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最後の事件記者 p.074-075 「またペンが握れる」

最後の事件記者 p.074-075 たとえ軍事俘虜であろうとも、私は読売特派員だ。腹にまいた正力松太郎の署名入り日の丸と社旗とは、あの地獄のような生活の中でも、新聞記者として私を元気づけてくれたのだった。
最後の事件記者 p.074-075 たとえ軍事俘虜であろうとも、私は読売特派員だ。腹にまいた正力松太郎の署名入り日の丸と社旗とは、あの地獄のような生活の中でも、新聞記者として私を元気づけてくれたのだった。

朝があけてきた。まだ、ソ軍戦車はやってこない。やがて正午の玉音放送だった。

昨夜の断腸の思いの、新聞記者への別れも、再びつながれた。ベストを尽した試合が、敗戦に

終った感じだった。解放感がこみあげてきた。私の心ははや東京へと飛んで、「再びペンを握れる!」というよろこびで、もう一ぱいだった。

部隊は武装解除されて、シベリアヘと送られた。だが、私は「読売新聞シベリア特派員」だったのである。出発前には、錦ヶ丘高女の女学生の家をたずねたり、日本人家屋から日用日露会話という、ポケットブックを探しだしてくるほど、張切っていたのである。

『三田さんは読売本社なら東京ですな』

『エエ、東京で逢いましょう』

『短気を起さず、身体に気をつけてな』

その人は、今、池袋で法律書を出版している、大学書房の石見栄吉氏だった。私がたとえシベリアで倒れても、消息はこれで、東京へと伝わろう。私は明るく別れをつげた。

私は日露会話の本で、輸送間に警戒のソ連兵にロシア語を習った。沿線の風景をはじめ、見聞するすべてを頭の中ヘメモした。

ロシア語はたちまち上達して、取材は八方へとひろげられた。作業へ出ると、警戒兵を買収して、一緒に炭坑長や現場監督の家へも遊びに行った。労働者の家庭生活をみるためである。身分

は、たとえ軍事俘虜であろうとも、私は読売特派員だ。腹にまいた正力松太郎の署名入り日の丸と社旗とは、あの地獄のような生活の中でも、新聞記者として私を元気づけてくれたのだった。

「またペンが握れる」

こうして丸二年、私は不屈の記者魂を土産に持って、再び社に帰ってきた。第二次争議が終ったばかりの読売には、同期十名のうち半分はいなくなっていた。つまり兵隊に行かなかった連中は、すべて、第一次、第二次の争議で、激動期の読売から去っていってしまっていた。迎えてくれたのは東京社会部の労働班長金口進一人だけだった。

去っていったのは、北海道の国鉄職場離脱斗争を指揮した、日共本部派遣のオルグ山根修や、東京民報へいった福手和彦や徳間康快である。その中、連絡のとれているのは、アサヒ芸能社長の徳間だけだ。 私の仕えた初代社会部長小川清も去り、宮本太郎次長はアカハタ紙へ転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知新聞社長)が社会部長に、森村正平次長(現報知編集局長)が筆頭次長になっていた。昭和二十二年秋のことだ。

最後の事件記者 p.076-077 『ウン、つまらんね』

最後の事件記者 p.076-077 一枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。
最後の事件記者 p.076-077 一枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。

東京に帰りついた翌日、私は出社した。二年間の捕虜生活も、新聞記者にもどったよろこびで、身体は元気一ぱい、何の疲れもなかった。竹内部長はきさくに片手をあげて、編集の入口でマゴついている私を呼んだ。森村次長が早速いった。

『何か書くかい? 書けるかい?』

『エー、もちろん、書かせて下さい』

森村次長は、捕虜から帰ったばかりの私が、使いものになるかどうかみようと思ったらしい。私はその日帰宅すると、徹夜でシベリヤ抑留記を書いて持っていった。

『ウン、つまらんね』

軽くイナされてしまった。私は実のところ、何を書いていいか判らなかったのだ。森村次長は、ただ「書くかい?」といっただけ、私は心中腹を立てて、その原稿を取りもどすと、またその夜も徹夜した。今度は、新聞記者のみた、シベリヤ印象記を書いた。

『ウン、これなら使える。御苦労さん。しばらく、挨拶廻りもあるだろう。休んでいいよ』 やっと、ネギライの言葉がもらえた。

数日後、私は郷里の盛岡で、驚きと感激に胸をつまらせながら、読売新聞をみつめていた。一

枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。その記事を読みながら、私は涙をポトポトと、紙面に落した。

——生きていてよかった。兵隊も捕虜も、この日のための苦労だったのだ。

しみじみとした実感だった。あの玉音放送の時の、躍り上らんばかりのよろこび、「またペンが握れる」が、咋日のように、胸に迫ってきた。

署名入り処女作

昭和二十二年十一月二十四日(月)

抑留二年、シベリア印象記

本社記者 三田和夫

ナゾの国ソ連と呼ばれた通り、この国で見たもの聞いたものには、ついにナゾのままで終ったことが多かったが、うかがい得た限りでは、いろいろと興味あることばかりであった。入ソした われわれは、いたるところで大歓迎をうけた。というのは、列車が停るたびごとに、食料品や煙草を抱えた人々が押しよせてきて、物交をせがんだのだった。

最後の事件記者 p.078-079 彼らには粗衣もなかった

最後の事件記者 p.078-079 そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。
最後の事件記者 p.078-079 そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。

われわれは、いたるところで大歓迎をうけた。というのは、列車が停るたびごとに、食料品や煙草を抱えた人々が押しよせてきて、物交をせがんだのだった。

一人の兵隊が、試みに赤フンを外して差出すと、女たちが殺到してきて奪いあったが、やがて彼は、得々として赤フンを頭に被った女から、沢山の煙草をもらって当惑してしまった。

子供に鉛筆をネダられた母親は、新しい一本の鉛筆の代償に、バケツ一杯のジャガ芋を車中へほうりこんでくれた。軍用石ケンを鼻に押しあてて、匂いをかぎながら喜ぶ娘たち、吸いかけのタバコをせがむハダシの子供、ライターをみて逃げ出す男、ピカピカ光る爪切りをみて、何か判らずヒネリ廻す将校と、あらゆる階級の老若男女が集ってきた。

そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。

勤労者と農民の祖国と謳い、真の自由の与えられた、搾取のない国と誇る社会主義国家の現実は、こうしてわれわれに、ただ驚異を与えながら展開していった。もちろん、流刑植民地という、極北の特殊地帯シベリアの、一炭坑町チエレムホーボにあって、抑留二年の間に私が見聞したことどもが、あの独ソ戦を戦い抜いた、ソ連の姿のすべてでないことはいうまでもない。

日本人の入ソ以来、軍の被服は街にはんらんした。男も女もカーキ色の軍服を着ている。被服類の不足は一番はげしく、われわれも収容所内で、ソ連の将校や兵隊に奪われるため、どんどん地方人たちと交換をした。

雨具などもちろんなく、二年間に街中でコーモリをさした人を二人みかけただけで、男も女も、みな雨にぬれながら平気な顔をして歩き、また働らいていた。クツ下はバルチヤンキと呼ぶ四角い布で、それを巧みに足に巻いた。粗衣という言葉があるが、彼らには粗衣もなかった。

「働かざる者は食うべからず」は「食うためには働かざるべからず」であった。労働の種類に応じて、パンの配給量は規定されていたし、働らかないものには、学童とか妊婦とか特殊なものを除いて、パンの配給がないので、女も子供も働きに出る。

私の作業隊の監督は、一家六人暮しであったが、父親が炭坑の監督、長女(一六)がハッパの火薬かつぎ、長男(一三)が馬方と、三人が炭坑で働らき、日に三・六キロのパンをもらい(一・二キロ宛)、母親と次男(一〇)次女(八)とも六人で、日に一・六キロのパンを食べ、二キロのパンはバザールで売って生活を立てていた。彼らの生活は食うことで一ぱいであった。

最後の事件記者 p.080-081 人間による搾取のない国

最後の事件記者 p.080-081 富めるものは、妻は家庭に子供は学校へやり、必要量のパンをバザールで買う。そのパンこそ、貧しいものが、一家総出で獲得したパンを割愛して売るパンである。
最後の事件記者 p.080-081 富めるものは、妻は家庭に子供は学校へやり、必要量のパンをバザールで買う。そのパンこそ、貧しいものが、一家総出で獲得したパンを割愛して売るパンである。

食うためには働らかねばならない。ここから彼らの勤労観は出発する。働らくよろこびなどおろか、作業の固定しているものなどは、ひたすら八時間の経過を待ちこがれ、歩合のものは労力を最小限に惜しむ。

ソホーズ(国営農場)コルホーズ(集団農場)は雑草のはびこるにまかせ、種芋を八トンまいても収穫が五トンしかないという事実が起きるが、住宅付属地として私有を許された自分の畑は、一本の草もなく豊かな稔りをみせる。憲法によって享有されている「労働の権利」は、「労働の義務」となって重たくのしかかっていた。

富めるものは、妻は家庭に子供は学校へやり、必要量のパンをバザールで買う。そのパンこそ、貧しいものが、一家総出で獲得したパンを割愛して売るパンである。「人間による人間の搾取のない国」で、一方は肥え太って美服をまとい、ラジオを備え、ミシンを買い、高い程度の生活をしているが、片方では「教育の権利」すら放棄して、食うことに追われている。

          ×    ×    ×

四十九種族を包容するこの国には、ロシア語を話せない国民が沢山いる。私は入ソの車中、満州で拾ったロシア語の本で勉強したおかげで、警戒兵をだまして四、五軒の家庭にも行き、多く

のソ連人と話し合うことができた。彼らは私の片言のロシア語を聞いて、何年間日本でロシア語を習ったかとたずね、シベリアで習ったといっても本気にしない。

二十二、三才の学校出が、技師と呼ばれて別世界の人間のように尊敬されている。子供たちも学校へ行かないものが多い。八年生の歴史の教科書をみると、秀吉の木版のさしえがあって、朝鮮征伐のことが出ていたので、誰かと聞くと、日本の昔のゲロイ(英雄)だと答えたが、日本の帝国主義的侵略だと教えている。

女の軍医上級中尉に、地図を描いて千島列島を示したところ、フィリピンかといった。国内警備隊の地区司令官が盲腸炎になって、収容所内の病棟に入院し、日本軍医に執刀を求めるのも当然であろう。

機械類および自動車はすべて米国製で、ソ連製品はあってもほとんど動いていない。自転車や自動車を指し、真顔で「日本にこんな機械があるか」という質問を受けたことは、一度や二度ではなかった。

大きな炭坑町でありながら、小さな図書室とラジオが一つあるだけで、文化設備などもほとんどなく、満州からもってきたポータブルが一台、警戒兵の兵舎で、毎日「アメアメフレフレ」と

「モシモシカメヨ」をうたっているだけで、児童劇場など欧露の大都市のことだろうか。

最後の事件記者 p.082-083 「スターリン・プリカザール」

最後の事件記者 p.082-083 愚昧な労働大衆は、レーニンの像を立て、スターリンの絵を飾り、NKVD(秘密警察)の銃口を背に、五ヵ年計画へ追いまくられている。
最後の事件記者 p.082-083 愚昧な労働大衆は、レーニンの像を立て、スターリンの絵を飾り、NKVD(秘密警察)の銃口を背に、五ヵ年計画へ追いまくられている。

大きな炭坑町でありながら、小さな図書室とラジオが一つあるだけで、文化設備などもほとんどなく、満州からもってきたポータブルが一台、警戒兵の兵舎で、毎日「アメアメフレフレ」と

「モシモシカメヨ」をうたっているだけで、児童劇場など欧露の大都市のことだろうか。

ソ連の言葉に、「八時間労働、八時間睡眠、八時間オーチェレジ(買物行列)」というのがある。この三番目のオーチェレジは、イバーチ(性の遊戯)あるいはクーシャチ(食べもの)と、訂正されねばならない。それほど、この二つの問題が大きく浮び上っていた。ソ連人はすぐスパーチ(眠り)といって、手枕の格好をする。身を横たえる寝台一つに過ぎない住いは、一室に夫婦者、独身者、親子連れと雑居し、夫は零時から八時の深夜作業に行き、妻は八時より十六時の作業にという生活の食い違いに、ますます性道徳は乱れ、小さな子供までが、平気で性に関する言葉を放っている。

正当なる住民たちは、何も知らないでただ生きている。たのしい生活を、人間らしい生活を希求するまでに、彼らの知識はひらかれていない。こうして、愚昧な労働大衆は、レーニンの像を立て、スターリンの絵を飾り、NKVD(秘密警察)の銃口を背に、五ヵ年計画へ追いまくられている。

「スターリン・プリカザール」(スターリンの命令だ)の一言で、一切が解決される。〝言論の自由〟を与えられ、戦後第三年にいたるも、民需生産を抹殺している現政権の下に、人類の平和

と幸福のシムボルという赤旗を掲げながら……

          ×    ×    ×

最近、ソ連では人類愛的な見地から、死刑を廃止して二十五年の矯正(強制?)労役に服させることになったと報じられた。やがて収容所の糧秣係をしていた軍属が、糧秣を一般人に横流ししていたのが発党して、逃亡した。

芋畑に小銃を持つ番人がいる位に、ものを盗むことは重罪である。その軍属が捕えられた時に、ソ連主計大尉に「なぜこんなに刑罰が重いのか」とたずねたところ、彼は「重罰を課して再び前者の轍を踏ませないためである」と答えた。だが、数ヵ月後に新しい糧秣係が再び逃亡した。

ここで二つの解釈が下される。一つは重罪の危険をおかしてまでも、やらなければ食って行けないことであり、他の一つは、悪いことをやらなければ損なくらい、組織制度に欠陥のあることである。後者は二年間の各種作業場で知ったことだが、労働の量と質とを査定するところに、原因がひそんでいる。

一トン積のトロ台数で計算される採炭量は台数の計算係を買収することによって、自由に作業成績を向上し得る。収賄と贈賄は活発に行われ、上司も部下も、自らの腹が痛むわけでもなく

国家のをゴマ化すのであるから黙認する場合が多い。

最後の事件記者 p.084-085 「アメリカはすばらしい」

最後の事件記者 p.084-085 帝政時代のクラーク(富農)の老人は、ツアーリのいた時は、生活もたのしかったし、食物にもこんなに不自由はしなかった。日本もミカドがいなくなったら…
最後の事件記者 p.084-085 帝政時代のクラーク(富農)の老人は、ツアーリのいた時は、生活もたのしかったし、食物にもこんなに不自由はしなかった。日本もミカドがいなくなったら…

収賄と贈賄は活発に行われ、上司も部下も、自らの腹が痛むわけでもなく

国家のをゴマ化すのであるから黙認する場合が多い。

記録上で完成されねばならない仕事も、事実は未完成なため仕事は延長され「失業のない国」の理想のみ実現されている。

死刑囚まで働らかねばならないシベリアこそ、失業のない国の宝庫である。独ソ戦で独軍の捕虜となり、祖国戦勝の基を築いた二百万と称する勇敢な兵士たちは、米軍に接収されて、母国帰還と同時にシベリアに送られてしまった。

被占領地区で独軍に協力したという理由で、数多くの女子供が同様に送られてきている。また革命の時、現政権に好意をよせなかった人々も、囚人もみな五ヵ年計画によるシベリア開発に挺身しているが、彼らは何を感じ何を想っているだろうか。

          ×    ×    ×

帝政時代のクラーク(富農)の老人は、

『ツアーリのいた時は、生活もたのしかったし、食物にもこんなに不自由はしなかった。日本もミカドがいなくなったら、同じ目にあうからお前たちは可哀想だ』

と、帝政の昔をなつかしがり、独ソ戦の光栄ある捕虜の若者は、

『アメリカはすばらしい。うまい食べ物がたくさんあるし、よい服をくれたし、作業は楽だし、ほんとうにアメリカはよい国だ』

首に十字架を下げたウクライナの女は、

『私の夫はソ連兵に殺された。私の子供はどこかに連れさられた』と。

彼らは私とほんとうに二人切りの時に、語ってくれたのだった。彼らは知っている。身廻りのどこにいるかもしれない、おそろしいNKVDの銃口を!

元気な若者は、真剣に北部シベリアから、アラスカヘ出るアメリカヘの逃亡を考えて、私を誘ったこともあった。ソ連側から放送される米ソ戦の危機は、全シベリア住民の関心をたかめているが、彼らはいう。「その時は銃をすてて投降するサ」と。

シベリアの親米反ソの胎動は、NKVDの黒い幕のかげで起りつつあるが、スターリンの恐怖独裁政治は、まだしっかりとその幕を押えている。

三百人もの、老若美醜とりどりの女たちの、半分以上がクツもはかずに、ぞろぞろと群れ歩く周囲には、自動小銃が凝されているあの光景を想い浮べる時、ナホトカ港でみた船尾の日章旗と、舞鶴湾の美しい故国の山河の感激、上陸以来の行届いた扱いと温かいもてなしとに、有難い国日 本、美しい国日本と、目頭をあつくして、いまなおシベリアに残る六十万同胞の帰還の一日も早かれと祈るのであった。

最後の事件記者 p.086-087 「悪質な反ソ宣伝だ」と

最後の事件記者 p.086-087 引揚列車に注目し、出迎えにみむきもせず、代々木の日共本部を訪問するトラブルを〝代々木詣り〟としてスクープした私は、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。
最後の事件記者 p.086-087 引揚列車に注目し、出迎えにみむきもせず、代々木の日共本部を訪問するトラブルを〝代々木詣り〟としてスクープした私は、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。

三百人もの、老若美醜とりどりの女たちの、半分以上がクツもはかずに、ぞろぞろと群れ歩く周囲には、自動小銃が凝されているあの光景を想い浮べる時、ナホトカ港でみた船尾の日章旗と、舞鶴湾の美しい故国の山河の感激、上陸以来の行届いた扱いと温かいもてなしとに、有難い国日

本、美しい国日本と、目頭をあつくして、いまなおシベリアに残る六十万同胞の帰還の一日も早かれと祈るのであった。

反動読売の反動記者

もう十一年も前の記事で、今、よみ返してみると、ずいぶんオカシナところも目につくが、 数年にわたる軍隊、捕虜生活を終って直後に、一夜で書いた原稿にしては、案外ボケてもいなかったようである。

私のこの署名処女作品は、その日の記事審査日報で、こんな風にほめてくれたのだ。

「内容はこの方面の記事が、本紙に少ないだけに、きょうのものは読みごたえのある記事となった。もちろん、取材の上でシベリアの一部分だけの面であるが、しかし限定されているだけに内容が詳しく、かつ新聞記者の直接の観察であるだけに、表現も上出来だ。従って、三紙の中では読ませる紙面となった」

この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、記者会見を行い、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明を行うほどの反響をまき起したのだった。

やがて、サツ廻りとして、上野署、浅草署を中心に、あの一帯を担当した私は、上野駅に到着する引揚列車に注目し、出迎えの老母や愛児にみむきもせず、代々木の日共党本部を訪問しようとする愛情のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープした私は、「反動読売の反動記者」という烙印を、ハッキリと押されてしまったのである。

だが、このレッテルは必らずしも当っていない。当時のニュースの焦点は、日共だったのである。シベリア印象記も、はじめに書いた抑留記が、森村次長によって、ボツにされてから、それでは今、何がニュースの焦点なのかを考えたのだ。

いや、考えたのではない。新聞記者としての第六感が、戦後の日本に帰ってきて、まだ数日しか経ってない私に、〝コレダ!〟と教えてくれたのであった。そして、生れたシベリア印象記である。それが、キスレンコ声明などで反響を呼び起したのであった。私は、反動記者ではなく、〝ニュースの鬼〟だったのである。

かつて、築地小劇場の左翼演劇にあこがれ、左翼評論家に指導されて、官僚からジャーナリズムヘ方向転換した私にとって、この名は皮肉なものだった。 私は反共記事ばかりではない。反右翼も、反政府も、反米も手がけた。

最後の事件記者 p.088-089 学生仲間は戦死し、女は嫁に行き

最後の事件記者 p.088-089 彼女の話を聞いて、私は保定で同期生だった彼の家族と知って驚いた。彼は師団司令部付だったので、或は? という、暗い予感がしないでもなかった。
最後の事件記者 p.088-089 彼女の話を聞いて、私は保定で同期生だった彼の家族と知って驚いた。彼は師団司令部付だったので、或は? という、暗い予感がしないでもなかった。

私は反共記事ばかりではない。反右翼も、反政府も、反米も手がけた。それが、ニュースである限りにおいては、それこそ、体当りで突っこんでいった。私を、反動記者と攻撃する左翼ジャーナリズムが、私の書いた、反政府もしくは反米的な記事を、今度はその左翼系紙が「何月何日付の読売によれば」と、デマ、ウソと攻撃した記者の記事を、そのまま全面的な信頼のもとに、幾度か引用しているではないか。

恵まれた再出発

この最初の署名記事の、何にもましての反響は、この記事の結ぶえにしで、私と妻とが相逢ったのであった。

私の略歴を読んで、自分の息子と同じ部隊だと知った義母は、消息のない息子の安否をたずねて、私の前に現れた。当時の私のもとには、毎日沢山の手紙と訪客とがあったのである。人妻も、老母も、若い娘も、その肉親と私とが、同じ師団だというだけで、何か消息がと、たずねてきていたのだった。

彼女の話を聞いて、私は保定で同期生だった彼の家族と知って驚いた。彼は師団司令部付だったので、或は? という、暗い予感がしないでもなかった。その老母の傍らで、心配そうに、マ

ユをひそめている若い娘、その人が彼の妹だと紹介された。和子といった。

社に復職した私は、当然、また社会部へともどった。いくらかずつか、ずっと続いていたサラリーをためて、私が再び着ることはあるまいと、兵隊に征く前に、全部質屋にブチこんで飲んでしまった背広を、私の母が全部請出していてくれた。

幸い、戦災にもあわず、住居と衣類と、そして職も失われていなかった私は、いわゆるツイている方だった。

恵まれた再出発に、私はすっかり気負いたって、エライ新聞記者になりたいと願っていた。社の同期生はタッタ一人。そして学生仲間たちは、多く戦死し、女は嫁に行き、仕事に熱中する以外に、私には、興味を引かれる何ものもなかったのだった。

最後の事件記者 p.090-091 シベリア印象記の結ぶ恋

最後の事件記者 p.090-091 私は友人の妹と逢った。友人の消息を伝え、シベリアの話がはじまった。時間があったので、帝劇でジャン・マレエの「悲恋」をみたのである。私は結婚を、その日に決めてしまった。
最後の事件記者 p.090-091 私は友人の妹と逢った。友人の消息を伝え、シベリアの話がはじまった。時間があったので、帝劇でジャン・マレエの「悲恋」をみたのである。私は結婚を、その日に決めてしまった。

サツ廻り記者

印象記の結ぶ恋

当時、私は次兄の家の二階に、いわば下宿していた。次兄は早稲田の助教授をしていて、朝早く夜早い生活である。ところが、まだ夕刊のない時代なので、新聞記者の生活は、朝遅く夜も遅いという、生活のズレがあったのである。

深夜帰宅して、寝ている兄や義姉に玄関のカギをあけてもらうのは、大変心苦しいことだったが、住宅難時代なので、アパートはおろか、下宿さえもなかった。私はようやく結婚しようかと考えるようになった。

長い間、外地で生活してきた私には、まだモンペや軍服が銀座の表通りを歩いていて、少しもおかしくない日本だったけれど、女の人が美しく見えて仕方がなかった。第一、ナホトカ港で、

引揚船の舷門に立って出迎えてくれた、日赤の看護婦さんの美しかったことは、それこそ眼も眩むばかりであった。

本社勤務の遊軍記者をしていて、帝銀事件だ、寿産院だと、いろんな事件が次から次へと起るのに追廻されながらも、私は、まだ消息さえなくて私に問合せてくる留守家族のために、 調査しては手紙の返事を書き、慰めたり励ましたりしていた。

保定の同期生で、師団司令部付だった友人の消息を調べたのも当然である。そして、懸命の調査の結果、彼が元気でシベリアにいることを割り出した。私は、友人の家にはがきを出し、「消息がわかったから、お序の時に社におより下さい」といってやった。

そして、私は友人の妹と二人切りで、はじめて逢った。友人の消息を伝え、二十円のコーヒーと五十円のヤキリンゴを前に、シベリアの話がはじまっていた。時間があったので、映画をみることになり、帝劇でジャン・マレエの「悲恋」をみたのである。日記をみると、入場料四十円、ヤキリンゴよりも、帝劇の方が十円も安いのだから驚いた。

私は結婚の決心を、その日に決めてしまった。竹内社会部長の仲人で、二十三年四月二十二日に高島屋の結婚式場で挙式した。その時には、すでにサツ廻りとして、上野へ出ていたのであ

る。高木健夫さんが、シベリア印象記の結ぶ恋と聞いて、「ウン、そりゃ、書けるナ」と冷やかされた。

最後の事件記者 p.092-093 当時の上野は犯罪の巣窟

最後の事件記者 p.092-093 グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。
最後の事件記者 p.092-093 グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。

その時には、すでにサツ廻りとして、上野へ出ていたのであ

る。高木健夫さんが、シベリア印象記の結ぶ恋と聞いて、「ウン、そりゃ、書けるナ」と冷やかされた。

こんな結婚話を書きつらねるのも、それから十年間、紆余曲折喜怒哀楽のうちに、新聞記者の女房として、横井事件でアッサリと社を投げ出してしまった時までの、彼女の気持も理解して頂かねば、私の生活記録として欠けると思うからである。

裸一貫の私には、貯金も財産もなかった。あったのは、職業と健康だけである。軍隊時代の封鎖された貯金から千三百円、学生服を売って二千五百円、社の前借が二千円、それに各方面からのお祝いを九千六百円頂き、合計一万五千四百円の現金ができた。そして、九千五百七十一円の結婚式費用を投じて、二人は一緒になった。新居は依然として、兄の二階だった。新婚旅行なぞは、したくとも金がなかったので取止めた。

この結婚の当初から、私たちの新家庭は、いわゆる新婚家庭ではなかった。私が仕事に熱中していたからであった。当時の上野は、地下道時代だったから、全く犯罪の巣窟でもあり、ニュースの宝庫でもあった。

地下道時代

グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。だから新聞記者で、サツ廻りを経験しないのは不幸なことである。

ターバンの美代ちゃん、という、ズベ公のアネゴと親しくなった。今でいうスラックスをピッとはいて、向う鉢巻のターバンをしていて、年のころ二十二、三の、意気の良いアネゴだった。

ポケットに洋モクを一個入れて、ポリにつかまると、「洋モクをバイ(売)してるンだ」と逃げるが、実はパン助の取締り——ショバ代をまきあげて生活している。女の意地がたたないとなると、子分のズベ公を連れて、朝鮮人の家にでも、ナグリ込みをかけるほどの女だ。   

彼女の家に泊めてもらったことがある。何人か各社の記者も一緒だ。そして、夜中に彼女の部屋をのぞくと、彼女のスケ(情婦)という可愛らしい十七、八の娘と抱き合ってねていた。女同志の妖し気な情事が、どんなに激しいかを知って驚いたのもそのころのことだ。

Mという、決して美人でない変り者のパン助がいた。彼女は、客を引きながらも、決してムダ に立っていない。仲間のパン助相手に、オムスビやオスシを売る行商をする。そして、七十八万円を貯金していた。

最後の事件記者 p.094-095 七十八万円を貯金していた

最後の事件記者 p.094-095 私と朝日の矢田喜美雄記者とが、M紙の記者を怒った。そして、とうとう矢田記者が彼女を自宅に引取った。矢田夫人も新聞記者だったから、こんなことができるのだが…
最後の事件記者 p.094-095 私と朝日の矢田喜美雄記者とが、M紙の記者を怒った。そして、とうとう矢田記者が彼女を自宅に引取った。矢田夫人も新聞記者だったから、こんなことができるのだが…

Mという、決して美人でない変り者のパン助がいた。彼女は、客を引きながらも、決してムダ

に立っていない。仲間のパン助相手に、オムスビやオスシを売る行商をする。そして、七十八万円を貯金していた。

M紙の記者が、そのことをゴシップ欄で書いたものだから、サア大変。彼女はしばしば襲われるようになった。身体につけてもっていると思うのか、営業中にまでグレン隊が飛びかかるのだ。

私と朝日の矢田喜美雄記者とが、人権問題だといって、M紙の記者を怒った。そして、相談したあげく、更生できるのならば、一石二鳥というので、とうとう矢田記者が彼女を自宅に引取ったのである。

矢田夫人も新聞記者だったから、こんなことができるのだが、普通の家庭ならば大変である。彼女は神妙に国立の奥にある矢田家に暮していたが、やがて一月もたとうというころ、お礼の書置を残して失踪した。再び上野に現れた彼女は、それから間もなく、北海道の商人で、定期的に上京する男の、東京ワイフに納ってしまった。

どうして彼女は、矢田家をとび出したのだろうか。私たちは矢田記者に聞いてみた。

『つまり、麻薬の禁断状態と同じらしいね。はじめの間は、遠慮して我慢していたのだが、やは

りやり切れなくなったらしい』

オカマの和ちゃん。彼女などはオカマといいながら、大変な美人であった。ある日、読売の婦人記者がオカマをみたいというので、上野を案内したことがある。途中で、和ちゃんに出会ったので、一緒に連れて、明るいレストランで三人でお茶を飲んだ。外に出て別れてから、婦人記者に「あれが、女形あがり、女形くずれじゃないよ。和ちゃんて子だ」彼女はエッと叫んで、信じ切れなかったらしい。

上野駅で、後から「隊長ドノ!」と呼ぶものがある。振り返ってみると、シベリアで一緒に苦労した旧部下の一人だ。聞いてみると、女とバクチで身を持ちくずし、高橋ドヤに転がり込んで、上野駅でショバ屋をやっているという。これもヒロポンだ。

『カタギになりたい』という彼の希望に、私は家へ連れてきた。といっても六帖の下宿住い だ。一晩泊めてから、都の民生局へ交渉して、引揚者寮へ入れてやった。やはり、軍隊友逹の佃煮屋さんに頼んで、その魚市場の売店の売り子にしてもらったが、彼も一月ほどで失踪してしま った。

カキ屋という、上野ならではの商売。ジドク屋である。ノゾキをしている男の補助をしてやる

のだ。視神経と運動神経を同時に使うと熱中できないから、運動部門を担当する。

最後の事件記者 p.096-097 ピカリと光るネタを毎日一本

最後の事件記者 p.096-097 読売第一の名文家を謳われた、現娯楽よみうり編集長の羽中田誠次長が、講評してくれる。私の最高記録は一月で八本、三十本も提稿して八本載ったのが限度であった
最後の事件記者 p.096-097 読売第一の名文家を謳われた、現娯楽よみうり編集長の羽中田誠次長が、講評してくれる。私の最高記録は一月で八本、三十本も提稿して八本載ったのが限度であった

カキ屋という、上野ならではの商売。ジドク屋である。ノゾキをしている男の補助をしてやる

のだ。視神経と運動神経を同時に使うと熱中できないから、運動部門を担当する。

若い巡査の恋人をもつ、あんまりラシカラザル、パン助。彼女の結婚できない悩みを訴えられて、その三帖の部屋で夜を明かしたりした。警官の妻はパン助経歴があると不適とされて、上司が結婚を認めないし、結婚するなら退職しろと迫られる。

文章のケイコ

こんな、ノガミの住人たちのことを書いていたら、それこそキリがない。こうして、社会の最下層の、しかも、どちらかといえば法律をくぐっているカゲの人たちの、生活や意見も知り、警察の事件というものを学んでゆくのである。

もちろん、警察官たちとも親しくなる。これがニュース・ソースである。若い刑事もやがては昇任し、記者がヴェテランになってゆくころには、彼らも重要な地位を占めてくるのである。

私は文章のケイコにもと思って、サツ廻りの間中、毎日必らず一本の「いずみ」を提稿した。

「いずみ」というのは、社会面の一番下にある、小さなゴシップ欄である。この欄では、どんな大きな話も冗文は許されない。それこそ、サンショは小粒でも、あるいは寸鉄ともいうべき、文

章が要求される。

そして、この欄には一本百円の取材費がついている。「いずみ」には、それらしいニュース・ヴァリューがある。これがなければ、どんな小話を持ってきてもダメである。

デカたちは、大事件のニュース・ヴァリューは、やはり判る。しかし、「いずみ」のそれは判りっこないのだ。だから、このネタを探すとなると、デカたちとの雑談しかない。その雑談の中で、ピカリと光るネタ、これを毎日一本みつけるということは、確かに大変な努力である。

しかも、折角、提稿しても、よそからもっと面白いネタがきていればボツだ。同じ程度なら、文章で採否がきまる。それこそ、原稿の練習にはもってこいの場である。

私がこの「いずみ」を送稿すると、読売第一の名文家を謳われた、現娯楽よみうり編集長の羽中田誠次長が、講評してくれる。そして最後は、「大きな原稿も書けよ」だった。しかし、私の最高記録は一月で八本、三十本も提稿して八本載ったのが限度であったが、そのうちの二、三本は、必らず記事審査委の日報でほめられていた。

新聞記者の能力は、取材力と表現力とが車の両輪のようなものだと、前に述べた。だが、現実の新聞記者で、そのような能力のある人というは、二、三割がいいところだ。

最後の事件記者 p.098-099 原稿が書けない奴が多い

最後の事件記者 p.098-099 「どうだ。この雑誌に原稿を書いてみないか」と、私がすすめたのだが、そんなことに時間を費すよりは、マージャンでもしていた方が良いというのだ。
最後の事件記者 p.098-099 「どうだ。この雑誌に原稿を書いてみないか」と、私がすすめたのだが、そんなことに時間を費すよりは、マージャンでもしていた方が良いというのだ。

昔の記者は分業であった。着物を尻端しょりにしたのか、ハンテン、モモ引で、鳥打帽子の〝探訪〟が取材してくると、社に待ち構えている〝戯作者〟が、矢立の筆を取って、探訪の話を聞きながら、サラサラと美文調にまとめるのだ。記者がタネ取りとさげすまれた時代だ。

これで、果して、新聞は真実を伝え得るだろうか。当然、このような状態は打破されなければならない。しかし、私の先輩たちにも、このような表現力か取材力を欠いた人たちがいた。「何某さんが、原稿書いたのを見たことがあるかい?」後輩たちのこんなニクマレ口が自然に出てくるのだ。

メッセンジャー記者?

そして、それは現在にも引きつがれている。どんな能力も、日頃の錬磨なしにはのび得ない。取材力も表現力も、月月火水木金金あるのみである。だが、今の記者諸君の多くは、それを怠っている。その理由は、(そんな努力をしたって)ひき合わない、ということである。

実際に、今はひきあわないことは確かである。社会秩序は安定し、動乱はのぞむべくもない。動乱の時こそ、社会部ダネが労せずして転がっているからであろう。

如何に新聞記者に、原稿が書けない奴が多いか、ということは、週刊誌はじめ、記者がサイドワークの原稿を書き得る雑誌の、編集者が一番良く知っているに違いない。

さきごろ、四、五人のサツ廻りの記者たちと一パイのビールをのんだ。「どうだ。この雑誌に原稿を書いてみないか」と、私がすすめたのだが、一人を除いて皆イヤだという。そんなことに時間を費すよりは、マージャンでもしていた方が良いというのだ。

また、ある事件を調べようと思って、その警察に出かけていったことがある。折よく、その署の担当記者に出会ったので、まず彼に聞いてみると、彼は知らない。すると彼は他社の記者から取材しようとした。

ところが、その記者も他社の記者のメモを借りて、それで社へ送稿したとみえて、その記者も知らない。やむなくその記者は、私を連れて、捜査主任のもとへ行ったが、その捜査主任の名前もよく知らない始末だ。サツ廻りが捜査主任と、オースという仲でなくて、何のサツ廻りであろうか。

これは九牛の一毛であるのかもしれないが、若い記者の多くが、このように、不勉強で、しかも、努力をしようとしないのだから、新聞がつまらなくなるのも当然である。やがては、表現力 も取材力もない記者、官庁の発表文を伝えるだけの、メッセンジャー記者時代になるのだろう。

赤い広場ー霞ヶ関 p.196-197 私の立場でいえない部分がある

赤い広場ー霞ヶ関 p.196-197 Ikuo Shimizu's father was a very important person leading to the Soviet Union. Only he among the nine comrades survived. Now, Ikuo Shimizu may be operating a famous politician.
赤い広場ー霞ヶ関 p.196-197 Ikuo Shimizu’s father was a very important person leading to the Soviet Union. Only he among the nine comrades survived. Now, Ikuo Shimizu may be operating a famous politician.

本人の語る経歴は、ハルビン学院卒、満州石塔の幹候隊在隊中、軍曹で終戦となった幹候十

三期生、ウォロシロフ付近の炭坑作業の収容所にいて、二十二年四月に引揚げてきたという。

私が調べてみたところでは、二十二年四月の引揚船の乗客名簿には、彼の名前が見当らなかった。

私はまた治安当局の係官に確かめてみた。

『本人は否定するけど、音羽に行ったのは本当に奴なのかい?』

『もちろん、間違いない。あの男なら、わしの方で前から調べていた男なんだ。大田区に住む清水郁夫に間違いないよ』

『しかし、それは奴の本名かい? 戸籍上の名前かい? 奥さんの品は良いし、子供もマトモな顏をしているし、どうみても、あんな裏長屋に住む人種ではないぜ』

『……。実はそこまでやってないンだ』

『何故、何故だい。本人が清水と称し、表札が出ていて、米の配給通帳が清水だからといって戸籍上の名前とは限らンだろう?』

『ウン、そうなんだ。……実は、本籍地照会をやろうとしたら、上の方で、しなくても良いッていうンだよ。内密だけど……』

『フーン。すると、ずっと上の方では、奴が何者だか分ったわけだナ!』

私はその係官と別れて、いわゆる〝治安当局のアナリスト〟に会った。

彼はいう。

『これは、発表されてもらいたくない部分もある話なんだ。しかし〝奇怪な三人〟がいたということまで調べられたのでは、参った。実はあの清水の父親は、大変なエライ(という意味は、社会的地位や名誉ではなく)人だったンだ。ソ連にカンのある人だ。彼の父だけが、同志九名のうちで生残ったのだ。

莫然とした話だが、私の立場でいえない部分がある。眼光紙背に徹して、声なき声も聞いてくれョ。

だから、清水郁夫に、ハバロフスク帰りだという噂も出たのだ。ともかく、彼の父の立場を受継いだ清水だから、ああいうこともできるのだ。

係官に、彼の黒幕に有名な政治家がいる、と聞かなかったかい? それが、果して彼の黒幕なのか、或はその政治家の方が彼の手先なのかも知らンよ』

本人に父親や戸籍のことをたずねた。

『先日亡くなった母は、鹿児島にいました。もちろん、戸籍上も清水郁夫ですよ。父は大陸で働いていて、引揚げてきて亡くなりました』

黒幕とみられている有名政治家が、実は彼の手先なのだッて? では一体……

赤い広場ー霞ヶ関 p.198-199 「第二、第三の男は?」

赤い広場ー霞ヶ関 p.198-199 When I abandoned further research, the analyst told me. “It ’s better not to touch it. You also have a wife and a child ... ”At that moment, a terrible ran through my spine.
赤い広場ー霞ヶ関 p.198-199 When I abandoned further research, the analyst told me. “It’s better not to touch it. You also have a wife and a child…” At that moment, a terrible ran through my spine.

『先日亡くなった母は、鹿児島にいました。もちろん、戸籍上も清水郁夫ですよ。父は大陸で働いていて、引揚げてきて亡くなりました』

黒幕とみられている有名政治家が、実は彼の手先なのだッて? では一体……

私は再びアナリストに会った。

『第二、第三の男は?』

『第三の男、これは、鳩山、ドム会談に立会っているはずだ。この男も自称清水というンだ。しかし、本名は頭文字Oで、某政党の大立物S氏の関係者らしい』

『そのOとかSとかの本名は?』

『それはいえない。第二の男、ド氏を裏玄関へ案内した男、この男の正体は、いまもって分らないンだ……』

『前にアタった当局の係官は、清水郁夫の身許を、トコトンまで調べないうちに、上から止められたといっていたが、これはどうしてなンだい? S氏の線かね?』

『それは、わしにも分らない。きっとズットズット上の方で、納得がいっているからだろう。役人は上のいうことは、何でもきかなきゃいけないからネ、服務規律にそう書いてあるヨ』

もはや、これ以上は私には調べられなかった。もちろん、訊ねてみたって、国警長官も警視総監も、正直に打明けてはくれない。或は、彼らだって、そのワケは知らないかもしれない。警察は法律の執行体であって、政治家ではないのだから……。

ともかく、私の得た結論では、この鳩山邸の〝奇怪な三人〟については、なみなみならぬ高等政治によって、登場させられてきた男たちだということであった。

私がこれ以上、〝奇怪な三人〟について調べることを断念したとき、口籠ってばかりいた例のアナリストは、ホッとしたような表情で、私にいった。

『よかったですナ。アレはさわらん方がいいですよ。貴方も、奥さんや子供さんがいるンだから……』

私は、瞬間、〝恐怖〟が稲妻のように、背骨を走り抜けたように感じた。

『エッ!』

ニコヤカに微笑んだつもりだったが、顔の筋肉は醜く硬張っていたらしい。

四 日本の〝夜の首相〟と博愛王国

日ソ交渉が具体的に動きはじめた、二十九年十二月から、二、三ヶ月前のことだった。

当時まだ警視庁記者クラブ詰だった私は、ある日女性の電話に呼び出された。

『実は、Q氏(米人)に関してお話を承わりたいのですが、御都合如何でございましょう』

第一回菊池寬賞を受けてから、「東京租界モノ」は読売の専売特許であった。この女性は、読売本社に電話して、それならば警視庁クラブの三田記者に聞けと教えられ、今、こうして私

を呼び出したのであった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.200-201 この女は逃さないぞ!

赤い広場ー霞ヶ関 p.200-201 An elegant woman about 27 or 8 years old visited me at the Metropolitan Police Department's kisha club. She wants me to provide information about an American.
赤い広場ー霞ヶ関 p.200-201 An elegant woman about 27 or 8 years old visited me at the Metropolitan Police Department’s kisha club. She wants me to provide information about an American.

この女性は、読売本社に電話して、それならば警視庁クラブの三田記者に聞けと教えられ、今、こうして私

を呼び出したのであった。

落着いた、慎しみ深いその話振りから、年配は二十七、八才と察しられた。そして、極めて礼儀正しい口調なのであるが、電話を切り終ってから気付いたことは、彼女は電話の礼儀である自分の名を名乗っていないということであった。

Q氏という(まだしばらくの間、仮名で呼んでおこう)米国人のことを、もっと詳細に知りたいという話なので『電話ではナンですから、クラブに訪ねていらっしゃい』といって、その電話を終った。

約一時間後、私はせまくるしいクラブの応接室で、彼女と相対していた。

『初めまして……。先ほどお伺いいたしましたこと、如何でございましょう』

私のカンはたがわず、ほっそりとした、二十七、八才の女性だった。慎重な、落着いた口の利きかた、礼儀正しい動作、いかにも教養のありそうな、理智美があふれていた。

化粧、服装、所持品、素早く一べつをくれた私は『初めまして……』の次に、自ら姓名を名乗らない彼女が、如何なる女性であろうかと、考えていた。

『わざわざお出を頂いて、私、三田です』

私は、反応をみるため、逆に改めて名乗った。彼女はモジモジとした。

『私、名前も申上げませんで……。甚だ勝手ですが、チョット事情がございまして……』

偽名を準備してこない点が気に入った。

——これは意外に面白くなりそうだ!

私は快活に笑った。

『イエ、構いません。その中、御都合が良ければ伺いましょう。で、Q氏のことですが、あれからすぐ社の資料部へ問合せまして、Q氏に関する新聞記事の切抜きを、集めておいてもらうよう、頼んでおきました。もうおっつけ返事が来るでしょうから、しばらくお待ち下さい』

——この女は逃さないぞ!

私はそう考えながら、彼女の正体をカギだす雑談をするため、時間を稼ごうと思って、ウソをついたのだった。

雑談の合間に私の質問が自然に織りこまれていた。こうして、約三、四十分。大丈夫もう一度逢ってくれるという、自信を得た私は『チョット、失礼』と席を外して、電話をかける振りをして、再びもどってくる。

『資料部に聞いてみましたら、その切抜きが倉庫に入ってるそうで、明日まで待ってくれとのことですが、宜しいですか?』

赤い広場ー霞ヶ関 p.202-203 彼女はフリーメーソンにいた!

赤い広場ー霞ヶ関 p.202-203 I checked the owner of this phone. "Masonic Building, 1 Shiba-Sakaecho, Minato-ku." The former imperial navy officer club, Suikosha became the headquarters of Freemasonry after the war and was called Masonic Building. ——She was at Freemasonry!
赤い広場ー霞ヶ関 p.202-203 I checked the owner of this phone. “Masonic Building, 1 Shiba-Sakaecho, Minato-ku.” The former imperial navy officer club, Suikosha became the headquarters of Freemasonry after the war and was called Masonic Building. ——She was at Freemasonry!

これで私と彼女の第一回は終った。結論として彼女はQ氏も含めた外人のグループに関係しており、相当地位の人の秘書役らしいこと。そして、彼女の主人格の人のうちの一人は、Q氏と対立的立場にあり、あまり気の進まない彼女に、Q氏にとって不利な資料の収集を命じたが、彼女はその争いにまきこまれたくないらしいこと、などが判った。

ランデヴーは、翌日午後四時半、日比谷のラストヴォロフ氏もよく利用した、高級喫茶店と決った。

奇妙な逢曳だった。しかし、アヴェックの多い喫茶店での話だけに、前日よりは大分話がホグされてきた。私は時々、新聞記者の職業意識を丸出しにして、無遠慮な質問を浴せてみた。彼女は、悲しそうな表清で、私を押えていった。

『お願いだから、そんなことをお聞きにならないで……。申上げられれば、申上げますから』

『ハイ、ハイ。ごめんなさい』

私はふざけてみせて、笑った。

その日、私はQ氏の関係先が、警察当局のお手入れをうけた記事を二、三枚持っていって、まだこれしか見つからないといった。そして、次のランデヴーの約朿をした。

私はあせらなかった。ましてや、尾行をするなどという、拙策は考えなかった。もしそのよ

うな背信行為を気付かれたら、一切が終りだからだ。

三回目の逢曳で、私は提案した。

『ネ、良い友だちになろうぢゃありませんか? 友人として付合って下さいョ』

『エエ、いいですわ。ただし、私の立場について、質問はもちろん、記者的な一切の関心を持たないという、約束さえ守って下されば……』

『いいですよ。是非お願いします』

こうして何回かの逢曳がつづけられているうちに、私はついに彼女の身許を割りだした。ある日、彼女が自分の事務所に電話するとき、そのダイヤル数字を読み取ったのである。

私は飛び立つ思いで、この電話の所有者を調べてみた。港区芝栄町一、マソニック・ビル

元帝国海軍の将校クラブであったこの水交社は、戦後フリー・メーソンの本拠となって、マソニック・ビルと呼ばれていた。

——彼女はフリー・メーソンにいた!

これで一切が読めた。Q氏もまた、メーソンの三十二階級という高位にある。Q氏の悪事を調べるということは、極東支部の幹部間に内紛があるということだ。

Q氏は米軍の軍曹で、現地除隊をして日本に住みついてから、メーソンに入り異例の出世で 三十二階級まで上っていった人物だ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.204-205 今日限りで何もかもお終いです

赤い広場ー霞ヶ関 p.204-205 I wanted to know what caused this Masonic executive conflict. This is a serious problem. Now, on the earth divided into two worlds, liberalism, communism, and the ties that connect them are Jewish Freemasonry.
赤い広場ー霞ヶ関 p.204-205 I wanted to know what caused this Masonic executive conflict. This is a serious problem. Now, on the earth divided into two worlds, liberalism, communism, and the ties that connect them are Jewish Freemasonry.

Q氏は米軍の軍曹で、現地除隊をして日本に住みついてから、メーソンに入り異例の出世で

三十二階級まで上っていった人物だ。しかし、いろいろと問題の多い人で、彼の出世を快く思わぬ他の幹部が、彼を蹴落すための資料に違いない。

しかも、東京租界はクラブ・マンダリンの国際バクチでお馴染みの、マニラのギャンブル・ボス、テッド・ルーイン氏の一の子分、モーリス・リプトン氏もメーソンで、このマソニック・ビルに住んでいたではないか。

私はこのメーソンの幹部の対立が、何に原因するのか知りたかった。重大な問題であるからだ。今、自由、共産と二つの世界に分れた地球上で、思想も政治も、国境も国籍も越えて結ぶ紐帯は、ユダヤのフリー・メーソンであるからだ。まず第一報として、渋谷のフォーリン・ビジネスメンズ・クラブの国際バクチの、公判の成行にひっかけて、Q氏行状記の記事を書いたのだった。

続いて、この背後にあるメーソン幹部の対立を取上げようとして、忙しく働らいていたある日、珍らしく彼女から電話があった。夕食を御一緒にしたい、という話だった。願ったり、叶ったりである。

その夕べ、私は彼女と二人で銀座のある地下室の、高級レストランで、たのしい夕食をとっていた。

彼女の招待だから、食事が終ったら、別の場所へ誘って、ゆっくり話をきこうと考えながら、それでも、

『Q氏の記事、みた?』

と、親し気な口調でたずねたりした。

デザートが終り、コーヒーをほして、サテと立上った。御馳走様と礼をのべて、誘ひの言葉を続けようとしたとき、彼女は、犯し難いほど、重々しい気品にみちた表情に変った。

『やっぱり、私たちは、お友だちになれませんでしたワ。……ネ、今日限りで、何もかもお終いです』

『エ? だって……』

『何にも仰言らないで…。貴方に何も彼もお話してあげたい。貴方のその喉元まで、何故、何故、何故という声が、いっぱいに詰っているのが、眼に見えるのです……。

しかし、私にはそれができません。そして、私も、貴方とお別れしなければなりません。新聞記者でありすぎる貴方と、メーソンの幹部のことを知りすぎている私とは、お友だちでいることさえ、おたがいにとって不幸なのです』

私は立ちすくんだまま、彼女の差出した別れの握手に応えていた。

『それから、Q氏のことはもう不用です。御手数をかけました。……では、サヨウナラ』

赤い広場ー霞ヶ関 p.206-207 鳩山首相がフリーメーソンで特進

赤い広場ー霞ヶ関 p.206-207 This Masonic story did not seem so important at the time, but it appeared before me when the negotiations between Japan and the Soviet Union started.
赤い広場ー霞ヶ関 p.206-207 This Masonic story did not seem so important at the time, but it appeared before me when the negotiations between Japan and the Soviet Union started.

私は立ちすくんだまま、彼女の差出した別れの握手に応えていた。

『それから、Q氏のことはもう不用です。御手数をかけました。……では、サヨウナラ』

こうして、彼女は去っていった。妖しいナゾに包まれた出現であり、凍るような威圧を示した別離であった。僅か二、三週間、私はそれ以後、彼女に逢っていない。

このフリー・メーソンの物語は、当時はそれほど重要なこととも思えなかったが、日ソ交渉が始まってみて、ハタと思い当らせられることとなって、私の前に現れてきたのであった。

三十年三月二十六日の各紙夕刊は、鳩山首相がフリー・メーソンで二階級特進したことを、写真入りで報じている。一番詳しい産経の記事を引用しよう。

二十六日あさ東京音羽の鳩山首相邸に、ハル国連軍司令官、オシアス元比国上院議長、小松隆日米協会長、ヒメネズ、ヴェネズエラ公使など、内外の知名人が紫、緑など色とりどりの肩掛けや、前掛けをつけて風変りな儀式が行われた。

これは世界に六百万人の会員をようする友愛団体フリー・メーソンから、クリスチャンであり、同会の日本支部会員である鳩山さんに、二階級特進のマスター・メーソンの称号を贈ったもの。

この日のため、わざわざオシアス元上院議長ら、五人の比国支部役員が来日、白い羊皮の前掛けをしめて、鳩山さんもいささか照れくさそうだったが、早くも同邸にはトルーマン前大統領ら、世界の有名人からひっきりなしに祝電が舞いこんでいた。

そして、またもう一つは、フィリピン付近に現れた「博愛王国」のニュースである。これについては、週刊朝日七月三日号が詳しく伝えているので、それを引用する。

「ヒューマニティ王国」というのが、フィリッピンのパラワン島沖に出現して、夏の話題をにぎわしている。ほんとにあるのだろうか、それともウソなのだろうか。

一通の奇妙な手紙が、とびこんだところから、この話は始まる。「日本帝国市民ジョージ・笠井重治氏を、ヒューマニティ王国連邦の、日本駐在総領事に任命する。この地位は、国際的に領事が持つと同様の特権を、日本に対して持つものである。

一九五五年五月二十七日

ヒューマニティ王国連邦国王 ウィリス・アルヴァ・ライアント

同国外務長官 ヴィクター・L・アンダーソン

発信地はフィリピンの首府マニラ郵便局の私書函、この手紙に丸い金色のシールがはりつけられている。シールのふちにはグルリと、こんな文章を刻んであるのが読みとれる。

East is west and west is east and I am the twain that will make it so.

(東は西、西は東、われこそはそれを結ばんとする二なるもの)

文学にくわしい人なら、この文章が、英国の詩人キップリングの有名なことばを、うらがえしたものだと気付くだろう。

East is east, and west is west, and never the twain shall meet.

(東は東、西は西、二つはついに相見ゆることあらじ)

赤い広場ー霞ヶ関 p.208-209 鳩山、オシアス、笠井、シャタック

赤い広場ー霞ヶ関 p.208-209 Osias, who had promoted Hatoyama to the Masonic third class, asked Juji Kasai to become the Consul General. He also asked Kasai's acquaintance, Al Shattuck to become a consul. Everyone is a freemason.
赤い広場ー霞ヶ関 p.208-209 Osias, who had promoted Hatoyama to the Masonic third class, asked Juji Kasai to become the Consul General. He also asked Kasai’s acquaintance, Al Shattuck to become a consul. Everyone is a freemason.

East is west and west is east and I am the twain that will make it so.

(東は西、西は東、われこそはそれを結ばんとする二なるもの)

文学にくわしい人なら、この文章が、英国の詩人キップリングの有名なことばを、うらがえしたものだと気付くだろう。

East is east, and west is west, and never the twain shall meet.

(東は東、西は西、二つはついに相見ゆることあらじ)

この手紙の受取り人、笠井重治氏は、戦前山梨県選出の代議士で、戦後は当選一回、落選三回、現在は民主党に属し、フィリピン友の会理事である。

笠井氏は今年四月、オシアス氏が来日したとき、フィリピンのパラワン群島の西方、南支那海の小島に、Kingdom of Humanity(ヒューマニティ王国)と名乗る国があり、日本との国交を望んでいる。君、一つ領事になってくれないかといわれた。オシアス氏だけに、私も引き受けることにした。

オシアス氏が、今年四月に来日したのは、オシアス氏が所属するフリーメーソンの第三階級を、鳩山首相に授けるためだった。

フリーメーソンとは、国際的な半宗教団体で、日本でも戦後に支部が結成され、前参院議長佐藤尚

武、元王族李垠、日米協会長小松隆氏、それに笠井氏など約五十人がメンバーとなっている。オシアス氏は、フリーメーソンの中での最高位である三十三階級を持ち、笠井氏はこれに次ぐ三十二階級だという。オシアス氏は、日本へ来る前に、すでに「ヒューマニティ王国」の、フィリピン駐在名誉公使を引受けており、フリーメーソンの関係で親しかった笠井氏に総領事を、同じく笠井氏の知人で、保険業を営んでいる米人アル・シャタック氏に領事を依頼した。

そしてもう一つは、六月十四日午後、大挙羽田へ降り立ったMRA(道徳再武装運動)国際使

節団の一行である。一行はアメリカのミシガン州で行われた、MRA世界大会に出席したあと、アジヤ、中近東諸国を親善訪問のため来日したもので、風刺劇〝消えゆく島〟を東京で三日間、大阪で二日間公演したのち、二十二日台湾へ向った。

これについて、六月十七日付朝日の「素描」欄は、次の通り述べている。

MRAの一行二十数ヶ国民百八十名がやってきて、〝大デモ〟をやっている。デモ祭典の中心は「消えゆく島」上演で、これは東の勤労者独才国と、西の民主国のいがみ合いから融和への、政情風刺のコミック・オペレッタだが、なかなかよくできている。

目先が変っているので、見ていてつりこまれる。そこが〝目的〟でもあろうが、これまでの宗教にも、政治にもないデモの様式である。最も国際的で近代的に大衆に訴える力がひそんでいる。

東京公演がすむと、大阪、そして中近東までいくという。それにしても、入場無料で上演しまくる。

このメムバーの資金やヒマは、どこから出るのだろう。貧乏な日本人にはちょっと気になる。

このような現象をどう眺めるか。その一つ一つをみれば、いずれもまっとうな話で、少しも不思議ではない。しかし、私はこれらの現象を、シネラマ風に眺めてみたい。

第一に「博愛王国」の話である。笠井氏の総領事と同時に、その知人の保険代理業R・シャタック氏が領事に任命されたという。

R・シャタック氏について語ろう。氏は冒頭に述べた仮名のQ氏その人である。氏については、二十九年九月十五日付読売の記事を引用しよう。