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読売梁山泊の記者たち p.158-159 日本のソ連通を総動員

読売梁山泊の記者たち p.158-159 戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。
読売梁山泊の記者たち p.158-159 戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。

一面、社会面ともトップの大ニュースを、三年も前にスクープしていた感激は、やはり終生、忘れることはできない。新聞記者のみが味わえる、このエクスタシーは、身をもって感じるしか、理解で

きないであろう。

昭和二十三年当時、吉田茂・兼任法務総裁の法務庁記者クラブに行った。その時のキャップは、ハンニャの稲ちゃんこと稲垣武雄だった。長い間の警察記者のボスであった稲ちゃんは、私を、当時の国警本部の村井順警備課長に紹介してくれた。

村井課長は、私のスパイ体験を、はじめて熱心に聞いてくれた最初の人物であり、竹内社会部長とも親しかった。竹内四郎が、私の我がままを、大きく許してくれたのには、村井順の推輓もあったのである。

六十三年一月十三日、七十八歳で亡くなり、二月五日の、晴天ながら寒い日に、青山葬祭場で、最後の別れを惜しんだが、村井順なかりせば、あるいは、稲垣武雄のような、先輩記者にめぐり合わなかったなら、「幻兵団」は、〝大人の紙芝居〟で終わったかも…。

昭和二十五年春、それこそ、四十年後の現在では、とうてい信じられないような、〈米ソ・スパイ合戦〉が、米軍占領下のトーキョーで展開されていた。首都東京のド真ン中で、当時七百万都民が、何気なく生活している時から、すでに米ソの、〝熱いスパイ戦〟がおこなわれていたのである。

ここで予備知識として、米国側の諜報機関の概略を説明しておこう。

連合軍の日本占領中、東京駅前の郵船ビルには、総司令部幕僚第二部(GⅡ)指揮下米軍CIC(防諜部隊)と、総司令官直属のCIS(対諜報部——軍の部隊ではない)とがあり、米大統領直属のC

IA(中央情報局)は、ほとんどメンバーもおらず、積極的な活動もしていなかった。

CICはその名の通り、軍内部で諜報を防ぐ部隊なのだが、その一部には、秘密諜報中隊があり、これが積極的にソ連の諜報網の摘発を行ない、CISがこれに協力していた。

さてこのCISは、全国の主要都市に、それぞれ要員を駐屯させていた。情報というものは、どんなに断片的で、小さなことでも、それが収集され、整理されると、そこには意外な事実さえ浮かんでくるものなのだ。

戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。これを押さえれば、日本の対ソ情報は真暗になる。とりもなおさず、アメリカの対ソ情報もつぶれる、というのが狙いで、ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。

そこで米国側にとっては、占領下にあった日本のソ連通を総動員して、旧軍の作戦参謀や情報参謀、それに憲兵、特務機関員、特高警察官などを、CICの秘密メンバーとせざるを得なかった。

そればかりでは足りない。ソ連引揚者に眼をつけるのは当然で、彼らほど最新の知識を持ったものはいないのだ。舞鶴引揚援護局内に一棟の調べ室を作り、二世の連中が分担して、引揚者の一人一人から情報を集めた。

そのために引揚者たちは、せまい小部屋で友好的に尋問され、いい話がでると、まず〝ひかり〟(当時のタバコ)がすすめられ、話が詳しければ、果物までが出された。

どんな服装の兵隊がいた。その記号、数、兵器は。貨物列車を見た。積荷、何両? こうして兵力分布や整備、移動までが分かり、工場の煙突の数や作業内容から、軍需生産の規模が判明する。