だが一方で、私は、昭和三十年代に、新聞は急激にその体質を変えて、「広報伝達紙」となってしまった、とも書いている。すると原の記者としての体質は、どうなってしまったのであろうか。そこが問題である。
4 〝務台教〟の興隆
だが一方で、私は、昭和三十年代に、新聞は急激にその体質を変えて、「広報伝達紙」となってしまった、とも書いている。すると原の記者としての体質は、どうなってしまったのであろうか。そこが問題である。
4 〝務台教〟の興隆
朝・毎アカ証言の周辺
さる四十年四月二十九日の午後、アメリカの二大通信社であるAP、UPIが、そろって打電してきた記事は、日本の新聞界にとって、極めてショッキングな内容で、そのため、外電センターである共同通信社でも、その配信について、しばし思い悩んだといわれるほどのものであった。
それは他でもない。先刻御承知の「朝日、毎日はアカの巣くつで、だから、アメリカのベトナム政策が批判されるのだ」というもの。米上院外交委員会が、四月七日に開いた一九六六会計年度の軍事援助に関する、秘密聴聞会での、ポール国務次官、マッカーサー国務次官補の証言内容についての記事であった。
これに対し、朝日、毎日両紙は、それこそ〝猛然〟と反ばくし、ことに毎日の反ばく記事の扱い方の大きさは、同社の受けた衝撃を物語ってあまりあった。
だが、問題はここからが始まりである。朝、毎の一面の大きな記事に対し、「三大紙」である、読売のそれは、まさに不当なほどの、小さな記事であったからである。
私は、この「三大紙」の同記事を丹念に読みながら、今日を、さらに近い将来を暗示する、極めて象徴的な事実を想い起さざるを得なかったからであった。
四月二十三日、東京中央局の消印。市販のタテ長のハトロン封筒。マジック・インキの達筆(書き馴れた)な宛書、色は黒。差出人の住所氏名なし。内容物は、白ザラ紙二枚にタイプされた檄文と、別紙の内容目次。ここに、その檄文を引用しよう。
「最近の思潮動向の御検討材料として御参考までに同封資料をお送り致します。
この『教育の森』構成草案は、毎日新聞が、『企業—の森朝刊第五面連載』の終了次第朝刊に長期間連載するものの説明であります。
その各項目をみますと、左翼偏向教育グループとして定評のある教育科学全国連絡協議会(略称・教科連・委員長勝田守一—千代田区神田錦町一の三〇平和ビル)の主張、表現をそのまま受け入れ、きわめて一方的な立場から、取材編集を進めていくことが明らかであります。
しかも、そのスタッフに名を列ねる藤田恭平、牧孝昌の両名は、共産党のフロント組織である日本ジャーナリスト会議のメンバーであり、毎日新聞学芸部内においても札つきの左翼として有名な存在であります。
また、村松喬は、さきに学芸部長時代にこれら左翼グループの接近を許し、同学芸部赤化の
原因をつくり、そのため管理能力欠除という理由で学芸部長を解任された人物です。