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正力松太郎の死の後にくるもの p.086-087 想像もできないであろう〝素顔〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.086-087 原が社会部長になった当時、われわれ警視庁詰め記者たちが、部長歓迎会に、シロクロ、花電車の鑑賞というコースを準備した時のことである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.086-087 原が社会部長になった当時、われわれ警視庁詰め記者たちが、部長歓迎会に、シロクロ、花電車の鑑賞というコースを準備した時のことである。

このような時代に、原は順風満帆の記者生活を歩んできた。長身にジャージィの上衣を着こなし、アミダに冠ったソフトから、横ビンの白髪をのぞかせ、有楽橋(今のフードセンターがある堀にかかっていた)を渡りながら、社の玄関に歩んでくる姿は、それこそ、〝新聞記者を絵に描いた〟感じであった。映画のブンヤの、ハンティングに胸ポケットの鉛筆といった、下品なタネ取り時代のイメージから、A級の知識人という社会的評価に高められた新聞記者を、文化部長から社会部長というコースを歩んでいた原が、身をもって示していたのである。

そうかといって、そんな〝キザ〟な〝気取った〟スタイルばかりではない。原が社会部長になった当時、われわれ警視庁詰め記者たちが、部長歓迎会に、シロクロ、花電車の鑑賞というコースを準備した時のことである。本庁の保安で調べて、浅草のとあるウラ露地の旅館が、その会場となった。

われわれの呼んだタレントが到着する前、待たされていた部屋に、妖しい声がきこえてくる。原は、われわれと一緒になって、ツバをつけてあけたフスマの穴から、その部屋をノゾキこんだのであった。

さらにまた、花電車がはじまり、バナナ切りのあとで、ユデ玉子飛ばしの段となったとき、スポンと三メートルほども玉子が飛んだ瞬間、原はアッと小さく叫んでホオを押えた。なんと、バナナ切りの時に、内部に残っていたバナナのスジが、玉子にくっついてハネ飛び、原に命中した

のであった。若い記者諸君には、今の原四郎編集局長からは、想像もできないであろう、〝素顔〟なのである。

仕事と、仕事以外の部分との、チャンネルの切り替えは、極めて画然としていた。取材費がバーのツケに廻るのを承知していても、黙ってハンコを押した。呑んだくれようと、バクチにふけろうと、女におぼれようと、仕事ができればよかった。しかも、「新聞記者の評価は結果論で決まる」という態度であった。彼の人事をみていると、最近はともかくとして、かつてはオベンチャラも、クソ真面目も、共に効果はなかったようである。

部下に対する信頼も、〝赤心をおして人の腹中におく〟態のものであった。前述した、「東京租界」の企画のスタートに当って、部長として私に与えた言葉はただ一つ——「名誉棄損の告訴が、何十本と舞いこんでも、ビクともしないような取材をしろよ」であった。この言葉に、感奮興起しないような「新聞記者」がいるだろうか。

しかし、このような実力と経歴とからくる原の「自信」が、いよいよ、局長と局長以下との間の「断層」をきわだたせる。

ある社会部次長がいった。

「驚いたよ。今の若い記者には……。コロシがあったサツで、サツ廻りの奴が電話してくるンダ。『アノォ、私は日勤なもンですから、もう帰るンですけど、あとは誰に引きついだらよいの

でしょうか』だとサ。まだ、六時すぎごろのことだぜ。三鷹や下山のころには、一カ月以上もウチに帰れなかったのにナ」