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新宿慕情 p.052-053 支社長の吉川さんが酒を呑まないし魚と肉のアレルギーという人物

新宿慕情 p.052-053 関西風のナンデモ屋がキライだ、と書いた。大阪でナニかを食べようとしたら、私はホテルのレストランしかえらばない。
新宿慕情 p.052-053 関西風のナンデモ屋がキライだ、と書いた。大阪でナニかを食べようとしたら、私はホテルのレストランしかえらばない。

カミさんとて、そうそう、取り替えられるものではない。ということは、別に、道徳的な理由からではない。

料理である。食べ物の味である——子供の時の、オフクロの味から、おとなになるに従って〈自分の味〉を持つようになるのが当然だ。

この〈自分の家の味〉を、カミさんに仕こむのが、ひと仕事なのである。

焼きもの、イタメものは、一年かそこらで教えられても、煮ものとなると、三年、五年。日常生活の、「オイ、アレ!」というので、十年ほど。

マクドナルドやケンタッキーから、ブロイラーのトリチュウのたぐい。インスタントに冷凍もどし。〝焼くだけ〟のパック食品などで育った、いま時の若夫婦に、離婚の多いのもうなずけよう。

コーヒーの味と洋食屋——新宿と古女房とから、離れられないのも、〝慕情〟のたぐいなのでしょう。

ブロイラー対〝箱娘〟

大阪はピンとキリ

関西風のナンデモ屋がキライだ、と、書いた。

例えば、梅田のあの地下街。そのほとんどが、食べ物屋なのに驚く。そして、店の名前が違うだけで、メニューはほとんど同じ。さらに、マズかろう、高かろう……なのだ。

スパゲティ何百円、とか、値段そのものは、特に、高いというわけではない。しかし、味からいって、高いと感ずる。

地上に出て、曾根崎あたりのアーケードも同じことだ。地下の小間割りと、まったく同じである。表通りの店も、横丁の店も、そして、ミナミに行っても……。

大阪で、ナニかを食べようとしたら、私は、ホテルのレストランしかえらばない。

招待されて、吉兆あたりで、ホンマモンの関西料理を頂くのなら、これは結構だ。

さんぬる年のエベツさんの日に、帝塚山の大屋晋三氏邸に、大阪読売やよみうりテレビのエライさんたちに、お相伴にあずかったことがある。

新邸の和風大食堂に、吉兆が出張してきていた。……と、金箔の浮いたお吸物が出た。

御堂筋から入ったお店のほうにも行ったことがある。秋だったので、中秋の名月を型どった前菜が出た。横笛を模した細竹の器に、感嘆したものだった。

大阪支社があるので、チョイチョイ、大阪には出張する。しかし、支社長の吉川さんが、酒を呑まないし、魚と肉のアレルギーという人物なので、よけいに、大阪では〝味〟不案内だ。ネオン街とて、自分で開拓せねばならない。

支社の近くにも、旨いコーヒーを飲ませる店もある。すると隣のテーブルで、ヤキ肉ライスを

食われるのだから、参ってしまうのだ。

新宿慕情 p.054-055 新宿西口あたりが梅田地下街に感じが似ている

新宿慕情 p.054-055 テレビで宣伝された、マスプロの同じものを着、同じオモチャで遊び、同じマスプロ食品で育つ、いまの子供たち――恐ろしいことではないか。
新宿慕情 p.054-055 テレビで宣伝された、マスプロの同じものを着、同じオモチャで遊び、同じマスプロ食品で育つ、いまの子供たち――恐ろしいことではないか。

支社の近くにも、旨いコーヒーを飲ませる店もある。すると隣のテーブルで、ヤキ肉ライスを

食われるのだから、参ってしまうのだ。

だから、どうやら、大阪というところは、ホテル以外では、ピンとキリしかないみたい。そんな印象である。ナニが〝食いだおれ〟か、と思う。

大阪のことを書くべき原稿ではないのだが、もうひとつ、書かないではいられない。フト、思い出したからだ。

ロイヤルホテルの地階に、なかのしま、という、和食ゾーンがある。前々から、ホテルのことばかりホメているのだが、ここの竹葉亭のうなぎなど、東京の竹葉亭もそれほどではないがヒドイもんだ。

天ぷら、すし。いずれも、値段の割にオソマツである。

西口はキリばかり

話を新宿にもどそう。

梅田の地下街をイントロに書き出したのは、西口あたりが、梅田と、感じが似ていることをいいたかったのである。

そして、食べ物屋のすべてが梅田地下街を、そっくり移してきた感じである。

新聞の紙面が画一的だ、といわれて久しい。そればかりか、大都市の構造も画一的だし、食べ物屋の造りも、メニューも、味も、そうである。

これでは、政府とて、〈国民総背番号制〉にでもしなければと、考えつくのも当然である。

テレビで宣伝された、マスプロの同じものを着、同じオモチャで遊び、同じマスプロ食品で育つ、いまの子供たち——恐ろしいことではないか。

つまり、ウチの社でも、若い連中を使ってみるが、彼らは、常に〝与えられ〟つづけてばかりなので、いつも〈受け手〉であって、決して、〈送り手〉になろうとしない。

新聞記者を志したり、新聞社で働こう、というのに、〈受け手〉の意識しかないのだから、困ってしまう……。

その証拠は、あの新宿の飲食店が、いつも満員で、それぞれに繁昌していることでも、明らかである。

洋食は、「ハンバーグに始まって、ハンバーガーに終わる」という。

成長してゆく子供たちの、食生活の歴史を眺めてみると、中学生では、喫茶店に入っても、クリームソーダだが、高校生になると、ようやく、コーヒーへと進む。レストランでいうと、小学高学年までは、お子様ランチやスパゲティ、カレーライスでも、中学生になると、ハンバーグとなるから、不思議だ。

一、二年前ごろ。マクドナルドのハンバーグには、ネコの肉が使われている、というデマが流行ったことがあった。

「アルバイトに行ってて、禁止されていた冷蔵庫のドアをあけたら、ネコがいっぱいあった」な

どと、マコトしやかな〝噂〟が流され、新聞社などにも、電話のタレコミが相次いだ。

新宿慕情 p.056-057 生まれ落ちると同時にそのように育てられている

新宿慕情 p.056-057 無批判・大勢順応精神しかない。巣鴨のトゲヌキ地蔵の縁日などの見世物にあった〝箱娘〟みたいなものだ。生まれてすぐミカン箱などに入れて育てる。
新宿慕情 p.056-057 無批判・大勢順応精神しかない。巣鴨のトゲヌキ地蔵の縁日などの見世物にあった〝箱娘〟みたいなものだ。生まれてすぐミカン箱などに入れて育てる。

一、二年前ごろ。マクドナルドのハンバーグには、ネコの肉が使われている、というデマが流行ったことがあった。
「アルバイトに行ってて、禁止されていた冷蔵庫のドアをあけたら、ネコがいっぱいあった」な

どと、マコトしやかな〝噂〟が流され、新聞社などにも、電話のタレコミが相次いだ。

ウチの社にも、そんな話がもたらされたりしたものだったが、マトモな味覚であれば、あの立ち食いハンバーグなど、食えたものではない。

いま、一番小遣銭が豊富だといわれるのがヤング。そこで、ヤングを狙え、の商戦が展開されるのだが、これが、いま述べたように、〈受け手〉専門の無批判・大勢順応精神しかないのだから、〈選択〉能力がない。

ハンバーグなら、ドコ。スパゲティなら、アソコ——こういう自己主張がない。無理もない。生まれ落ちると同時に、そのように育てられているのだ。

むかし、巣鴨のトゲヌキ地蔵の縁日などの見世物にあった、〝箱娘〟みたいなものだ。

生まれてすぐ、ミカン箱などに入れて育てる。中国のテン足も、そのタグイで、足を布で強く縛ったまま育てるのだから、上体は成長しても、クルブシから下は発育不全である。ヨチヨチ歩きしかできない。

このテン足の風習は、女性に限られていた。成人しても労働には向かない。愛玩物としての性的女性、また、逃走させないためのもの、と、いわれる。

同じように、木箱の中で育てれば四角い人間ができてしまう。すべてに発育不全な〝因果者〟なのだが、座ったりすると四角になるから、見世物になるわけだ。

大衆食品の戦後派

スパゲティが、大衆食品になったのは、戦後であって、戦前は、マカロニもグラタンに使う程度。スパゲティも、洋食のつけ合わせに用いられるぐらいだった。これらを、占領軍が流行らせたのだろう。

そして、同じように、ラーメン、ギョーザを大陸から復員したり、引き揚げてきた人たちが主食のうちに加えてしまったのだ。

私が、ハンバーグから始まって、エビフライに進んだ中学生のころ、つけ合わせのスパゲティから、炒めウドンを思いついた。ウチの兄弟たちは、戦前からすでに、朝食にはパンを採用して、キャベツの炒めたのや、残り御飯を炒めたりして、それをつけ合わせにする、といった献立を考え、母親に〝強要〟していた。

(写真キャプション)新宿西口の地下商店街は、大阪の梅田に似ている

新宿慕情 p.058-059 前にもクドクド書いたように

新宿慕情 p.058-059 いま時の連中は、「ハンバーグですよ」と与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。
新宿慕情 p.058-059 いま時の連中は、「ハンバーグですよ」と与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。

私が、ハンバーグから始まって、エビフライに進んだ中学生のころ、つけ合わせのスパゲティから、炒めウドンを思いついた。ウチの兄弟たちは、戦前からすでに、朝食にはパンを採用して、キャベツの炒めたのや、残り御飯を炒めたりして、それをつけ合わせにする、といった献立を考え、母親に〝強要〟していた。

当時、目白に住んでいたのだが、池袋との間に、東京パンの工場があったり、付近に、大陸帰りの人がいて、〈労研饅頭〉という名前で、中国のマントオと同じものを製造販売していたことも、朝食に、パンやマントオ(軍隊時代にも、その感激を再現したものだが、バターをつけて食うと、実に美味い)が登場するキッカケのひとつだったろう。

いまでこそ、スナックなどで、焼きうどん、などというメニューのところがあるが、油が良くないし、具が多すぎたりする。ことに、キャベツの骨まで、プツ切りにして入れたりするから、〝愛情〟に欠ける。

私などは、炒めうどんから、素麺炒めへと進んでいる。うどんにせよ、そうめんにせよ、炒めるとなると、茹で方がむずかしく、過ぎても及ばなくても、味が落ちる。

このように、創意工夫があって、はじめて〈送り手〉になれるのであって、それがなければ〈受け手〉に甘んじているしかない。それにしても、いまの若い人たちは、あまりにも、なんでも〝与えられ〟ることに、馴れすぎている。

これでは、養殖のうなぎやハマチ。ブロイラーのように、単なる〝人糞製造器〟にすぎなくなる。ワビ、サビはもとより、味などとは縁遠く、デモや内ゲバや、〝強行採決〟の働きバチとしてしか、効用価値がなくなってしまうのではないか。われわれは、《人間》なんだ、ということを、忘れないでほしい。

〝のれん〟の味

銘柄の味覚の違い

こんなことがある。

ウチの女子社員に、「雪印のコンデンスミルクを買ってきてくれ」と、頼んだ。

徹夜で原稿書きをするのに、ドリップ・コーヒーをいれるのだが、あけ方になって、疲れてくると、やや甘いコーヒーが欲しくなる。そのための、コンデンスミルクなのだ。

その娘は、「ハイ」といって買ってきてくれた。包装のまま仕事部屋に置き、真夜中に、サテというので、紙包みを開いてみたら、ナント、森永のミルクである。

ハラが立ってしまって、もう原稿が進まない。やむなく、それを使ってみたが、味が違うのでおいしくない。

いま時の連中は、ハンバーグといって出されれば、自分の知識、体験から、「これはハンバーグらしくないナ」と、疑問を抱かない。前にも、クドクド書いたように、「ハンバーグですよ」と、与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。

新宿慕情 p.060-061 こんな連中にはモッタイないのだ

新宿慕情 p.060-061 やはり、私のフランチャイズは、東口、中央口。スパゲティを食べるなら、丸井横通りのミラノ。
新宿慕情 p.060-061 やはり、私のフランチャイズは、東口、中央口。スパゲティを食べるなら、丸井横通りのミラノ。

いま時の連中は、ハンバーグといって出されれば、自分の知識、体験から、「これはハンバーグらしくないナ」と、疑問を抱かない。前にも、クドクド書いたように、「ハンバーグですよ」と、与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。

マクドナルドのハンバーグも銀座の松屋通りの白亜のハンバーグも、ハンバーグである限り同じだ、という思考形式だ。

だから、わざわざ、銘柄を指定し、メモに書いて渡しても、コンデンスミルクとして買ってくる。

それなら、銘柄の違いは関係なくなる。ハンバーグ製造第二三一工場製、第八二工場製と同じという、全体主義国家の〝味覚〟である。新住居表示が地名のいわれや、いわくいんねんを無視して、ベンリ第一主義の画一性を重んじるのと同じ手口だ。

いまに、学校も、すべて、ナンバースクールになるだろうし、企業も、そうなるかも……。

明治時代に、第一銀行から始まって、第百何十何銀行とあったのだが、いま、このナンバーバンクが、いくつ残っているだろうか。

高等学校(旧制)も、二高、三高、四高と、ナンバーで呼ばれても、仙台、京都、金沢の……と、その土地柄と地名とが、ついてまわっていた。

私の中学(旧制)は、東京府立五中で、やはり、ナンバースクールだが、それぞれに地名が冠せられる。

私らの時代でさえ、府立九中などとなると、もう、程度が低いとして、バカにしたものだったが、戦争末期には、府立第十何中などと、ふえたようだ。しかし、小石川高校(新制)はむかしの五中、といわれるが、第十何中はいまの◯✕高校などとはいわない。

きまりの店と料理

コンデンスミルクだけではない。庶務の文房具係の娘は、ボールペンといえば、銘柄関係なしで、手当たり次第に、ボールペンを買う。

すると、ゼブラの替え芯は、他のメーカーに使えない、というムダができる。銘柄、つまりメーカー、つまり、店それぞれの〝味〟という認識がない。だから、こんな連中には、高かろう美味かろう、というのを食べさせても、ムダだと思う。モッタイないのだ。

「アラ、ジバンシーの石けん」

「ウワーッ、ヘルメスのネクタイじゃないですか」

そういう若い社員がいれば、惜しいナ、と思っても、ついつい呉れてしまう、というもの。お中元シーズンともなれば、やはり、〝違いのわかる〟相手でなければ、それこそ、〝豚に真珠〟である。

いやいや、まったく演説がつづいてしまった。……と、まあ、そんなわけで、同じ新宿でも、西口は、大阪のイミテーションだから、あまり、歩きもしなければ、出かけもしない。

洋食屋のいこい、一軒だけしか、まだ登場していないが、やはり、私のフランチャイズは、東口、中央口。駅のソバの丸井や、三越からこっちになる。

スパゲティを食べるなら、丸井横通りのミラノ。不愛想なオッサンが目障りだけど、やはりス

パゲティの専門店だけあって息が長い。

新宿慕情 p.062-063 ムースーローをオカズに

新宿慕情 p.062-063 ケーキなら、伊勢丹横の小鍛冶である。新宿では、小鍛冶のケーキ以上に美味いケーキには対面していない。
新宿慕情 p.062-063 ケーキなら、伊勢丹横の小鍛冶である。新宿では、小鍛冶のケーキ以上に美味いケーキには対面していない。

スパゲティを食べるなら、丸井横通りのミラノ。不愛想なオッサンが目障りだけど、やはりス

パゲティの専門店だけあって息が長い。

ここでは、いつも、ポークピカタを食べる。旨い。量もあって、よろしい。

決してひとりではいかない店というのもある。つまり、連れがいて、食べたいものの意見が合わない時は、三越のウラ、甲州街道に近いコメットだ。

ここは、和洋料理をともに出す。私の主義からは、キライなハズなのだが、コックと板前と〝才色兼備〟がいるものだから、とんかつもよければ、酢の物、茶わんむしも良し、といった感じなのだ。……残念ながら。

大衆てんぷらが食べたい時は、三越ウラといえば、船橋屋、つな八などを推す人が多いが、あれらは、やはり、値段に比べて味が落ちる。それよりも、三光町と三光町東の、ふたつの交差点にはさまれた、玄海の向かい側にある天春だ。

料理としての天ぷらではなくて、メシのオカズの天ぷら、と考えていただきたい。

ギョーザなら、もう、四、五年も行っていないので、自信にかけるウラミはあるが、やはり石の家。甲州街道寄り、靖国通り寄りのいずれも、家内と良く行ったものだった。

ギョーザとチャーメンと、ゴハンをひとつ。それに、ムースーロー(きくらげと肉とを、玉子で炒めとじしたもの)をオカズに、仲良く半分ずつ食べる。

この石の家のムースーローほどうまいムースーローには、まだ、出会ったことがない。

肉、きくらげ、玉子の、量の比率がドンピタなのであろう。炒めものは、火力、油、ナベの使

いこみ度、そして、材料の混合率でキマる、のだから……。

ケーキにだんごも

で、対象が飛ぶけれども、ケーキなら、伊勢丹横の小鍛冶である。

これまた、新宿では、小鍛冶のケーキ以上に美味いケーキには、まだ、対面していない。

だが、この店のカンバンが早いので、夜遅く、ケーキを食べたい時は、やむなく、区役所通りの、コージーコーナーだ。だが、こことて、〝次善〟とはいかず、二、三がなくて〝四番〟ぐらいだろうか。

そして、ついでに、東映横の追分だんご。だんごなら、ここに限る。アンコなどの種類やら甘さやら、目先を変えて、いろいろ出してはいるが、ともかくこの店のは、ダンゴそのものが上等だから。

むかしは、この店の幕之内弁当も良かった。新宿で、幕之内をたべたくなると(もっとも、幕之内弁当を出している店が少ないみたい)、必ず、追分だんごまできたものだが、二年ほど前に値上げしてからサッパリ。

材料もさることながら、味もダメで、値段と味とのバランスがくずれてしまった。

そこで、フト思いついて、伊勢丹の食堂へ行って、幕之内を発注してみたが、やはり、幻滅感を味わっただけだった。

新宿慕情 p.064-065 新宿にはうなぎ屋がない

新宿慕情 p.064-065 私の食べ歩きは、一店一品種。「いまナニが食べたいか」「ではあの店に行こう」となる。西口と歌舞伎町は、いっぺんこっきりのフリの客相手の浅草仲見世通りと同じ。
新宿慕情 p.064-065 私の食べ歩きは、一店一品種。「いまナニが食べたいか」「ではあの店に行こう」となる。西口と歌舞伎町は、いっぺんこっきりのフリの客相手の浅草仲見世通りと同じ。

そして残念なことに、うなぎ屋がないのだ。

うなぎほど、高い値段のクセに、味に甲乙がありすぎるものがない。区役所通りに、岡田家というのがさきごろ開店して、そのチラシが、社のポストに入っていた。

店に行ったことはなく、出前を頼むだけだから、いささか、正鵠を失するかも知れない。だがここの特上、千五百円のうな重と、築地の宮川本廛の、同額のうなぎ(汁、めし、おしんこがプラスされるから、厳密には、比較できない)とは、まさに、月とスッポンほど違う。

築地の宮川本廛(宮川、もしくは宮川本店、というのが、近くにあるが、ここは、築地署ウラになる)では、店に入って注文してから、まず、三十分は待たされる。

しかし、ここで、千五百円の蒲焼きを食ったら、まず、「アア、うなぎを食ったナ」と、よろこびに浸れることは、請け合いである。

では、日本料理は? とくると、いうまでもない。中央口のすぐそば。九階建てのビルの八階九階を使っている、京懐石の柿伝である。

お茶の作法を教わりながらの料理は、また、格別なもの。お客さんをしても良し。スタンドで一品でのんでも良し、と、推さざるを得ないが、まず、一万円以上につくことも確かだ。

と、こうして眺めてみると、思いつくままの、私の食べ歩きだが、一店一品種——つまり、おなかが空けば、「いま、自分はナニが食べたいのか」と、情勢分析をする。その結論に従って、「では、あの店に行こう」と、なるわけで、西口と歌舞伎町とがない。

いうなれば、西口と歌舞伎町とは、いっぺんこっきりのフリの客を相手にする、浅草仲見世通りの食べ物屋と、同じ精神だということになる。

ふりの客相手に

「フリー」は間違い

余談だが、週刊新潮誌七月三十一日号の「スナップ」欄に、歯医者の話があって、「フリーの客をしめ出すための……」というクダリがある。

新潮社版の『新潮国語辞典』一七二三ページに「ふり(振り)」の項がある。その七番目にはこうある。「①遊女などが客をきらうこと。②なじみでもなく約束もなく、遊女の客が突然来るもの」

〈フリーの客〉は、これでも明らかなように、〈ふりの客〉の誤りである。週刊新潮誌のために惜しめばこそ、ご注意を申しあげておこう。

さて、〝ふりの客〟などは、あまり立ち入らない一画が、我が正論新聞社のおひざ元だ。

花園神社の正門前に、明治通りをまたいで、大きな歩道橋がある。これを、〝中洲〟のような

花園まんじゅう店を越えて、対岸のかに谷・新宿店側におりると、通称医大通りである。

新宿慕情 p.066-067 お茶漬けの乃志菊、オデン屋の利佳

新宿慕情 p.066-067 コマ劇場通りとさくら通りの中間にあるオデン屋の利佳は、安藤リカさん。才気煥発の女史で、浅学菲才の私など足許にも寄せつけてもらえない。
新宿慕情 p.066-067 コマ劇場通りとさくら通りの中間にあるオデン屋の利佳は、安藤リカさん。才気煥発の女史で、浅学菲才の私など足許にも寄せつけてもらえない。

さて、〝ふりの客〟などは、あまり立ち入らない一画が、我が正論新聞社のおひざ元だ。
花園神社の正門前に、明治通りをまたいで、大きな歩道橋がある。これを、〝中洲〟のような

花園まんじゅう店を越えて、対岸のかに谷・新宿店側におりると、通称医大通りである。

市ヶ谷富久町の、ホテル本陣の自衛隊寄りの歩道橋へ抜ける通りなのだが、これが、三光町、花園町、番衆町、東大久保一丁目といった、群小アパート街を両側に控えて、いわば、新宿のベッド・タウンの目抜き通り。

それだけに、〈なじみ客〉相手の〝一流〟店が多い。カニのかに谷は、明治通り角だから、そちらに分類される。

カニならば、歌舞伎町のかに幸船本店にはかなわない。風林会館の四ツ角、明治通り寄りのかに幸船でも、まだ良い。かに谷は、いうなれば〝肉の万世〟と同じ種類のチェーン店だから、味も値段も、推して知るべし、なのである。

オット、いけねえ。歌舞伎町は〈ふりの客〉などといいながら、すでに、コージーコーナーをあげ、かに幸船本店まで登場してきた。

サービスのついでに、もう少し、何店か、推せんせざるを得まい。コマ劇場横通りに、コーヒーの蘭。いかにも、コーヒー店らしいところが良い。あまり落ち着けない店だが、どうやら、文人墨客が多いようだ。

そのナナメ筋向かい、ビルの二階に、お茶漬けの乃志菊がある。食べ物は、特にどうということもないが、お内儀がいい。

自動乾燥器付きの電気洗濯機のように、横幅の広いオカミさんは、白い肌に漆黒の髪、濃い眉

毛、高い鼻——自称沖縄生まれ。だが、実は、福島県の在郷衆(ぜえごしゅ)で、開店までは、銀座ホステス。しかも、ウルワシ・ビルの上にある、フランス風のクラブにいた。独立しても、メシ屋のオバさんになるあたり、仲々のモンである。

こちらの気嫌が悪い時などは少々、耳障りでウルサイが、才気煥発。会話がトントンはずんでついつい長居になる。

ここのお内儀を、少し老けさせたのが、コマ劇場通りとさくら通りの中間にあるオデン屋の利佳は、安藤リカさん。これまた、〝新宿女給〟の元祖みたいなもので、あらゆる意味での、〝先生〟ばかりが客筋だ。

これまた、才気煥発の女史で、耳学問の〝演説〟をブチ上げるから、浅学非才の私など、足許にも寄せつけてもらえない。

店のマッチのデザインは、利佳の利の字に、アミがかけてあって、色が薄い——「利、薄きをもって、佳しとす」ナァーンて、やられてしまうのダ。

蘭の裏側の地下に、メゾンというのがある。サントリー・パブ、とでもいうのだろうか。ホステスがいないから、女性客が多く、その女性客をネラって、男性客がくる。ビヤホールの感じでありながら、食べものが、安くて美味いのがいい。ただしこの店は、私の推せんではなくてウチのカミさんの根城だ。

閑話休題。やはり、フランチャイズの医大通りに戻ろう。

新宿慕情 p.068-069 嫣然と会釈され胸がときめいたりする

新宿慕情 p.068-069 隣の五〇三号には、丸山明宏が住んでいた。「黒蜥蜴」がヒットしていたころだった。香料の芳香が立ちこめ美貌が妖しい魅力を呼んで、息苦しいほどだった。
新宿慕情 p.068-069 隣の五〇三号には、丸山明宏が住んでいた。「黒蜥蜴」がヒットしていたころだった。香料の芳香が立ちこめ美貌が妖しい魅力を呼んで、息苦しいほどだった。

しゃぶしゃぶの店

かに谷の隣にある牛やは、知る人ぞ知る、の有名店。しゃぶしゃぶならば、全東京で、この店がトップであろう。私の友人知己の、美食家たちを何人か案内したが、だれもが、「美味い」とホメそやす。

こういわれると、内心、「ああ、オゴリ甲斐があったナ」と胸を撫でおろす。

まったくのところ、東では牛や、西では、京都の祇園すゑひろ。ともに、しゃぶしゃぶではトップである。テレビで宣伝している千駄ヶ谷の十千万などはしゃぶしゃぶ界では駈け出し。

恥ずかしながら、私が、しゃぶしゃぶを知ったのは、昭和三十四年ごろ、大阪で、芦田均氏の息子サンに連れられて、すえひろでのことだった。

「肉をナベにいれて、しゃぶ、しゃぶと、ウラオモテを湯掻いたぐらいが最上の味。煮てはいけませんよ。しゃぶ、しゃぶと、こうネ……」

その時、こんな旨いものがあるのを、どうして知らなかったのか、と、それまでの四十年ほどの人生が、悔まれてならなかった、ほどだ。

やがて、東京は、溜池の自転車会館地下のざくろで、しゃぶしゃぶに再会する。どうやら、〈西力東漸〉といったところらしい。

そして、私はいう。「こうして、ウラオモテ、しゃぶ、しゃぶ、と、泳がせる程度ネ。煮たら

ダメですよ。どうです?」

当時は、東京では、ざくろしかやっていなかったようだ。

その後、正論新聞を始めて、現在の大木ビルに事務所を構えた時、近所に牛やがあるのを知ったのだが、入ったことがなかった。

というのは、その牛やとの間で、ケンカをしてしまうのだ。

大木ビルというのは、マンションビルだ。私が入った時は、五階の端の五〇四号室。そして隣の五〇三号には、このビルの最後の住人であった、丸山明宏が住んでいた。

「黒蜥蜴」がヒットしていたころだった、と思う。やや胴長のスタイルだが、化粧は、ふだんでも欠かさず、確かに〝美し〟かった。エレベーターで乗り合わせると、ニッコリ笑って、挨拶を先にする。香料の芳香が立ちこめ美貌が妖しい魅力を呼んで、息苦しいほどだった。

徹夜で原稿を書いていると、深夜の二時、三時に、かすかに隣室から歌の稽古をする声が響いてくる。

廊下を歩いていて、ドアが細目にあいている時など、見るともなしにノゾくと、濃緑色に統一された室内に、ルイ王朝風の家具が眼に入って、嫣然と会釈され、胸がときめいたりする。

花束を抱えた女高生のファンが、ビルの入り口あたりをうろつき、いまの殺風景などとは比ぶべくもない。

新宿慕情 p.070-071 丸山明宏でなきゃ出前しないというのか

新宿慕情 p.070-071 「丸山明宏の部屋の隣で正論新聞というんだ。隣に出前して、どうしてウチにはできないのだ」「牛やになんか絶対行かないゾ!」
新宿慕情 p.070-071 「丸山明宏の部屋の隣で正論新聞というんだ。隣に出前して、どうしてウチにはできないのだ」「牛やになんか絶対行かないゾ!」

ファンが出前を

そんなある日。丸山家のドアの前に、民芸風な出前の食器がおいてあった。たまたま、その食器を下げにきた女性に出会って、お店をたずねたら、「牛やです」という。

メニューは知らずとも、食器から判断して、美味そうだったので、出前を頼むべく、牛やに電話したら、「ウチは出前はいたしません」という。

「丸山明宏の部屋の隣で正論新聞というんだ。隣に出前して、どうしてウチにはできないのだ。タノムよ」

「イエ、出前はしないんです」

「ナニを! 丸山明宏でなきゃ、出前しないというのか、バカモン!」

その後も、丸山家の前には、益子焼風の食器が出ていたりするのを、見たりするたびに、牛やにハラが立った。

多分、店としては出前をしないのだが、女の子が、丸山明宏を見たくて、持って行ったのであろう。

「チキショウめ。牛やになんか絶対行かないゾ!」

——しかし、付近一帯のトウトウたる事務所化に抗し切れず、丸山家は、大木ビルを引き払って成城に引っ越してしまった。

その最後の日、挨拶に顔を見せて、「ガラクタを残して行きますが、ご利用になるのでしたらどうぞ」と、〝彼女〟がいった。

私は、西洋骨董みたいなものを拾ってきて、社員たちと分配した。私のところに、古めかしいカサ立て、山本デスクは、金属製の扇子のオ化けみたいな、間仕切り板みたいなものを、持ち帰っていった。

空室になった隣を、我が社が借りて、間の壁をブチ抜いて広げた。あとで気が付くと、ドアのノブまでが、西洋骨董みたいなヤツだった。

そして、丸山明宏がいなくなって、出前しないハズの出前食器を見かけなくなって数カ月。ハラが立ったのも忘れて、牛やに出かけていって、この、天下一のしゃぶしゃぶに、ゴ対面することになった、のだった。

誇り高きコック

スープを持ち帰り

京都の祇園すゑひろのしゃぶしゃぶは、野菜といっしょに、丸い小餅を入れる。これがまた旨

い。だが、牛やはきしめんでしめる。

新宿慕情 p.072-073 美味いものをハラいっぱい食べる主義

新宿慕情 p.072-073 読売時代から「三田ほど、メシのオゴリ甲斐のある奴はいない」と、極め付きであった。
新宿慕情 p.072-073 読売時代から「三田ほど、メシのオゴリ甲斐のある奴はいない」と、極め付きであった。

京都の祇園すゑひろのしゃぶしゃぶは、野菜といっしょに、丸い小餅を入れる。これがまた旨

い。だが、牛やはきしめんでしめる。

思うに、しゃぶしゃぶの牛肉よりも、店の味の違いは、どうも、ゴマダレの隠し味にあるようだ。

意地汚い私は、近ごろでは、しゃぶしゃぶのあと、社に電話して、夜勤の者にナベを届けてもらう。残ったスープを、持ち帰るのである。

徹夜の原稿書きの時に、このスープに冷や飯を入れ、玉子を落として雑炊を作る。これがまたなんとも美味なのである。

私の食事ぶりは、まったくのところ、旨そうに、全部、平らげるのだ。だから読売時代から「三田ほど、メシのオゴリ甲斐のある奴はいない」と、極め付きであった。

もともとが、不規則な生活である。だから、食事だって、不規則である。しかし、私は、ハラが空いた時に、美味いものをハラいっぱい食べる主義だ。どうやら、これが、私の健康法の基本らしい。

つまり、食事中心主義で、間食などはあまりしない。たまに「疲れたナ」と感じた時に、洋菓子程度の甘味を要求する。追分ダンゴを食べたい、と感じた時などは、より疲労している時なのだろう。

追分ダンゴでなければ、中村屋の月餅かアンマン(これに、バターの固まりをコスリつけて食べると、元気百倍。オロナミンCドリンクよりも効く)、でなければ、花園まんじゅうの、春日山クラスの

甘さだ。

酒を呑む時は、あまり、料理を食べない。ツマミも、ほとんど食べない。アルコールの時はアルコール一筋だ。

だから、お招ばれの席で、料理屋に行く時など、「今夜は食べよう」と、決心していれば、酒は付き合い程度に抑えて、モリモリ、料理を残さずに食う。

つまり、呑む時には、ハシゴでベロベロになるけれど、バタンキューと眠ったあと、睡眠数時間で、ノドの渇きに目を覚まして、冷たい水をゴクゴクと飲む。そしてまた、一、二時間眠って小用で起きる。

起きればまた水である。合計して、一升ぐらいも飲むだろうか。そして、入浴する。

ぬる目の朝風呂に入り、ガスをつけて熱くする。その間にもまた、氷を入れた水を飲む。

徹底して水を飲む

こうして上がると、流汗は滝の如く、寒中でも、火の気のない部屋で、バスタオルを腰に巻いたまま、十分、二十分は新聞を読んで、汗がひくのを待つ。

汗がひくと、カーッと、ハラが空いてきて、ペコペコ腹に、モリモリと、三杯ぐらいのゴハンを入れる。

ハラが空いた時に、ハラいっぱいの食事。それに、呑んだら徹底して水を飲む——これが、私

が健康な理由だ、と思う。

新宿慕情 p.074-075 満腹感だけを偽造すると執筆意欲が低下

新宿慕情 p.074-075 しゃぶしゃぶを、肉だけ二人前も食べる。すると摩訶不思議やナ……翌朝の九時ごろまで、眠気ひとつ覚えず、原稿を書きつづけて、約束通り上げられるのである。
新宿慕情 p.074-075 しゃぶしゃぶを、肉だけ二人前も食べる。すると摩訶不思議やナ……翌朝の九時ごろまで、眠気ひとつ覚えず、原稿を書きつづけて、約束通り上げられるのである。

ハラが空いた時に、ハラいっぱいの食事。それに、呑んだら徹底して水を飲む——これが、私

が健康な理由だ、と思う。

美味いものをハラいっぱい食う、と書いたが、美味いものとは、別に、山海の珍味ではなくて玉子の目玉焼きでも充分なのだ。美味い味噌汁とお新香があれば……ということだ。

空腹の食事、というのが原則だから、時間のズレが出てきて徹夜だという前夜半に、ラーメンぐらいしか食べないこともある。

不思議なもので、夜の十時ごろまでに、ラーメンなどを入れて、満腹感だけを〝偽〟造すると暁け方の三時ごろには、消耗しつくして、執筆意欲が低下し、「いいや、あしただ」と、寝てしまい、進行係を嘆かせる結果になる。

これが、前夜半に、とんかつなどだと、もたせても、五時、六時で、「やはり、豚肉ではこんななものサ」と、理由にならない理由をつけて、サッサと寝てしまう。

ところが、牛やのしゃぶしゃぶは違う。もう絶体絶命。どんなことがあっても、明朝十時までに入稿……と、〝至上命令〟が進行から出されると、夜の九時ごろに、しゃぶしゃぶを、肉だけ二人前も食べる。

すると摩訶不思議やナ……十時ごろから仕事にかかって、翌朝の九時ごろまで、眠気ひとつ覚えず、原稿を書きつづけて、約束通り上げられるのである。

この霊験あらたかな〝牛や〟さまに、進行係クンなどは、締め切り厳守を宣告して、「お願いですから、牛やに行って!」などという。

この牛やが加盟しているのが『味の味』という趣味の小冊子で、先日、「読者サロン・食後感」に投稿したら、これが採用されて、活字になった。

とは知らずに、また、牛やに出かけていったら、支配人が丁重に、「原稿を書かれるご商売の方に、タダ原稿では申しわけない。原稿料代わりに、これをどうぞ」と、牛肉の佃煮を一箱下さった。

この自家製牛肉佃煮の欲しい方は、『味の味』に、私のこの原稿の一部を写し書きして、投稿なされば良い。〝盗作〟などと、不粋は申しませんから……。

とまあ、ここまで、牛やを賞めちぎりながらも、〝牛肉の牛や〟でありながら、登場するのはしゃぶしゃぶばかりで、スキヤキやビフテキは出てこないのには、深いわけがある。

ウチの大木ビルの隣、牛やから十メートルほどに、かつ由という店がある。

前経営者が、かつ由という屋号だったから、それを引き継いだだけで、別に、カツ専門店というわけではない。

前のかつ由時代にも、入ったことはなくて、美人というのではないが、スタイルが良くて、笑顔がチャーミングな、しかも着るものにセンスのある、いまのママになってからも、入ったことはなかった店だ。

新宿慕情 p.076-077 連れの男を良く良くみればナントかつ由のチーフ

新宿慕情 p.076-077 顔見知りになっていたそのママが、若い、どちらかといえば、年下の感じの男と同伴で、バッタリ、牛やで出会ったものである。
新宿慕情 p.076-077 顔見知りになっていたそのママが、若い、どちらかといえば、年下の感じの男と同伴で、バッタリ、牛やで出会ったものである。

ママが揚げたカツ

それがある日。顔見知りになっていたそのママが、若い、どちらかといえば、年下の感じの男と同伴で、バッタリ、牛やで出会ったものである。

「やあ」

「まあ!」

こちらは、〝見てはならぬ〟ものを見てしまった感じ。あちらは、〝誤解しないで〟といった感じの、照れ臭げな挨拶があったあとで、連れの男を良く良くみれば、ナント、かつ由のチーフではないか。

——ホホウ?……。

そんな思いが、私の脳裡をよぎった。

店にこそ、あまり行かなかったが、この〝可愛いタイプ〟のママが、私と同じ岩手県は盛岡市の出身で、小学校が私の後輩の、県立女子師範の付属、と、知って、少なからぬ関心があったのである。

店には行かなかったが、出前の弁当などは、チョイチョイ取っていた。カツ弁だ。

締め切り前夜のこと。十名ほどが残業していて、夜食を取る段になった。カツ弁を発注したが、私は、フト、カツ丼が食べたくて、追っかけ電話して、カツ丼に訂正すると、ママは「丼がない

からムリ」という。

「ナニ、弁当重で充分だよ。メシの上に、玉子でトジたカツを並べればいいんだから……」と強引に注文してしまった。

十五分ほどして、ママから私に電話がきた。

「卵が足りないからダメ」という。止むなくカツ弁で我慢することにした。

そして、また三十分ほどたって、十個ほどのカツ弁を、ママと店の女の子とで、出前してきたが、ママが泣き顔なのだ。顔を合わせないようにしている。

「ママ、ナニ泣いてんだい?」

と、冗談半分にきくと、ママはオロオロ声で答えた。

「私は、お店をやってんだから、お客さんの希望だから、カツ丼を作って、と、チーフに頼んだの……。するとチーフは、『一人前のコック

が、カツ丼なんか作れるか。そんなら辞める』と、ケンカしてしまったのョ……。チーフに辞められたら、もう、あのお店はおしまいよ。このカツは、アタシが揚げたのだから、お口に合わないかも……」

もう、涙声で、語尾もさだかではない。

(写真キャプション)ラステンハイムなどと気取ったが、また逆もどり

新宿慕情 p.078-079 カツ丼なんて〈料理〉のうちではない

新宿慕情 p.078-079 「カツ丼なんか作れるか。そんなら辞める。」と、ケンカしてしまったのョ。…チーフに辞められたら、もう、あの店はおしまいよ。
新宿慕情 p.078-079 「カツ丼なんか作れるか。そんなら辞める。」と、ケンカしてしまったのョ。…チーフに辞められたら、もう、あの店はおしまいよ。

「ママ、ナニ泣いてんだい?」
と、冗談半分にきくと、ママはオロオロ声で答えた。
「私は、お店をやってんだから、お客さんの希望だから、カツ丼を作って、と、チーフに頼んだの……。するとチーフは、『一人前のコック

が、カツ丼なんか作れるか。そんなら辞める』と、ケンカしてしまったのョ……。チーフに辞められたら、もう、あのお店はおしまいよ。このカツは、アタシが揚げたのだから、お口に合わないかも……」

もう、涙声で、語尾もさだかではない。

「……」

私も唖然としてしまった。私のフトした〝出来心〟から、カツ丼の注文となったのが、こんな〝破局〟を招くとは!

ママの細い肩が波打つのを見て、ヒシと抱きしめてやりたいいじらしさだったが、チーフもチーフだ、と思った。

といっても、良い意味だ。カツ丼なんて、〈料理〉のうちではない。それを作れ、とは、経営者でも、いいすぎだ。日本画家に枕絵を描け、この私に、ポルノ小説を書け、というにも等しい侮辱ではないか!

——カツ丼なんて、お惣菜だ!

そう、タンカを切ったチーフの姿とダブって、いま、牛やで照れ臭そうにしている男の顔があったからだ。

その数日後に、通りで出会ったチーフは、晴れ晴れとして笑顔で、私にいった。

「ビフテキなら、牛やよりウチのほうが旨いですよ。断然!」

味噌汁とお新香

ご自慢のビフテキ

「ビフテキなら、ウチのほうが旨いですヨ!」と、叫んだのは、牛やから十メートルも離れていないかつ由のチーフであったが、いま、この原稿を書いている〝原動力〟が、その、かつ由ご自慢のビフテキなのである。

ビーフ・ステーキとビフテキとは、ひと味違う……ポーク・カツレツとトンカツとの違いとも違う。というのは、ビフテキは〝料理〟であって、〝お惣菜〟ではないのであろうか。

つまり、味噌汁やご飯が、ビフテキの場合には、トンカツと違って、フィットしないのだ。

かつ由のチーフが、わざわざ〈和風ビフテキ〉と銘打った、この店の呼びものは、シイタケ、ピーマン、ニンニクなど、各種香辛料も加えた薬味が、ビフテキの上に山盛りになっているのであった。

盛り合わせは、フライド・ポテト、インゲン、甘煮ニンジンなどの、彩り野菜の時もあるが、ナスの精進揚げとかいった〝和風〟なものもつく。

新宿慕情 p.080-081 かつ由の客はバッタリと遠のいてしまった

新宿慕情 p.080-081 深い事情は知らぬが、その誇り高きチーフが、やがて辞めてしまって、ママは方向転換を考えたらしい。…どうなることかとみていると、レストラン・ラステンハイムという名前に変わった。
新宿慕情 p.080-081 深い事情は知らぬが、その誇り高きチーフが、やがて辞めてしまって、ママは方向転換を考えたらしい。…どうなることかとみていると、レストラン・ラステンハイムという名前に変わった。

かつ由のチーフが、わざわざ〈和風ビフテキ〉と銘打った、この店の呼びものは、シイタケ、ピーマン、ニンニクなど、各種香辛料も加えた薬味が、ビフテキの上に山盛りになっているのであった。
盛り合わせは、フライド・ポテト、インゲン、甘煮ニンジンなどの、彩り野菜の時もあるが、ナスの精進揚げとかいった〝和風〟なものもつく。

これが、実に旨い。

牛やのビフテキには、肉の旨さだけで、もうひとつ、コックの愛情が欠けているようだ。

というのは、材料肉の良質さにオンブしてしまって、鉄板焼き風に、サービス係の女性たちが料理するからであろう。

私も、一度だけしか、牛やのビフテキを食べていないから、そう断定する自信はないが、オイル焼きと違って、ビフテキはやはり、コックの手にかけるべき〝料理〟だと思う。

そして、スキヤキも、牛やでは、感嘆して食べた記憶は、あまりない。つまり、ともに、材料肉に頼りすぎて、〈味〉が忘れられている感じなのだ。

しかし、しゃぶしゃぶには、タレの秘訣がある。肉とスープとタレとの、渾然一体のチームワークの〈妙味〉なのだろう。ともかく、絶賛に値する、牛やのしゃぶしゃぶである。

さて、こうして、ビフテキに関しては、隣組のかつ由に軍配をあげるのだが、その〝可愛い〟タイプのママには、まだ書かねばならぬことがある。

深い事情は知らぬが、その誇り高きチーフが、やがて辞めてしまって、ママは方向転換を考えたらしい。

店内改装のため休業、という掲示が出て、大工が入り始めたのは最近のこと。店内をすっかり模様換えしているので、一体どうなることかとみていると、レストラン・ラステンハイムという名前に変わった。新装開店してみると、これまた、隣組のビジネスホテル・サンライトの前マネ

ージャーが、黒服を着て挨拶し、制服のボーイがふたり立ち働く……といったアンバイなのである。

裏通りの横丁で、こんな気取ったレストランが、商売になると思うママの気持ちが、理解できなかった。

元マネージャーくんにきけばボーイ、コックとも、チームを組んで、開店を手伝ってやったということだったが、案の定、かつ由の客は、バッタリと遠のいてしまった。

ママのフンイキと

中食には、味噌汁とお新香付きのサービスランチ。夜は、ママのフンイキとチーフの味とを求めるボトルの客。これが、かつ由の〝存在価値〟だったというのに!

通りで出会ったママに、私は忠告を試みた。

「マダーム・ラステンハイム。景気はどお?」

彼女は、それでも、愛くるしく笑った。

「先生がきて下さらないから、もう、クビをくくらなきゃ……」

「チーフはどうしたのサ?」

「郷里にひっこんだままよ」

「劉備が三顧のこよなき知遇……という言葉、知ってるかい」

新宿慕情 p.082-083 ホテル・サンライトの品のいいマダム

新宿慕情 p.082-083 ママは、目に涙をあふれさせそうになりながら、黙って、コックリとうなずいた。どうも、このウラには〝女の戦い〟があるような感じだった。
新宿慕情 p.082-083 ママは、目に涙をあふれさせそうになりながら、黙って、コックリとうなずいた。どうも、このウラには〝女の戦い〟があるような感じだった。

中食には、味噌汁とお新香付きのサービスランチ。夜は、ママのフンイキとチーフの味とを求めるボトルの客。これが、かつ由の〝存在価値〟だったというのに!
通りで出会ったママに、私は忠告を試みた。
「マダーム・ラステンハイム。景気はどお?」
彼女は、それでも、愛くるしく笑った。
「先生がきて下さらないから、もう、クビをくくらなきゃ……」
「チーフはどうしたのサ?」
「郷里にひっこんだままよ」
「劉備が三顧のこよなき知遇……という言葉、知ってるかい」

「ナニ? それ」

「ヒコーキで飛んでいって、チーフを迎えに行っておいでよ。そして、ラステンハイムのマダムを気取らず、かつ由のオカミさんで、それに徹するのサ」

「……」

ママは、目に涙をあふれさせそうになりながら、黙って、コックリとうなずいた。

私のカンでは、どうも、このウラには、〝女の戦い〟があるような感じだった。

というのは、我が社のある大木ビルをはさんで、右手にかつ由があり、左手に、ホテル・サンライトがある。

このビジネスホテルは、四階建てながら、仲々の繁昌ぶりで、予約しなければ泊まれないほどである。

そして、一階には、レストランがある。このレストランの中の階段を上がれば、そこにはバーができるハズであったが、そのスペースを会議室にしていてこれまた、結構、満パイだ。

このレストラン。開業時にはかつ由で雇ったマネージャー氏が指揮していたのだが、あまり客の入りが良くなかった。

料理とて、特別に旨い、というほどではなく、第一、一流ホテル並みの気取りがハナにつくのだった。

だが、ある日、そのレストランが一変したのに気が付いた。例のマネージャー氏がいなくなり

ブッキラ棒だけど、親しみのある男が、働いていた。

それに、中食用に、味噌汁つきの和定食が登場した。朝も、九時半まで、朝食をやり始めたし、新宿の裏通りに相応しく、〝庶民的〟になったのである。

そればかりではなく、中年の落ち着いた魅力のある、品のいいマダムが、これまた、素敵な着こなしで、サービスに相勤めるのだった。

私は、いままでのレストラン経営者が、このマダムに売って代替わりした、と思っていた。気取りがなくなりながらも、このマダムの美しさが、ホテルのレストランとしての品位を、それなりに維持している。

そう。年齢(とし)のころでいえば、かつ由のママと同年配なのである。

「ネ、奥さん……」

私は、彼女を〈人妻〉とニラんで、こう話しかけた。

その反応を見るためだ。

「フンイキが変わったら、すごく流行りだしたじゃない?」

「ハイ、ありがとう、ございます。三田さま(サンではない)がお見えになって下さいますから、ですわ」

彼女は、微笑をたたえて、そう答えた。〈おとなの女の美しさ〉が、そこにあった。

私が、その後に〝取材〟したところでは、彼女は、「ホテルの副社長」であった。と同時に「社

長夫人」でもあった——。 つまり、レストランの営業不振に、直接、陣頭指揮に乗り出してきた、という次第だった。

新宿慕情 p.084-085 味噌汁とお新香と〝女の戦い〟

新宿慕情 p.084-085 かつ由のオカミさんは、美人とはいえないが、可愛いタイプで、それなりにチャーミングである。サンライトのマダムは、美人であって、これまた、笑顔が魅力的だ。
新宿慕情 p.084-085 かつ由のオカミさんは、美人とはいえないが、可愛いタイプで、それなりにチャーミングである。サンライトのマダムは、美人であって、これまた、笑顔が魅力的だ。

私が、その後に〝取材〟したところでは、彼女は、「ホテルの副社長」であった。と同時に「社

長夫人」でもあった——。

つまり、レストランの営業不振に、直接、陣頭指揮に乗り出してきた、という次第だった。

女の子もイキイキ

かつ由が、チーフの退職を機会に、「レストラン・ラステンハイム」に変わって、サンライトの不振時代のマネージャー・チームが参加した、という〝現象〟の面から、〈新聞記者的第六感〉を働かすと、このふたりの女性の在り方に、ナニか、関係がありそうなのである。

かつ由のオカミさんは、美人とはいえないが、可愛いタイプで、それなりに、チャーミングである。

サンライトのマダムは、美人であって、これまた、笑顔が魅力的だ——一方が、味噌汁とお新香をやめて、気取ってみたら、相当な改造費をかけたのに、客足が遠のき、他方が、気取りを捨てて、味噌汁とお新香を出して、千客万来である。

私が、〝女の戦い〟を想定するのも、理の当然ではないだろうか。

かつ由のママは、私の忠告を容れて、チーフを迎えに行ってきた。

新装開店から一カ月。レストラン・ラステンハイムは、「お客さま方のご要望により、むかしの、かつ由にもどらせて頂きます」と、貼り紙を出した。

客はまた、かつ由にもどってきた。チーフは、和風ビフテキを焼き終わると、キッチン場から

ノコノコと出てきて、馴染み客の相手をして、ビールを乾した。

ママは、キャッ、キャッと、明るい嬌声を上げながら、レストラン風のテーブルの間を、蝶々サンのように、飛びまわっていた。ズーッと居付いている女の子のカコちゃんも、レジの前に神妙な表情で控えているのをやめて、料理を運んでは、イキイキとしてきた。

新宿の街とは、やはり、そんなとこなのである。

新聞記者とコーヒー

珈琲ならグループ

地元の医大通りに入りながら、ものの十メートルほどのところで、すっかり手間取ってしまった。先を急ぐとしようか。

牛やから百メートルほども進むと、右側にグループという、コーヒー店がある。四、五人ほどのカウンターと、五、六卓ほどの小さな店だが、若いマスターがたててくれるコーヒーが、なんとも旨いのである。

店はせまいし、椅子とて、決して坐り心地が良いわけではなく、客は付近の常連で、高話の声

がうるさく、落ち着けないので、本来ならば、キライな部類に属する店なのだが、コーヒーの美味さにひかれて〝グループ詣り〟なのである。

新宿慕情 p.086-087 「お茶でも飲むか」と社の付近の喫茶店に

新宿慕情 p.086-087 社会部は、そのころでも、七、八十人はいるのである。~クラブ詰め、サツまわりなどの外勤記者が、夕方、社に上がってくると、坐る椅子もない混雑ぶりなのである。
新宿慕情 p.086-087 社会部は、そのころでも、七、八十人はいるのである。~クラブ詰め、サツまわりなどの外勤記者が、夕方、社に上がってくると、坐る椅子もない混雑ぶりなのである。

店はせまいし、椅子とて、決して坐り心地が良いわけではなく、客は付近の常連で、高話の声

がうるさく、落ち着けないので、本来ならば、キライな部類に属する店なのだが、コーヒーの美味さにひかれて〝グループ詣り〟なのである。

近くの新田裏交差点にあるバロンよりも、私は、グループを推す。バロンだってコーヒーは美味なのだが……。

私のコーヒー好きは、やはり新聞記者生活の長さからきているようだ。

昭和二十二年の秋、シベリア帰りの私を迎えてくれたのは、戦災で焼かれた本社を復旧中で報知新聞の社屋(有楽町駅前の読売会館。階下にそごうデパートが入っている建物は、戦時中の新聞統合で、読売に合併された報知新聞のビルを、建て直したもの)にいた社会部の面々であった。

時期を憶えていないが、翌年ぐらいに、銀座の本社に移転したと思う。

三階のワンフロアを、仕切りなしで占めている編集局。カタカナのヨの字形に、タテの棒が整理部。ヨコの三本棒が、社会、政治、経済と、〝一等部〟が並ぶという配置だった。

しかし、政治、経済部などは部長以下二、三十人ほどなのに社会部は、そのころでも、七、八十人はいるのである。それでも、部長の机をハシに、向かい合って二列に並ぶ机は、せいぜい二十個ほど。

ふだんは、朝夕刊交代の次長(デスク)と、遊軍十余名の席として、十分なのだが、クラブ詰め、サツまわりなどの外勤記者が、夕方、社に上がってくると、坐る椅子もない混雑ぶりなのである。

外勤記者が社に帰ってきて原稿でも書こうものなら、内勤の遊軍記者でさえ立ちん坊である。

めったに社に現われない古参のクラブ記者などは、社会部にやってくると、新人に、「なにか御用ですか」などと、すっかり部外者扱いをされたりする。

用事のある仲間や、久し振りに顔を合わせた奴などと、しばらくの間は、社会部周辺で立ち話をしていたりするが、どちらからともなく、「お茶でも飲むか」と、誘い合って、社の付近の喫茶店に出かける。

はみだしは喫茶店

夕方のラッシュ時、といっても、通勤の電車の話ではない。月給日や記者手当が出たりした日などは、このヨの字の付近は各部の外勤記者たちがみなやってきて、それこそ、立錐の余地さえないほどの〝人垣〟ができてしまうのだ。

Aとお茶を飲みに出かけ、三、四十分ほどでもどってくると、Bと出会って、またコーヒー店に行く。要するに、自分の会社なのに自分の席がない。もしも原稿を書こうとするなら、用事もなく、机と椅子を占領している男がいれば、先輩なら、「スミマセン。ちょっと……」と、明け渡しを要求し、後輩だったら「オイ。場所を貸せよ」と、追い立てを食わせる。

八十人も部員がいて、座席が二十ほどだから、ヒョイとトイレに立っても、だれか坐られてしまう。

新宿慕情 p.088-089 特務曹長格の私が知らない男が遊軍席にいる

新宿慕情 p.088-089 私が、三年に及ぶ警視庁記者を〝卒業〟させてもらって、通産、農林両省クラブ詰めになったのは、昭和三十年初夏のことだった。~だが、丸一年で、大特オチをして、部長の眼の届く遊軍勤務になってしまう。
新宿慕情 p.088-089 私が、三年に及ぶ警視庁記者を〝卒業〟させてもらって、通産、農林両省クラブ詰めになったのは、昭和三十年初夏のことだった。~だが、丸一年で、大特オチをして、部長の眼の届く遊軍勤務になってしまう。

Aとお茶を飲みに出かけ、三、四十分ほどでもどってくると、Bと出会って、またコーヒー店に行く。要するに、自分の会社なのに自分の席がない。もしも原稿を書こうとするなら、用事もなく、机と椅子を占領している男がいれば、先輩なら、「スミマセン。ちょっと……」と、明け渡しを要求し、後輩だったら「オイ。場所を貸せよ」と、追い立てを食わせる。
八十人も部員がいて、座席が二十ほどだから、ヒョイとトイレに立っても、だれか坐られてしまう。

その人がひろげて読んでいる新聞の下から、手を突っこんで書きかけの原稿と資料を拾い集めて、席を求めてキョロキョロする始末だ。

その会社の、レッキとした社員なのに、自分の席がない……などとは、一般の人たちには、想像もつかないことだろう。それは、出先の記者クラブでも同じで、一社に一卓しかないから、いつも、行雲流水の境地だ。

となると、仕事の打ち合わせも、憩いのくつろぎも、すべて喫茶店ということになる。

だから、自分にだれかが用事があると思えば、居場所を明らかにし、喫茶店の電話番号をメモした帳面を、ポケットにいつも入れておかねばならぬ。

もう四年生になって、田中派の中堅である小宮山重四郎代議士の略歴を、国会便覧で見るとおもしろい。当選二回目までは「日大講師・読売新聞記者・東洋大理事」と出ている。

四十五年二月版の、当選三回になると、「日大講師」の次に「東洋大理事」がきて、「読売記者」が脱けてしまっている。

どうして、日大講師なのか、東洋大理事なのか、学究でもなく、専門家でもないのに……と、余計なセンサクは、措くこととしよう——。

私が、三年に及ぶ警視庁記者を〝卒業〟させてもらって、通産、農林両省クラブ詰めになったのは、昭和三十年初夏のことだった。「虎を野に放つような予感がしないでもないが、マ、経済官庁を持って勉強しろ」と社会部長にいわれた。

だが、丸一年で、大特オチをして、部長の眼の届く遊軍勤務になってしまう。もっとも、この特オチは、農林省の多久島ツマミ食い事件で、発表モノだったから、地方部の記者が提稿したのに、社会部のデスクが、カン違いして、読売だけが〈発表モノ特オチ〉という、前代未聞のミスをしたのだった。

毎日、社へ出勤してみると、その二十個ばかりのデスクのスミに、ひとりの若い男が、毎日きて坐っている。三十一年初夏のころだった。

その年の四月の新入生は、まだ地方勤務中で、本社に上がってきているのはいないハズだ。

社会部員にしては、なんとなく遠慮勝ちで、そのくせ、「オーイ、子供ッ!」と、給仕を呼ぶと、給仕クンがいない時などハイと答えて立ってくる。

日中は、夜間の高校生や大学生、夜は、ひる間の学生たちが給仕として、各部に配属されていたのだが、その男を見ると、どうも、学生にしては、年を食いすぎている。

当時の私で、社歴十三年。特オチで社へ上がらされて、遊軍席にはいるが、八、九年生ぐらいの〝軍曹〟が遊軍長で、私は別格。日勤、夜勤、泊まりなど勤務は除外されている。いうなれば軍曹の上にいる〝特務曹長〟格なのだ。

その私が、〝知らない男〟が遊軍席にいる。不審に思って、数日後にきいてみた。

「オイ、お前。毎日、社会部にいるけれど、一体、どこの人間なんだ?」

「ハイ。ザ・ヨミウリ(読売発行の英文紙)の記者で、小宮山といいます」

新宿慕情 p.090-091 小宮山法務委員長と私とは〝恋仇〟だった

新宿慕情 p.090-091 「ヨシ。それじゃ、オレが然るべく仕事を手伝わせてやるョ」 これが、平和相互銀行の小宮山一族だと、その当時に知っていたら、私の人生も、あるいは変わっていたかも知れない。
新宿慕情 p.090-091 「ヨシ。それじゃ、オレが然るべく仕事を手伝わせてやるョ」 これが、平和相互銀行の小宮山一族だと、その当時に知っていたら、私の人生も、あるいは変わっていたかも知れない。

当時の私で、社歴十三年。特オチで社へ上がらされて、遊軍席にはいるが、八、九年生ぐらいの〝軍曹〟が遊軍長で、私は別格。日勤、夜勤、泊まりなど勤務は除外されている。いうなれば軍曹の上にいる〝特務曹長〟格なのだ。
その私が、〝知らない男〟が遊軍席にいる。不審に思って、数日後にきいてみた。
「オイ、お前。毎日、社会部にいるけれど、一体、どこの人間なんだ?」
「ハイ。ザ・ヨミウリ(読売発行の英文紙)の記者で、小宮山といいます」

「フーン。ザ・ヨミウリなら、隣の別館だろ? それが、なんで毎日、社会部にいるんだ?」

「ハイ。大事件があった時に、ザ・ヨミウリに、すぐ連絡する係なんです。どうか、よろしくお願いします」

「ヘェー。ザ・ヨミウリってのは、人間がタップリいるんだなあ。……じゃなんかい? ペラは得意なんだナ」

「イエ、アメリカの大学に行った、というだけで、ペラはダメなんです」

「アッハッハァ。それで、連絡係か! だけど、仕事がラクでいいじゃないか」

「イヤァ、間が持ちません」

「ヨシ。それじゃ、オレが然るべく仕事を手伝わせてやるョ」

これが、平和相互銀行の小宮山一族だと、その当時に知っていたら、私の人生も、あるいは変わっていたかも知れない。

本人は、キチンと礼儀正しく、しかもへり下った態度だったから、イジメたりはしなかったが〝大の男〟が、丸一日、これといってする仕事もなく、大事件の連絡係だけ、というのだから、能力的には軽蔑していて問題にしなかった。

いまの、ご本人の小宮山先生には失礼な〝むかし話〟だが、政界進出のための〈履歴作り〉だったのだろう。だが、感じのよい青年ではあった。

喫茶店通いの余禄

前置きが長くなったが、〝若き日の小宮山読売記者〟にご登場を願ったのも、実は、コーヒー飲みの、喫茶店ばなしなのである。

その当時、読売本社のすぐ近くに、「いこい」という喫茶店が新開店した。藤尾さんという丸ポチャのママが、若く、可愛い姉娘と、美人の妹娘、というふたりの女の子を使っているのだから、〝温まる席のない〟社会部の連中が、セッセと通う。みな、それぞれにお目当てがあってのことだ。

気がついてみると、遊軍の大ボスで、時間が自由な私と、することがなくて、暇をモテ余している小宮山クンとが、一番通いつめていて、しかも、たがいに姉娘をハリ合っていたのだった。つまり、小宮山法務委員長と私とは、二十年前には〝恋仇〟だったのである。

いまだから〝衝撃の告白〟で、私は、姉娘を心身ともに〝私のモノ〟にした。小宮山クンは、数々のプレゼントをしていたのを、彼女の告白で知った……。