日別アーカイブ: 2020年12月18日

正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 以前にも〝事件〟を起していた

正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。
正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。

私のばく論に、景山部長は黙って腕組みをしてしまった。何かを考えているようだったが、 「マ、いい。オレに考えがあるから、黙ってオレにまかせろ」と、私を制した。

数日後、私は部長に呼ばれた。

「オレも進退伺いを出すが、お前も黙って始末書を出せ」

「部長がそういうなら、私も黙っていうことをききます」

景山とは、そういう人柄の人物であった。そして、それなりに部長を理解できる部下からは、良く慕われてはいたが、ある意味では、古いタイプの〝社会部派〟の記者であった。人情に篤く、温厚な人柄ではあったが、もう一つ、記者の〝鋭さ〟〝非情さ〟に欠けていた。

数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。

こうして、当然の配置転換。私は通産、農林両省詰めを解かれて、本社勤務の遊軍記者となった。遊軍になって、部長とお茶を飲んだり、ダベったりする機会が多くなって、私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。

山崎次長という人は、以前にも〝事件〟を起していたのだ。日本テレビの記者座談会での、〝舌禍〟である。時の郵政大臣佐藤栄作に関する、事実無根の呑み屋談義をホントらしくしゃべってしまった。たまたまそのテレビを見た佐藤大臣の抗議から、デマを流した嘱託の記者がク

ビ、山崎次長が次長を剥奪されて平部員に降等、内外タイムスへ出向という、前歴があったのだ。景山は、人情家らしく、やっと次長に復帰してきた山崎デスクを、何とか救ってやろうとしたのである。

前の事件は、原部長時代だ。冷厳な信賞必罰—責任体制の確立こそ、新聞記者という〝責任ある職業人〟にとって、何よりも必要なことであったと思う。

私はいま、自由な立場のライターとして「立松記者事件」の背景を、冷静に眺め、検討してみると、あの大誤報の遠因は、一個人山崎を秘かに救ってやった、景山温情部長の社会部長としてのあり方、姿勢にすでに胚胎していたと考察する。

原四郎編集局長が、七年間も社会部長をつづけていられた、ということの意味の重要さは、このように、毎日、毎日の朝夕刊の「紙面」という、クビのかかった生活の連続の中で、〝名部長〟といわれこそすれ、ほとんどまったく、ミスがなかった——ということなのである。だからこそ、七年間も、「社会部長」がつづいたのだ。

原が統率の才にめぐまれていたということと、さらには、「新聞の体質」が、原という「記者の体質」と同一だったことである。

原四郎編集局長の記者としての体質が、新聞の体質と同じであったことが、彼をして、七年間もの長きにわたって、社会部長の椅子にあらしめた——と、私は書いた。