共の場ですよ。子供に静かにしているよう、しっかりシツケなさいよ」

「……」

女はふり向いただけで、わけの分からぬオリエンタル・スマイルを浮かべただけである。子供は騒ぎつづけている。

「このぐらいの年齢でキチンとシツケないと、あと10年もすると、アンタが殺される番ですよ」——女には意味が通じなかった…。

このタグイの母親たちと、それが少し年齢をとった女たちが、街にあふれている。そして老女たちは、自分の顔やズングリムックリのスタイルに、まったく似合わない色や形の服を着て、似合いもしない帽子をかぶって、群れをなして横行している。厚底靴やガングロ、ヤマンバの娘たちは、街のどこにでもいるわけでないから、彼女らの棲息地に入らなければ、不快感を覚えることもない。

が、このタグイの老女や人妻たちは、街のあらゆるところに押し出してくるから、マユをひそめざるを得ない。

テレビのタレントたちの下品さ——その顏も仕事も最低である。政治家たちの、土方(むかしの概念で)か暴力団のような顔立ちを見ると、吐き気がする。民主党の若い候補者たちの多くが、知的で意欲的な表情を見せているのに、自民党の古い議員たちの、なんと下品な奴が多いのか。

前述の列車に乗っている時、「毎日新聞電光ニュース」が流れた。「…天皇、皇后両陛下はいったん皇居に戻った」(6・16所見)とあった。記者もまた「戻った」と「戻られた」との、一字違いの言葉の使い方さえ分からない時代である。

保守党の扇千景党首は、演説で「アタシ」と「アタシども」という。あの年齢なら、当然「ワタクシ」であろうし、百歩ゆずっても「ワタシ」と「ワタシども」であろう。

ワイドショウに出てくる“皇室評論家”のおばさまを除いて、皇太后さまの想い出に登場された老女や、美智子さま、雅子さまのお姿を見ながら、自分の国・日本はいつのまにか、礼節も失い、精神的に荒れ果ててしまったことを、思い知らされた次第だ。

皇室という特殊な家族を温存する、憲法上の「天皇」の在り方は、やはりそれなりの意義がある。皇太后さまの微笑みとお心配りは、やはり、何十年、何百年と続いてきた“誇り高き家族”でなければ、自然に現れるものではないと私は思う。 平成12年6月18日

編集長ひとり語り第41回 娘たちよ、すぐに男にやらせるな!

編集長ひとり語り第41回 娘たちよ、すぐに男にやらせるな! 平成12年(2000)6月24日 画像は三田和夫73歳(黄河鉄橋1995.02.26)黄河鉄橋:戦時中、三田小隊が守備していた鉄橋
編集長ひとり語り第41回 娘たちよ、すぐに男にやらせるな! 平成12年(2000)6月24日 画像は三田和夫73歳(黄河鉄橋1995.02.26)黄河鉄橋:戦時中、三田小隊が守備していた鉄橋

■□■娘たちよ、すぐに男にやらせるな!■□■第41回■□■ 平成12年6月24日

6月22日、駐輪場で殺された女子高生の第一回公判が開かれた。被告は殺意の有無について「殺すつもりはなかった」といった。

いわゆるストーカーが事件化するのは、みな、女が交際を拒否した時点からである。交際を拒否——などと、キレイごとの表現をしたが、ズバリ書くならば、「もうおまえとはセックスしない」宣言なのである。男にとっていつでもどこでも、自分が欲する時にやれる女がいる、ということが重大なのである。

むかしは、遊郭(女郎屋・売春宿)があったから、男はいつでもヤルことができた。しかも、今のソープなどと比べられない安さだから、“泊まり”の豪遊(といっても、本部屋泊まり以外にも“まわし部屋”の安いのもあった)ではなくとも、チョンノマといわれる、超短時間の遊びも可能だったのだ。

つまり、安定的な性処理が失われたのでは男は頭にくる。復縁を迫って、つきまとうのは当然である。だから、オドシのつもりのナイフが、その場の勢いでグサリ、も無理からぬことである。殺意(殺してやろうという意志)の有無が問われるわけである。

若い娘たちは、あまりにも無造作に、すぐ男にヤラせる。あとさきを考えるチエもなく求められるままに、身体を開く。それが何回か継続したのちに、好悪や反省や、男の自己中心的行為への不快感などで、“絶交宣言”となり、トラブルになる。要は、男の性格を見極めないで、ヤラせるな! である。

だが、日本語というのは面白い。ヤラレル、ヤラセル、売ラレル、だまサレル、言い寄ラレル、抱かレル——すべて、男女間の行為は、女性の受身言葉で表現される。これは、男尊女卑思想の然らしめたところであろう。戦後半世紀も過ぎ、男女同権といわれながら、現実は、女性が受身なのである。

アメリカはどうか。NHKの深夜番組で、延々とつづけている「ビバリーヒルズ青春白書」を見ると、男女が画面に出てくると、すぐキスして、すぐセックスをする。若い娘のほとんどが、すぐヤラセルから、男は次から次へと移れるのである。だから、キレる事がない。だが、残念ながら、わが日本では、すぐヤラセル娘の絶対量が少ないから、男はキレるのである。

ロシアはどうか。1917年の革命は、帝政ロシアを打倒し、農奴と性を開放した。もともと娯楽のない農村では、性行為が娯楽のひとつであった。それが、開放されたのだから、男女は、同一労働、同一賃金に裏付けされて、男女ともに、ダワイ・イバーチィ(さあ、やろう)の一言で、受身の言葉はない。先日亡くなった竹下元首相の地元、島根県では、東京オリンピックでテレビが普及するまでは、“夜這い(よばい)”の習慣が現存した。あくまで、女性の受身形なのだ。

さて、こうして眺めてみると、日本の若い男たちはジコチュウで育ってきているから、“いつでもヤレルし、ヤラセル女”に絶交宣言されると、どうしてもキレて、ストーカーになってしまう。

だから、若い娘たちに忠告する。殺されたくなかったら、すぐにヤラセルな! ヤラセル時には“結婚”という社会的なワッパをはめてからヤラセロ! と。そうでなければ、キレない男だと見極めてからヤラセロ! 平成12年6月24日

編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー

編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー 平成12年(2000)6月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 溜池のオフィスか1959)
編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー 平成12年(2000)6月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 溜池のオフィスか1959)

■□■野中のボキャブラリー■□■第42回■□■ 平成12年6月27日

総選挙が終わった——自公保が約40議席を減らしたことは、まだ物足りないが、マアマアとしようか。ただ、残念としかいえないのが、野中幹事長の命運をかけた「自民229」のラインを、わずかだが超えたことである。

野中はいった。「自民229を割ったら、幹事長として責任を取る。退路を断ったのだ」と。投票日の25日の新聞に出ている。さらに26日の朝刊。公明、保守に対する選挙協力が機能しなかったことで、また、いった。「万死に値する」と。

退路を断った。万死に値する。この2つの言葉の使い方は、まことにオカシイ。自民が229議席を取れなかったら、「退路を断って」幹事長としての責任を取る——幹事長として責任を取ることが、どうして退路を断つことになるのか。数日前の新聞に、幹事長をやめて、行革本部長をやりたいと、“放言”したことが報じられていた。229取れなかったら政治家をやめます、というのなら、退路を断つことにもなろうが、衆院議員のままで役職を変わることは、退路を断つにはならない。

この言葉、先の都知事選で、柿沢とかいうオポチュニストが、議員をやめる時に使った言葉だ。その柿沢は、チャッカリと今回出馬して、当選してしまった。呆れた奴であるし、それに投票した奴の顔が見てみたい。

もうひとつの「万死に値する」は、岩瀬達哉の力作「ドキュメント・竹下登 われ万死に値す(政治家・竹下登の『深き闇の世界』)」が、99年9月に発刊されたのだが、さきごろ、本人が亡くなったので、新聞報道でこの本が取り上げられ、題名が記載された。

つまり、野中のボキャブラリーは、新聞の見出しを失敬する程度で、彼の知性のほどが分かろうというもの。私が開票速報をハラハラしながら見つづけて、徹夜してしまったのは、自民が229を割った時の、野中の出処進退(出=官職につくこと。処=民間にいること。)を見たかったからである。

かつて、小沢一郎を悪魔とののしりながら自自公の時には「土下座して」と、豹変する野中の政治姿勢の、新しいサンプルが見られる期待があったのだ。言葉の貧しさといえば森首相もまた、野中に負けず劣らずである。さる6月12日、森は記者クラブの会見で、「(みなさんに)お訴えして…」といった。「訴える」という動詞の趣旨からして、「お」という美称や敬称がつけられる必然は、まったくないのである。

私の中学時代、「おニュー」という言葉があった。運動靴や服、シャツなどの新品を身につけると、英語のニューに、羨望や、揶揄をこめて、美称の「お」をつけて、「おニュー」といって、はやし立てたものである。英語のニューに、日本語の“お”をつけることは、デタラメもいいところで、軽蔑感を端的に表現したものである。なにしろ、旧制高校のダンディズム「弊衣破帽」が横行していた時代だから、新品を身につけることは、「おニュー」として、揶揄されるのである。

森の一連の失言はここにあげつらうこともなかろうが、自分の存念に理解を求めることを「訴える」のに、「お」をつければ、理解してもらうのにプラスだと考えたのか? リーダーの不可欠要件である「教養」が、まったく感じられないこの2人である。

今の自民党を牛耳っているのは、鈴木宗男党総務局長⇒野中幹事長⇒亀井政調会長のラインと、古賀国対委員長、村上参院議員会長、青木官房長官らのグループである。これらの連中の顔、面構えをトクとご覧あれ! 「教養」とは無縁の顔だ。

7月上旬には、新内閣がスタートする。その時にどんな人事になるか、見ものである! 平成12年6月27日

編集長ひとり語り第43回 よど号田中のハレンチ!

編集長ひとり語り第43回 よど号田中のハレンチ! 平成12年(2000)7月1日 画像は三田和夫67歳(卒業50年の旅1989.02.11)
編集長ひとり語り第43回 よど号田中のハレンチ! 平成12年(2000)7月1日 画像は三田和夫67歳(卒業50年の旅1989.02.11)

■□■よど号田中のハレンチ!■□■第43回■□■ 平成12年7月1日

よど号事件の犯人のひとり、田中が日本に送還されてきた。顔を隠すでもなく堂々と(ある意味威張って)報道写真におさまり“殉教者“気取りである。私がその場にいたら、ツバを吐きかけてやりたいほどである。

我が国最初のハイジャック事件だった。金浦空港で乗客と引き換えに、当時の運輸政務次官・山村新次郎議員を人質とし、北朝鮮へと飛ばさせた。たしかに、129人の乗客乗員のすべてを殺傷することなく、ハイジャックの目的を達したのだった。が、この事件が引き金となって、次々とハイジャックを引き起こし、「超法規的措置」などという新語を生み、刑務所からの仲間の奪取や、何億円だったか忘れたが、巨額の税金を奪ったりといった、事件の幕開けとなった。

「オレは政治犯だ」「一切黙秘する」といった言動は、日本政府を否定し、革命の尖兵たらんとした赤軍派として、おのれの信念をまげず、さらに活動をつづけようという意思を示すものであろう。

もし、そうであろうならば、私としては、田中のこの“不遜”な態度も、よしとせざるを得ない。

だが、赤軍派を名乗るテロリストたちが、日本政府から奪った金で、銃器を買い、活動資金として、全世界でどのような「殺戮」を行ったか。ダッカ事件然り。何十人、何百人もの人々を殺したのである。

つまり、赤軍派の連中は、非合法生活者なのである。合法生活者(遵法市民というべきか)とは、まったく別の次元で生きており、生きてきたのである。

結婚し、子供を産みその子の成長を慈しみ、かつ期待する——これは、法律を遵守する、遵法市民の当然の権利である。田中にはその権利は主張できない。

北朝鮮に亡命した、よど号事件の犯人たちは日本女性と結婚(合法?)し、子供をもうけていた。小市民的幸福に浸っていたのだ。そして、その子供たちが大きくなってきて、これまでに「5歳から22歳の子供たち20人のうち、18人が日本国籍を取得」(東京新聞)したという。この記事の見出しには、「年内にも妻子の帰国を、支援団体『北朝鮮組の先鞭に』」とある。

東京新聞だけではない。各日刊紙の記事には、みな望郷の思いにかられている、と報道されている——だから、田中の顔にツバを吐きかけてやりたいのである。

妻子のしあわせを願う、小市民的希望があるならば、「よど号事件は若気のあやまちだった」と自己批判し、日本政府の捜査に協力し、すべてを自供すべきである。

妻子の幸せだけは、遵法市民の立場でなどと、甘ったれるナ! 首尾一貫しろ! 子供を産んだ時点で、赤軍派からの転向がはじまったのだゾ。もっと自分に厳しくしろ! 平成12年7月1日

編集長ひとり語り第44回 さあ、次の選挙は近いぞ!

編集長ひとり語り第44回 さあ、次の選挙は近いぞ! 平成12年(2000)7月4日 画像は三田和夫50歳(右から2人目お辞儀 1972.04.05)
編集長ひとり語り第44回 さあ、次の選挙は近いぞ! 平成12年(2000)7月4日 画像は三田和夫50歳(右から2人目お辞儀 1972.04.05)

■□■さあ、次の選挙は近いぞ!■□■第44回■□■ 平成12年7月4日

7月4日、総選挙後の首相指名を行う国会が召集される。今期は2日間で、6日に終了して、8日の沖縄サミット、福岡蔵相会議へと、森第二次内閣は忙しい日程に追い込まれる。

と、その段取りだけは、順調に進んでいたのだが、6月30日、東京地検特捜部は、自民党・江藤亀井派のボス、中尾栄一元通産相を受託収賄容疑で逮捕した。

例の許永中。公判中に韓国の病院から逃走して、十何人もの人々を、逃走罪の共犯に巻き込んだ。許の人脈から、中尾のワイロ事件が浮かんできた。一説には、許が検察との取引で、中尾の件をバラしたともいわれた。

中尾は落選していたので、逮捕も簡単だったが、当選(当選証書を選管から受けた瞬間から、国会議員の身分となり、国会開会中は不逮捕特権がある)していても、30日は国会開会中ではないから、同様に簡単だ。それでも、6月25日の投票日、26日の開票日で、当落を確かめてからは、27、28、29と丸3日間しかない。

NHKテレビを見ていると、候補者のタスキをかけている中尾に、この許永中資金の質問を浴びせている。それに対し、「秘書を10人も使っていて、その秘書のやったことだ。週刊誌的な取材をするな。政治は堂々としてなければ」といった趣旨の返事をしている。政治家の誰でもが、逮捕される前は、“堂々”と否定するものだ。

さて、ここで疑問が湧いてきた——贈賄側の若築建設の当時の石橋浩会長は、贈賄の時効で不問とされたようだが、その義兄の「陳述書」が早くから中尾の収賄を指摘していたというのである。

この事件では、各紙を比べて見ていると、東京紙が一歩先んじているようだ。逮捕翌日7月1日の朝刊で、「自民幹部聴取も、地検検討」と、贈賄側から金を受け取った人物の動静を伝え、同夕刊では、「陳述書」を書いた。前述の疑問というのは他でもない、各紙とも「自民2代議士側に資金」〈7・1朝日朝刊〉などとしながら、2人の名前を明らかにしないことだ。

「派閥領袖クラスを含む2人」(7・1日朝日夕刊)が、翌2日朝刊になると「…2人に計一億数千万円…」というが、名前のヒントがないままだ。同産経夕刊も「陳述書」を書き、読売夕刊は「1人は建設相経験者」「…取材に対し『資金提供は全くない』と否定」。

2日朝刊。産経「超大物元議員にも現金、当時の秘書受領」、毎日「現職波及を注視」と、日曜日らしく閑散な紙面だった。が、この朝10時の“サンデープロジェクト”に、亀井静香政調会長が、田原総一朗司会のもとで渡り合った。またフジの“報道2001”には、管が出演。

さて、明けて3日の毎日朝刊は、竹下元首相の名を一面で、社会面で亘議員否定談話を報じた。各紙が亀井の否定談話をのせる。

3日の東京夕刊は「自民大物、参考人聴取を拒否」と1面の大見出し。亀井が今春、参考人の打診を地検から受けたが、総選挙前だからと、出頭を拒否したことを報じた。快哉!

こうして眺めてみると、各新聞とも、竹下と亀井の名前をはじめから知っているにもかかわらず、活字にするのに丸3日もかかるとは、一体どういうことなんだ? 中尾逮捕と同時に書くべきことを、捜査の進展で判ってきたようなポーズをとるところに、自民党に癒着している日刊大新聞の姿がある。

また亀井が、田原の司会の番組にだけ出て“弁明”するあたりに、これまた癒着の疑問を感じるのである。フジが午前七時半から、テレ朝は午前十時からで、事実、管は掛け持ちしているのだから、亀井だってできるハズである。弁明するなら、媒体は多い方がいいはずである。

もしも亀井が逮捕でもされたら、森内閣は空中分解で、またまた総選挙である。 平成12年7月4日

編集長ひとり語り第45回 ついにはじまった母子相戮

編集長ひとり語り第45回 ついにはじまった母子相戮 平成12年(2000)7月8日 画像は三田和夫67歳(右側 秋の爺童会1988.10.15)
編集長ひとり語り第45回 ついにはじまった母子相戮 平成12年(2000)7月8日 画像は三田和夫67歳(右側 秋の爺童会1988.10.15)

■□■ついにはじまった母子相戮■□■第45回■□■ 平成12年7月8日

最近、日刊紙上に「親身になって」というサラ金の広告が目立つ——岩波国語辞典によれば、(1)血縁が非常に近い人、(2)それに対するような心づかい、とある。まさに、文字通り、親(おや)の身になって、なのである。

では、親切(しんせつ)とは、親を斬ることなのか、といいたくなるような、近頃の世相である。家庭内暴力に悩んだ母親が、娘を殺して自分も投身自殺。娘に保険金をかけて、准看護婦の知識を生かして毒殺未遂(他に2人の子供も死んでいる)。

野球部の後輩をバットで殴り、自宅に戻って母を殴り殺す。迷惑がかかるから、殺した方がいい、と弁解する男の子。バスジャックの父母のように、殺されるおそれから逃げて、「説得の自信がない」だと弁解。バスに乗りこんで、刺されようとも、息子から刃物を取り上げるだけの、責任感のカケラもない両親。これに比べれば、娘を殺して自殺した母親は、まだマシである。他人に迷惑をかけないからである。

雪印もそごうも、警察も病院も、責任ある人たちが、4、5人、ガンと首を並べて記者会見で「ご迷惑をおかけして、深くお詫び申し上げます」という、テレビ画面が、今年になって大流行である。そして、誰も責任を取らない。そごうの経理担当副社長が自殺したなど、まさに“責任を取った”鑑であろう。

よど号事件の田中某、自分の子の友人の幼稚園児を殺した母親。オウムの下手人たちと、みんな“お詫びを申し上げます”である。詫びればいいってもんじゃあるまい!

さきに「皇太后さま、さようなら」の稿で、列車内で騒ぐ子供を制止もせずにいる母親に私はいってやった、と書いた。「しつけは4、5歳までが基本。あと10年もすれば、あんたが殺される番だよ」と。だが、その母親には、私のいった言葉が理解されなかったようだ、と。

人の児の親になるという、自覚と責任を考えてない若い夫婦が多い。デキチャッタ婚などと、不見識極まる流行語を生み出す時代を、もっと真剣に見つめねばならないのである。

かく申す私は、三男一女をもうけたが、途中、バットで殴られることも、刃物でズブリもなく、順調に馬齢を重ねている。その基本は、子供の人格を重んじ、誇りを教えた。それは4、5歳までのしつけである。子供に手を上げたことは、小学生の女児に1回だけで、他には一度もない。

塾も家庭教師もなく、学校の成績に干渉せず、進路についての相談にだけ助言する。常に、子供の人格を尊重し、自身の判断を優先させてきた。そして、他人や社会に迷惑をかけずに成人となったのである。

「親切」は、親の代わりに「深・心」の字が用いられ、漢語辞典に出ている。親の字はオヤではなく、親しいの意味だから、親を切るではない。一方、「親身」は漢語辞典にはなく、国語辞典にある。これは「親の身になって」と解すべきだろう。

この親と子と“相い殺戮する”時代は、植木等の「無責任時代」の唄につれて育った世代が、無責任に親になった結果の、当然の帰結である。 平成12年7月8日

編集長ひとり語り第46回 犯人の方(かた)が…とは!

編集長ひとり語り第46回 犯人の方(かた)が…とは! 平成12年(2000)7月29日 画像は三田和夫52歳(中央 松㐂鮨1974.05.04)
編集長ひとり語り第46回 犯人の方(かた)が…とは! 平成12年(2000)7月29日 画像は三田和夫52歳(中央 松㐂鮨1974.05.04)

■□■犯人の方(かた)が…とは!■□■第46回■□■ 平成12年7月29日

先頃の、17歳少年のバスジャック事件の時である。最初に一時停車したパーキングエリアの売店のおばさんがいった。「犯人の方(かた)が何か要求されたんじゃないですか」と。そして、7月12日のNHK昼時に出てきた料理研究家なる、これもオバさんが、マナ板の上で暴れる魚をみていった。「生命力の強い方(かた)なんですね」と。

殺人容疑者に「方」という敬語を使うのはまだしも、魚に対して「方」というにいたっては、もう何をかいわんやである。

それもこれも、すべて、テレビの報道番組のせいである。美しく正しい日本語をひろめるべきテレビが、どうしてか、日本語を破壊しているのである。客観性を重視すべき報道で、テレビはこういう。「警察官のカタが駆けつけてきました」「駅員のカタたちが…」

いったい、テレビはどういうつもりで、この「カタ」をつけるのか。「警察官が駆けつけて」「駅員たちが」が正しい日本語である。と思っていたところへ、2人の人がそれぞれ一文を草していた。

週刊文春7月13日号「何様なのか、テレビ局(5)」野坂昭如

「ワイドショーのレポーターは…『ご冥福をお祈りしたいと思います』と、とってつけたようにいう。あの『思います』っていいかたはいったい何なのか。思っているだけじゃなくて、ちゃんと冥福を祈れ! ついでにいえば、『いやあ、あちらに行ってみたいと思います』『食べてみたいと思います』というテレビ特有の物言いも、とても耳障りです。何で『いってみましょう』『食べてみましょう』と、ストレートに言わないのか」

そして、もうひとつは7月27日付け東京紙ラテ版、廣淵升彦・湘南短大教授

〈文化を破壊するアナ〉「…最近アナウンサーたちの発音で気になることがある。『一トン』を『イチトン』といい、『八点目』を『ハチテンメ』というアナが多いことだ。…音便というのは文化の成熟度を示すものである。…世界共通語となった『レゾンデートル』を、一語一句区切って『レゾン・ド・エートル』などといえば、笑い者になるだろう」

実際、浅草のカンノンさまを、カンオンさまというバカがいるか!

これらの元凶は、NHKである。NHKのアナ教育はどうなっているのか。税金で賄われているNHKが、日本文化の破壊の先頭に立っているのではないか。ともかく、つける必要のない「カタ」と「思います」を消すことから始めてもらいたい。冒頭の売店や料理研究家も、その年頃から見て、NHKを一番良くみていると思われる。

かく申す私は、昭和18年の夏、日大卒業を控えて、NHKのアナ試験を受け合格。同時に合格した読売をえらんだのである。理由は戦時中だから、ノドはひとつ、ウデは2本あるので、アナより記者をえらんだ。だから、ひとより発音にウルサイのである。

NHKテレビを見ていて感ずるのは、報道のアナやレポーター、記者たちは、自分の話した部分のビデオを見て、再点検しているのかどうか。都知事選で落ちて、パリの日本館だかの館長になった大物が、「お歴お歴」と話した。再放送でもそのまま。若いアナが、「遊興費」を「ユーコーヒ」と発音した。遊興もしたことがないのだから、ヤムなしか。

それにしても、NHKの海老沢会長なる男は、あまりにも画面に登場しすぎる。会長が部下に任せられないようでは、NHKの改革など、夢のまた夢。小淵さんが大相撲の総理杯に出てきたように、あの海坊主風の男も、脳コーソクに倒れるかもよ…。 平成12年7月29日

編集長ひとり語り第47回 “ひとのせい”にするな!

編集長ひとり語り第47回 “ひとのせい”にするな! 平成12年(2000)8月5日 画像は三田和夫65歳(前列右から3人目 元・島崎隊 天よ志1987.05.31)
編集長ひとり語り第47回 “ひとのせい”にするな! 平成12年(2000)8月5日 画像は三田和夫65歳(前列右から3人目 元・島崎隊 天よ志1987.05.31)

■□■“ひとのせい”にするな!■□■第47回■□■ 平成12年8月5日

かねてからの文章でお判りのように、私は“適者生存説”を主張している。それは、79年に及ぶ私の人生、ことに丸2年の軍隊生活と、同じ丸2年のシベリア捕虜の体験を中心に据えた“私の哲学”である。

軍隊での生死の分かれ目には“運隊”と呼ばれるように、自分の努力だけでは如何ともし難い運命ともいうべきものが、大きく左右する。しかし、あくまで“適者生存”であることには変わりはない。

シベリア捕虜もまた、“運隊”と同じだけれども、酷寒や栄養失調、発疹チフス、事故といった客観状況の中で、今こうして生き残った人たちを見渡してみると、死ぬべき男が死に、生きるべき人が生きている。

先日来、新聞紙面やテレビ画面でしきりと“問題化”している、中三生の自宅での首吊り事件で、私は憤慨にたえない。ナゼかといえば、学校でイジメがあり、それを家庭に連絡しなかった「学校の責任」ばかりが、取り上げられているからである。

両親に祖父を含めた家族、家庭の責任はどこに行ってしまったのか。自分たちの無責任が、第一番に問題にされねばならないのに、彼らは、学校、学校と、“ひとのせい”にしようとする。こんな家庭だからこそ、この少年は、自宅で自殺したのである。

私も少年の頃、死を美化する文学作品などの影響から、自殺を考えたことが、何度もあった。早熟だったせいか、小学校高学年から、中学にかけて、そんなことを詩や散文に書き散らしている。だが、この少年と違うところは、「HELP(ヘルプ)」などというメモは書いていない。自分自身の勉強と努力とで、死の誘惑から脱出したのだった。

誤解を恐れずにいうならば、この両親や祖父は、この少年に金属バットで襲われなかったことが、不幸中の幸いであったというべきであろう。テレビ画面で見た、少年の立派な祭壇に、私は違和感を覚えた。

少年を袋叩きにした8人の同級生が、先生に連れられて、拝みにきた——母親はこの8人が、肘で先を譲りあう(?)動作や、ニヤついた顔などに、さらに怒りを訴えたりするが、それを、そのまま報ずるテレビカメラや、新聞記者たちの在り方は私はオカシイと思う。

最近の紙面や画面には、つねに“ひとのせい”が主張されている。マスコミは、もっと事の本質を見極めて、事件を取り上げるべきである。このマスコミのデスクたちも、すべて“ひとのせい”にする、無責任世代なのであろう。

テレビ朝日のダイオキシン騒動の公判もはじまったようである。久米宏たちは、これをもって“ひとのせい”にしないように。埼玉県のO157騒ぎも、保健所の無責任が原因と判明した。さて、埼玉県は、被害賠償に対してどう対処するか。100億円以上と伝えられる被害に、県民の税金を支出できるだろうか。“ひとのせい”にできないケースだけに、土屋知事がどうするか、みものである。

“自分のせい”で、昨年の玄倉川13人水死の事件があった。だから私は“適者生存説”をとるのである。思春期の少年の、心の動きを読み取る努力を怠った家族は、決して“悲劇の主人公”ではない。

音羽の幼稚園児殺害の母親の公判で、その夫はこう述べた。「声は聞いていたが、心の声を聞こうとしなかった、私の責任です」と。この夫は、残された子供とともに、これからイバラの人生を歩まねばならない。 平成12年8月5日

編集長ひとり語り第48回 不快感極まる靖国参拝報道

編集長ひとり語り第48回 不快感極まる靖国参拝報道 平成12年(2000)8月19日 画像は三田和夫77歳(右端・浴衣 戦友会・桐第二〇五大隊1999.03.06)
編集長ひとり語り第48回 不快感極まる靖国参拝報道 平成12年(2000)8月19日 画像は三田和夫77歳(右端・浴衣 戦友会・桐第二〇五大隊1999.03.06)

■□■不快感極まる靖国参拝報道■□■第48回■□■ 平成12年8月19日

8月の暑い夏——四季の移り変わりがハッキリしていた日本も、原爆以後の異常気象で、歳時記に書かれている季語も、だんだん現実感が薄れてきている。

そして、6日の広島、9日の長崎、15日の敗戦と、あの戦争の記念日がつづくのだが、それも、高校野球やお盆休みなどのかげに追いやられてしまっている。と同時に、新聞を広げて不快感に襲われるのが、閣僚たちの靖国参拝の“公私”の別議論である。

戦中派である私も、靖国神社の由来や、その広大な敷地取得の経過について、なんの知識もない。と同時に、それが当時の軍閥の仕業であろうことは理解できる。私の少年時代の記憶でも、あの大きな社殿は、すでにあったと思う。

当時は“生めよ、殖やせよ”時代で、多子家庭が表彰され、その子供たちが戦争に狩り出され、死ねば“軍国の母”を顕彰するために、靖国の御霊(みたま)を祭る場所が必要だったのである。それは、中国でも同じで、毛沢東は多産を奨励し、兵力の人的資源を確保した。宗教を否定していた当時、一般人の墓は認められず、葬式もできなかったが、各地にはそれぞれ、「烈士陵園」(一例を挙げれば、この上に「中国人民解放軍華北軍区」と記されている)という、戦死者の墓は綺麗に設けられていた。

もちろん、対日戦の戦死者ではなく、国共内戦の犠牲者の墓である。1979年初秋、私が日本共産党新宿支部のツアーに参加して、戦後はじめて訪中をし、現認してきた事実である。これは、毛沢東政権の、いうなれば“靖国神社”そのものではないか。

いつ頃のことだったか、中国政府は、戦犯が合祀されている靖国神社に、首相以下の政府首脳が参拝するのはオカシイ、と横槍をいれてきた。当時の自民党政府のボスたちは、対中ODAや有償無償の円借款などのリベートで私腹を肥やしていたものだから、一も二もなく震え上がった…。それ以来、延々とつづいている8月15日の“公私の別”靖国参拝論議である。

中国・南京にある“大虐殺記念館”の一角に、2人の少尉が百人斬り競争をしたという東京日々新聞(現・毎日紙)のデマ記事のコピーが展示されている。この2人は戦犯として刑死した。この2人も合祀されているのだろうか?

自分が将校になって、日本刀を体に吊ってみて判ったことがある。鍛えてない体ではあの重い刀でチャンバラなどできないのだ。ヤクザだって、もう日本刀は使わない。自由に振りまわせないからだ。それが、百人斬りだと? この記事が、軍に媚びたウソ記事だということは、すでに明らかになっている。

この記事が示すように、日本の新聞は、常に時流におもね、権力に媚びてきた。現在でも主流はそうである。国家や民族の百年を考えた報道は、皆無といっていい。

15日のテレビ・ニュースは、靖国の社頭に立ち、国会議員にマイクを出して、「公式ですか、私的ですか」と、バカ気た質問を繰り返すテレビ記者。その背後に、命令するバカデスクの顔が見える。この報道にいったい、どのような意味があるのか。

森首相もまた、事前に、公式参拝しないと宣伝する。かと思えば、石原都知事のように、公式参拝するゾと、予告編を出す男もいる。こんなバカ気た茶番劇は、もう止めにしたらどうか。マスコミが取り上げねば、自然に沈静化する話だ。マスコミはそこまで中国の顔色をうかがうのか? ナゼだ?

靖国神社のあり方や由来などとは、まったくの別問題である。「父に逢いたくば靖国神社へ!」といった時代は、もう遠い過去である。マスコミはもっとしっかりしろ! 平成12年8月19日

編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1)

編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1) 平成12年(2000)8月26日 画像は三田和夫23歳(前列左から2人目・軍刀・メガネ 三田小隊・黄河鉄橋防空隊1945.02~)
編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1) 平成12年(2000)8月26日 画像は三田和夫23歳(前列左から2人目・軍刀・メガネ 三田小隊・黄河鉄橋防空隊1945.02~)

■□■戦争とはなんだ?(1)■□■第49回■□■ 平成12年8月26日

敗戦記念日の8月15日をはさんで、マスコミは、その紙面(放映)で、投書を加えて「これが戦争だ」と、しきりにアジテーションをあおっていた。虐殺という言葉も、しきりに登場していたが、その言葉の意味をも確かめず、用いられていた。

例えば、参戦各国ともに見られるのだが、捕虜を並べて機銃で撃ち殺す——これは虐殺なのか。戦闘中に、銃砲弾で殺される。これまた虐殺なのだろうか。米軍の日本本土爆撃で、非戦闘員の女、子供、老人が死ぬのだが、虐殺なのだろうか。原爆はどうか——。

私は、あの雨の神宮外苑の学徒出陣式の1カ月前、昭和18年11月1日に入隊した。9月卒業で10月1日に読売入社。正力松太郎の日の丸を頂いて千葉県佐倉に入隊。しかし学徒根こそぎ動員が12月1日に入隊してくるので、中国に送られ、河南省黄河のほとりに駐屯したのち、保定の予備士官学校へ。4月入隊。その前に、原隊は南方転進で大半は輸送船ごと海底に沈んだと聞く。幹部候補生だけ残されたので、助かった次第だ。19年12月、卒業して見習士官となり、黄河の畔に戻った。

20年2月、重機関銃3丁を率いて、黄河鉄橋防空隊の高射砲大隊に配属され、鉄橋爆撃の米空軍との戦いとなった。B24爆撃機が一車線の細い鉄橋を爆撃するが、なかなか命中しない。泥深い河に落ち、橋脚をゆるがす。と同時に、鉄橋上の我が陣地に掃射を加えてくる。瞬時に通りすぎる機影めがけて応射する。射たれて射ち返す。殺されて殺し返す。これが「戦闘」である。

約1時間、爆弾を使い果たしたB24編隊は奥地の老河口飛行場に去る。陣地の土のうには弾痕があるが、部下の点呼。死傷なし。その瞬間に、スポーツの試合が終わったあとのような、爽快感を覚える。1日1回、きょうの定期便は終わったのだ。翌日から2、3日はP51機が高々度から、鉄橋の被害を調べにくる。そしてまた空襲である。5月までの4カ月間にB24一機を落とした。

その間に、北支派遣軍は、米空軍の根拠地老河口作戦を展開。私が原隊復帰をしてみると、中隊長は先任小隊長を連れて、その作戦に出ていた。米軍の本土上陸に備えて、四日市付近に帰国するハズだったが、満ソ国境の部隊を帰し、私たちはその後釜で満ソ国境白城子に部隊移駐が命じられた。大隊の集結が、作戦部隊の撤収を待っていて遅れ、8月13日夜、新京(長春)に到着し、9日のソ軍侵攻で、師団主力と分かれ、首都防衛軍に編入され、8月15日を迎える。

「…8月15日未明、有力なるソ軍戦車集団が首都新京に侵攻…。一兵能く一輌を撃破…」と、手榴弾5、6個を縛り、それを抱いての突撃という命令が出たのが、14日の夜更け。タコ壺を掘り、身を潜めて夜明けを待ったがキャタピラの音がしない。この時はさすがに「オレの人生も終わりだナ」と感じていた。が、正午に重大放送があるという予告で、15日の朝が快晴の太陽を輝かせていた。(この時のことは稿を改めて書きたい)

8月16日夜、ソ軍の先遣隊が市内に入ってきた。治安維持のため、市内巡察に一個分隊を連れて歩いていた私は、前方からくる部隊がソ軍と気付いて、全身總毛だったのを覚えている。だが、双方ともにオッカナビックリで、広い道路の両側をスレ違った。もしも、どちらかが発砲していたら、新京の無血占領はなかっただろう。

そして、20日から、掠奪、暴行、強姦がはじまった。強姦のあとは、必ず被害者を殺すのである。口封じであろう。

私が見たもの、聞いたもの、経験したもののすべては、みな「戦争」の小さな小さな一断片にすぎないのである。他の人のそれも同じである。それが、「これこそ戦争だ」と、力(リキ)み返って登場してくる。(続く) 平成12年8月26日

編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2)

編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2) 平成12年(2000)9月2日 画像は三田和夫23歳と70代(三田和夫が自身で机上に飾っていた小さな額縁写真)
編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2) 平成12年(2000)9月2日 画像は三田和夫23歳と70代(三田和夫が自身で机上に飾っていた小さな額縁写真)

■□■戦争とはなんだ?(2)■□■第50回■□■ 平成12年9月2日

8月下旬になって、ソ軍の司令部も進駐してきたようで、新京は首都だということで、日本軍は南の公主嶺に撤退するということになった。と、在満の日本軍の将軍たち(少将、中将)は、ソ軍機で輸送されることになり、公主嶺の飛行場に集められた。

その時、私は将校伝令として、大隊長の命令で、飛行場にいた北支那派遣軍第十二軍第百十七師団長(私の部隊長である)の、鈴木啓久中将に会いに行った。何かを届けたのか、何を伝えに行ったのか、その部分の記憶がまるでない。

陸軍中将で、師団長の閣下の様子を見て、新品少尉の私は、愕然としたのだけは、鮮明に覚えている。つまり、ソ軍の捕虜となり、ソ軍機でどこかに連れていかれることへの恐怖にオロオロしている男をみたのである。

——これがオレたちの師団長なのか!

階級制の軍隊では、将軍などと接することは、下っ端の兵にはほとんどない。私自身も保定の士官学校に入った時と卒業した時の2回だけ、はるかかなたに学校長の少将を“望見”しただけ。鈴木師団長とは対で会い、会話を交わした、初の体験であった…。敗戦直後のことではあったが、日本陸軍の中央にいる将官の、あまりにも程度が低いのに驚き、その反動で、将校伝令の内容を忘れてしまったのだ、と思っている。

なぜこんなことを、事細かに書くのかというと、後日譚があるのだ。1、2年前のこと、「フォト・ジャーナリスト」という肩書きの人物が、東京新聞に記事を提供して、そこに鈴木啓久元中将が登場していたのだ。ソ連の収容所で調べを受けたのち、中国戦犯として満州の収容所に移され、何十年間かの後に、釈放、帰国し、その収容所(監獄)時代の自供調書の内容が記事になった。

私の同期生(予備士官)にも、シベリアから中国に引き渡され、昭和33年ごろ帰国した男がいる。バイカル湖畔の炭坑町チェレムホーボの収容所も一緒だったが、私が作業隊で出ていたのに、彼は大隊副官として作業割りやデスクワークをしていた。口下手で反応の遅い方だったが、それが災いして戦犯として中国渡しになった。

その戦犯の内容は、対共産八路軍の討伐作戦の時、壊れた家の材木で、暖を取った(彼の小隊員が)のが、放火、焼き尽くし作戦の責任者とされたらしい。そのような調書が取られる時、彼は口下手で反論もしなかったので、戦犯として12、3年も監獄暮らしをした。だが、帰国後に、彼の名誉回復があり、国慶節に招待されて、天安門上に立ったという。

そういう話を承知していたので、鈴木元中将が、監獄でどのような調書を取られたのか(しかも、公主嶺飛行場での狼狽ぶりに見られる小心者)、私には想像がつく。つまり、中国側のいいなりである。その内容たるや、従軍慰安婦の強制連行を命令したとか、中国人民に対する残虐行為を命令したなど、軍の実情を知るものにとっては、まさに噴飯モノなのだ。北支軍下の慰安婦は、すべて朝鮮人と日本人である(実体験から)。それがどうして“強制連行”か。第一、師団長が軍の慰安婦管理の命令を出す立場か。バカ気ている。記事提供者も新聞デスクも無知!

このフォト・ジャーナリストには、会合で出会ったので、それを指摘したら、不愉快気な表情で、なにもいわずいってしまった。私はこのような、ジャーナリストとしての訓練もなく、見識もなく、時流に乗るだけの連中の蠢動を厳しく阻止したい。

韓国人の元慰安婦が、自分の被害体験を訴えるが、それが事実かどうかの見極めもなく、媒体は大きく取り上げる。中国のどこで醜業を強いられたのか、地名と時期を明らかにすれば、まだ、その土地にいた日本軍の戦友会があるから、すぐ調べられる。

中国では、軍が朝鮮人と日本人以外の娼婦を認めなかった。それは、兵隊たちの部隊名や作戦名が、中国人に漏れないよう、中国語の話せない女たちを選んだ、防衛上の配慮だった。そして私の知る限り、彼女らは朝鮮人の売春業者に連れて来られ、管理されていた。軍は、衛生管理の面で関与していた。性病予防である。

さて、丸2年のシベリア捕虜から帰国して読売社会部記者に復職し、数カ月で戦後の日本にも馴れてきたころ、ナント、将官級の連中が、まだ生きていることを知って、ビックリしたものだった。大佐、中佐級の参謀たちとともに、ほとんどが自決したもの、と思いこんでいたからだった。

「戦争とはなんだ?」というテーマで、答えられるのは、司令官たちとその参謀たちだけである。いま、多くの体験談や目撃談が出ているが、それは、「戦闘」の名場面だけで、残虐も、勇壮も、「戦争」という大テーマのそれではない。陸軍士官学校、海軍兵学校出身の“職業軍人”たちは、いうなれば“軍事官僚”で、彼らが兵士たちの生命を左右し、国家を滅亡させたのである。

いま、警察官僚のキャリアたちの不祥事が続発しているが、私は、軍事官僚と彼らとをオーバーラップさせてみている。エリート意識のおごりである。日本国と日本国家の、50年前の敗戦の徹底追及がなかったため、ふたたび、同じ道を歩んでいる。国家は衰退から滅亡へと進んでいるようだ。

その第一の戦犯はマスコミである。その場その場の現象に飛びつくだけで、「社会の木鐸」という言葉は死語になってしまった。

その著書で、相手の名前を出して、中国人を袋詰めにして池に投げ込み殺した、といった男は、中国各地を講演して回り、名士気取りである。名前を出された男は、裁判に訴えて、現実には袋詰めできないと、勝訴したが、著者は平気の平左だ。鈴木元中将のウソを宣伝するヤカラも同じである。(続く) 平成12年9月2日

編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3)

編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)

■□■戦争とはなんだ?(3)■□■第51回■□■ 平成12年9月9日

8月19日、敗戦から4日目。私たち在新京(長春)の日本軍部隊は、首都防衛司令部の命令による行軍序列で、南方の公主嶺に向けて沈黙の行進をつづけていた。日ソ両軍の交渉で、首都新京に日本軍がいると、不測の事態の可能性があるというので、南の公主嶺市に撤退することになったのだ。ここは軍都ともいうべき街で、兵舎など軍部の施設が数多くあったからだ。

重機関銃、大隊砲などの重装備は、武装解除されたが、軽機関銃、小銃などは、自衛のためまだ持っていた。満人の暴徒や満州国軍の叛乱などが、まだ続いていた。祖国日本の敗戦というショックに、自分たちのこれからの運命を思えば、葬列のような静けさにみちていた。

と、行程の半ばぐらいの時だったろうか。前方で激しい銃声が響いてきた。何が起きたのか、隊列はピタリと止まった。やがて、逓伝で「先頭部隊が外蒙兵に襲撃され、交戦中!」と、報告が入ってきた。私たちはそれをまた、後続の部隊へと叫んで伝える。

私たちは、第二〇五大隊。第一中隊から第五中隊までの小銃隊、それに、重機関銃、大隊砲の二個中隊、約一千四、五百名の兵力が並んでいた。銃声はいよいよ激しい。

「中隊長殿!」と、第五中隊第二小隊長の私は、前方の中隊指揮班に駆けつけた。「友軍が襲撃されているのです。救援に出かけましょう!」説明し損ねたが、黄河の鉄橋防衛の時には、私は重機関銃隊にいたのだが、原隊復帰の時、将校の数が足りない第五中隊に転属していた。

群馬県安中市出身で、中年の島崎正己中尉は、血気にはやる私をジロリと見るや、一喝した。「バカモン! 戦争は終わったのだ! これ以上、私の部下を死なすことはできん!」

ちょうどその時、後方から逓伝が聞こえてきた。「最後尾の戦車隊を前進させる。各隊その位置を動くな!」という。島崎中隊長は「みろ、戦車隊が出てから状況判断する!」と、不満そうに立っていた私を諭した…。やがて、キャタピラの轟音も力強く、十数輌の戦車が前進してきた。駄散兵(ダサンペイ・小銃隊の兵隊のこと)の私たちには、戦車隊の勇姿が、なんとも頼もしかったことを今でもハッキリと覚えている。

2、3時間もその位置にいただろうか。銃声も止み、前方から「前進!」の逓伝がきて再び公主嶺へと行軍を開始した。先頭の部隊は、戦車隊ともども、外蒙兵に拉致され、後には、戦死体と所持品の略奪の様子が残されていた。…これが、のちに戦後の国会でも問題になった、「ウランバートル、暁に祈る」事件の発端であった。まさに中隊長の言葉通りに、“戦争が終わったあとの犬死”だったというべきであろう。

島崎中隊長については、私が、一喝されて素直に従ったワケがもうひとつある。前々章で私が黄河から原隊復帰したとき、中隊長と第一小隊長が作戦に出ていて不在だった、と書いた。その先任少尉の石川新太郎小隊長の話である。米空軍基地のある老河口攻略のため、途中にある南陽市攻撃に参加したのだが、国民党軍が米式装備で守る南陽に行く前に、作戦部隊は、共産八路軍に行く手を阻まれた。

第二〇五大隊からは、島崎第五中隊長、石川第一小隊長のほか、他の中隊から一個小隊宛集めた一個中隊が出ていたのだった。尖兵として前に出ていた石川小隊は、有力な八路軍に包囲されそうになり、全滅の危機だったという。島崎中隊長はその様子を見て取って「石川小隊は退がれ!」と命令した。石川小隊の占めていた位置は、大隊命令で重要な地点だったのだが、島崎中隊長の命令で退却して、全滅をまぬがれた。

その日の夕方、島崎中隊長は多くの兵隊たちのいる前で、大隊長に口汚く罵られたが、黙ったまま直立不動の姿勢で立っていたそうだ。一言も弁解しなかったという。陸軍刑法には抗命罪という罪がある。上級指揮官の命令に背いた時、適用される。島崎中隊長の態度は、自分ひとり罪をかぶっても、石川小隊50余名の生命を救おう、というものだ。

島崎隊の戦友会が毎年1回、群馬県の温泉で催される。島崎、石川両氏とも故人となったが、「あの時、退却命令がなかったら、この会の顔触れは変わっていたろうよ」と、石川少尉は、いつも私に語っていた。

公主嶺の道中での、私への一喝といい、島崎中尉は“ひとのいのち”をなによりも尊ぶ人だった。シベリアの捕虜時代にも、採炭量がノルマに達しないと、責任罰で何回か営倉に入れられた。1日に黒パン一切れと水だけで…。それでも「石炭掘りに行くよりはラクだったよ」と、笑ってみせていた。

企業でも団体でも、上司次第である。それが「経営者責任」でなければならない。ツブれた銀行の役員たちが、過大な退職金を抱え込んであとは知らんぷりである。そごうの水島広雄もそうであるし、三菱自動車の社長など、「辞める気はない」と豪語し、翌日には三菱各社に迫られて「辞める」とは!

ビルマのインパール作戦では、軍司令官の中将は、反対する参謀長の首をスゲ替え、数万の兵を飢え死にさせた。作戦が中止になっても、割腹自殺もしない男だ。

カーター大統領にクビを切られた、在韓国連軍参謀長を取材しに行ったことがある。主戦派だったからだ。ロスからデンバーに飛び、車を仕立てて、ロッキー山脈の中の隠居所を訪ねた。その時の実感は、アメリカの広い国土と人口の多さだった。在米の陸軍駐在武官は、アメリカの実力について、軍中央にキチンと報告を入れていたのだろうか。駐米武官も軍中央も、陸士、陸大の出身者だ。

敗戦も、彼らの指導のもとでは当然の帰結であった。そして彼らは何百万人もの同胞を殺して、責任を取らなかったのだ。 平成12年9月9日

編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4)

編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)
編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)
編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)
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編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)

■□■戦争とはなんだ?(4)■□■第52回■□■ 平成12年9月17日

日曜日の産経新聞に、長い続きものが連載されている。「紙上追体験・あの戦争」で、9月10日に94回となった。それは、「日誌」と知名人の「日記から」と、「鎮魂」という全戦域の戦死者の情報。さらに本文である。

その8月13日~19日、20日~26日、27日~9月2日、3日~9日、10日~16日の5週分の「鎮魂」に興味を覚えた。8月15日分から連日、戦地ばかりか内地の各地方での自決者の階級、氏名が明記されているからだ。その合計108名(軍人のみ)を将軍(元帥、大、中、少将)13、佐官(大、中、少)15、尉官(大、中、少)19、下士官兵(准尉2、曹長5、軍曹9、伍長6、兵長7、上等兵14、一等兵3、二等兵1)47、軍属雇員7、海軍兵7、に分類して眺めてみた。

やはり、軍事官僚の責任の取り方と、下級幹部と兵とに対する“教育”の成果とが、私の推論のように出ているのだ。産経新聞の取材源や、このデータが自決者の全てなのかどうかは、わからない。あくまで、紙面の数字からである。

元帥は1名、9月12日、第一総軍司令官杉山元は司令部で拳銃。その知らせで夫人は短刀で自決した。大将2、中将9(含海1)、少将1(家族4名とも)。中将が多いのは戦地での最高責任者が多かったから。大将と少将が少なすぎる。

大佐8(内1は妻子3人とも)、中佐1、少佐6。中佐が少ないのは参謀ということで直接責任感が薄い。大佐、少佐はそれなりに各軍位の最高責任者である。大尉6、中尉8、少尉5の計19。下士官の47は「神国日本の王道楽土の建設」に狩り立てられて、「欣然死地に赴く」現実である。

このほか「鎮魂」には、樺太での看護婦、交換手らの集団自決。右翼三団体の35名(妻2殉死)が、宮城前、愛宕山、代々木錬兵場での自決。戦犯指名の元厚相、元文相、士官学校歴史教授ら3名も名前があげられている。

ここに引用した自決者の数字は、そのままでは多い少ないとはいえない。階級制度の軍隊では、上級者になるほど人数が少なくなるからである。だが、私が満2年のシベリア捕虜から帰ってきた時、将官、佐官の戦争指導者のほとんどが、自決したと思いこんでいたものだったが、その感覚からいえば、上級者の責任の取り方が納得できないのだ。そして産経紙のあげたこの数字に、改めてその感を深くしている。

私の学生時代、軍隊時代の、あの“熱病”のような“御稜威(みいつ)のもとに益良男(ますらを=剛勇の男)が”の軍国歌謡のアジテーションは、捕虜時代にすっかり冷め果て、ともかく生きて帰ることに変わった。そしてさらに、戦争の持つ残忍性、惨虐性は、全世界の参戦国の全てに共通し、殺人、掠奪、放火、強姦など、あらゆる罪悪が横行するものなのである。従って、私は戦争中の悪事は全てアイコにすべきだと思う。

そんなことをホジクリだしっこする愚よりも、戦争を起こさせない賢に力を注ぐべきだろう。中国の殷墟から出てきた捕虜の人骨に全て頭部がないのは、蘇生を恐れたからだといわれる。斬首の習慣はむかしから中国にあった。だから、在中国の日本兵の戦死体にも、首のないものや、男性器を切除したものがあった、と古い兵隊はいう。国民党軍にも共産八路軍にも、兵隊の出身地によっては、そういった古い習俗を守る連中もいたのであろう。

日本が、明治維新後、西欧に追いつき追い越そうという努力は、ハングリーだったからこそだ。日清、日露の両戦役に勝てたのは、日本軍が強かったからではなく、清国は、長年の腐敗で病んでいたし、ロシアは帝政末期で、同じく病んでいて、弱かったから勝てた。それにオゴった指導者たちは、ハングリーな国民のケツを叩いて、“ゼイタクは敵だ・欲しがりません、勝つまでは”とあおり、新聞はその尻馬に乗って、“報国報道”を叫んだ。

知人の書いた中国戦記に、こんなくだりがある——一個中隊が駐屯する田舎の県城。分遣隊が八路軍に囲まれ全滅した。ところが駐屯地では、中隊長以下の幹部が、娼家に入り浸って泥酔していた。分遣隊を救援するどころか、中隊長本部が襲われ、全員逃げた。

実情を調べにきた参謀は、中隊長を調べた後、黙って拳銃を机上に置いてきた。中隊長はそれで自決。遊んでいた幹部たちは、全て二等兵(最下位)に落とされ、各地の各部隊に分散、転属させられた、と。

なにやら、新潟県警を想起させるが、軍隊は士気盛んな時は、責任の所在も明らかであるが、敗戦ともなれば、みな無責任だ。それを示す産経紙の「鎮魂」である。

平成11年3月の数字で、旧軍人の恩給を調べてみた。その基本になるのは、仮定年額の俸給だ。兵を1とすれば、少尉は1.6倍、少佐は2.9倍、少将は4.3倍、大将は5.7倍になる。公務員と旧軍人の合計で1.2兆円。10年ほど前までは年間3万人減(死亡)だったが、最近は5万人ほど減るようだ。現存しているのは、少将2のみで、中将、大将の本人はゼロで、遺族83を数える。

普通恩給と傷病恩給との比率は、大佐37対3、中佐250対9、少佐1777対129、大尉8360対560(単位・人)。これでみても、上級者には戦傷者が少ない。だが、兵で見ると、24万対4万で6分の1が戦傷者である。もう10年もすると、旧軍人の恩給はゼロになるだろう。どうして、こんな旧軍人恩給を持ち出したかというと、国家に対して責任を取るべき軍事官僚が、責任に対してはシカトウで、恩給だけは国家からキッチリと取っていること。

1銭5厘のはがきで兵隊にとられた連中に対し、上級者はその何倍もの計算基礎が確立されている。昭和21年2月1日にGHQの指令で旧軍人恩給が廃止されたが、昭和27年4月28日平和条約が発効するや、翌28年8月1日に恩給法改正で復活してしまった。本来ならば、旧軍人全員に平等で支給すべきだと思う。私にはもちろん恩給はない。

——こうして、無責任体制が着々と戦後政治を支配していった。軍恩連という団体も、自民党一党独裁を支持してきたのである。

では、「あの戦争」とは、一体なんだったのか? 戦後55年も経て、そのことを考える人々も、どんどん減っている。大東亜戦争と呼ばれた「あの戦争」も、関ケ原の役と同じ扱いを受けつつあるようだ。 平成12年9月17日

編集長ひとり語り第53回 ズッコケ加藤の末路

編集長ひとり語り第53回 ズッコケ加藤の末路 平成12年(2000)11月25日 画像は三田和夫58歳(1979.11)
編集長ひとり語り第53回 ズッコケ加藤の末路 平成12年(2000)11月25日 画像は三田和夫58歳(1979.11)

■□■ズッコケ加藤の末路■□■第53回■□■ 平成12年11月25日

「おまえ、バカなんじゃないかって…私もエラそうなことは言えませんけど、ネ…」

これは、イイ年をして、涙拭き拭き語る三田佳子のダンナのセリフである。テレビでの、このコメントを聞きながら、私は、このセリフは本人自身へブツけるべき言葉だ、と感じていた。NHKのプロデューサー出身だとか、一体、この男は、ナニを、どんな形でプロデュースしていたのか? と、疑問を感じた。大女優にパラサイトしているだけの男、と哀れにさえ思えた。

余談だが、山田五十鈴の何番目かの夫の役者がいた。地方巡業に行くと、“ベルダン”と声がかかる。ベル(五十鈴)のダンナ、という意味である。彼は、このカケ声に反発して、短い結婚生活を終えた。自分から三行半(離縁状)を突きつけた。「俺は独立した役者なんだ!」と。

私は、加藤紘一に「お前バカなんじゃないのか?」と、ヨシダンが自分の次男に吐きつけた言葉を、そのまま、吐きつけたい。野党の不信任案上程の、さる20日の朝、自宅を出る加藤は、「100パーセントの勝利!」と、大言を報道陣に言い放った。

森を下ろして、自分が総理になる、とも、自分が総理になったらこうするといった、情熱も、理想も、未来をも、彼は語ったことはなかった。「離党はしない」「不信任案に同調する」といった言葉の端々から、「この男は何を考えているのか」といった疑問が浮かぶが、「100%の勝ち」ということがとにもかくにも、森政権の現状打破のキッカケになるだろうことは、期待できた。

「離党しないで、野党の不信任案に同調する」ということは、「自民党内で多数の支持を得て総理総裁の座に就く」とは、バカでなければ、考えられない。仮に、不信任案が可決されたとしても、野党が一体となって、加藤を総理に担ぐということは、バカでなければ、考えられないのである。

となると、加藤は、一体何を狙って11月始めからの行動を起こしたのか。加藤派45名、山崎派19名で、合計64名。両派から落ちこぼれが出なくとも、主流派に対しては少数派である。そして、実際に本会議に欠席した(加藤・山崎両氏と行動を共にした)のは、加藤派21名、山崎派17名の38名だった。加藤派では、半数以上の24名が森側についたのである。

加藤が、外部に向かって、名乗りをあげる前に、自派44名の意志の点検をしたのか。前会長で、現名誉会長の宮沢蔵相が、賛成してくれたのか。加藤派(宏池会)の創設者・池田勇人の娘ムコの池田行彦元外相はどうか?

自分の足許さえ見ることができないのでは「お前バカなんじゃないのか!」といわれて、当然である。当初から口にしていた、国民の総意によって…というクダリは、HP(ホームページ)に数十万のアクセスがあったから、ということらしい。失礼ながら、自民党支持者の大多数の人々は、加藤のHPなど見たりはしない。トンデモナイ錯覚である。

当然考えられるのは、全国遊説で、直接国民に語りかけ、その理想や新世紀への期待に熱弁を振るうべきであった。HPへのアクセスが数十万人あった、といっても、一億二千五百万人から見れば、ケシ粒ほどの数だ。

さらに、テレビが報じた、最後の“喜劇”は、「これから、同志の山崎くんと2人で、本会議場で賛成票を投じに行きます」という、恥の、バカの上塗り、サル芝居である。もう、まともな政治家の発言ではない。

日比谷高校(府立一中)、東大法学部と歩んだ官僚志望者の、哀れな哀れな、頭デッカチだけの末路であった。私はいう。「お前、ホントにホントにバカじゃないのか!」と。

蛇足ながら、一言付け加えておこう。

むかしの派閥会長は、自分が利権を握って金を集め、それを子分たちに分け与えて、派閥の団結を図ってきたのである。いま、そんなことができるのは、亀井静香ぐらい。他の会長たちを見渡すと、そんな才能のあるのはいない。が、依然として派閥が存在するのは人事への発言力を期待するからだ。

森内閣の予算審議をみると、ロクに答弁もできない(足取りさえもおぼつかない)老人大臣が、何人か見かけられる。それも、派閥に属している恩恵なのである。

分裂騒ぎになっている加藤派で、会長の欠席指示に従わなかったのは、宮沢を除いて、23名。そのほとんどが、すでに大臣を経験している。つまり、加藤を取り立てる意味がない人たちである。 平成12年11月25日