過去五年間の借入金合計をみてみよう。三十九年度九十億(三和三十七億)(端数四捨五入)、四十年度八十三億(三十三億)、四十一年度八十六億(三十四億)、四十二年度百億(三十四億)と、一度四十年度に下った数字が、以後はどんどん上っている。これも本田時代の三十五年度の五十五億からみれば、物価の上昇率を上廻っての、借入金激増であり、メイン・バンクの三和が、四十、四十一、四十二年度は三十三億台をもちつづけていたのにもかかわらず、借入金合計が上昇していることは、〝借りれるところすべてを借り廻っている〟感じで、四十三年度に、三和が三三八
六から一挙に四二三一と上昇すると同時に、トータルでは九九五〇から一二五二三(いずれも単位百万円)と、大膨張していることは、注目しなければならない。
この数字だけみても、毎日の調落ぶりは明らかである。本田から上田への政権交代が、三十六年一月だから、四十年度に合計で約七億(三和だけで四億)減らしたのは、上田の功績ともいえるが、有楽町から竹橋への移転は四十一年秋、つまり、有楽町の土地などを処分した時期なのだから、当然であろう。しかも、上田から現会長田中香苗、現社長梅島楨のコンビに変ったとたんに、借入金が二十六億もふえたのである。金融能力があったといえばいえようが、これでは、毎日新聞は全く斜陽の一途をたどっているとしかいえないだろう。しかも、発行部数は四百万の大台割れに近づき、読売の三倍の借金を抱えているのである。付言するならば、田中、梅島ともに、東京入社の東京系。本田、上田の大阪系に対する〝クーデター〟とみる所以だ。
東京拮抗の毎日人事閥
さて、数字による例証が、いささか長きに失したようである。角度をかえて、田中業績は未知
として、上田業績を眺めてみたい。
私が読売に入社した昭和十八年ごろ、朝日は早稲田、毎日は慶応でなければ、出世も登用もされないと、喧伝されていたほど、学閥華やかであったらしい。日大の私が、学閥なしで実力次第といわれていた、当時の読売をえらんだ理由の一つに、それがある。
ところが、上田時代の役員一覧表をみると、十六名の取締役に、三名の監査役、酒井衍(東大)、梶山仁(青学)、高原四郎(東大)と、十九名中、ナント東大が七名、京大二名、東北大一、商大三(東京、神戸、大阪)と官公立が十三名の過半数を占め、慶応はわずかに一名、早、明、青学、東亜同文、府立高工芸の各一名が続いている。「慶応でなければ人にあらず」どころか、官学にとって代わられているではないか。
さきごろ、停年退職した慶応出の毎日記者をたずねて聞いてみると、「今の毎日は変った。今や、役人と仲よくできる奴、つまり東大出でないとダメなんだよ」という。戦前に「三田会」(慶大出身者の会)を結成しようとして、同氏が社内を駈けまわったところ、「毎日三田会の会員でないと、人でないような傾向が出そうなほど、慶大出身の社員が多いから、会の結成はやめろ」と、社の幹部に注意されたという。ところが、同氏の停年間際になって「今度は人数が少ないから結成してもよい」と、お許しが出たのだ、と、同氏は嘆ずる。
かつての官尊民卑の時代、新聞記者はタネトリとさげすまれ、河原乞食である役者と同列にみ なされていた。