さらにこの春闘中、組合運動の名において終始行なわれた激しい個人攻撃。このまま、党の指
導に従って、組合運動をつづけてゆくならば、組合はどういうことになっていくのか。組合員の生活が真に守られるのかどうか。私は長い間、真剣に考え悩みぬいてまいりましたが、どうしても党の指導を肯定することができず、私はついに離党を決意したのです……
共産党の革命路線実現のために、組合員一人一人の生活が犠牲にされてもよいのだろうか。会社の一つや二つ、潰れてもよいという彼らの指導方針をウ呑みにして闘った、三星電機の組合員の悲惨な結末。また、英雄的に闘ったといわれる山陽労組が、いまどんな状態にあるか。それだけを思い起すだけで十分ではありませんか」
この近藤を中心として、二十六名の第二組合が生れたのである。岡本社長の印刷労組は、大正力の死とは全く関係なく、その後に、異変を示しはじめた。
母屋の報知新聞はどうか。務台直系の社長菅尾の補佐に、読売から長谷川がでていったことは前述した。代取副社長兼編集局長であるが、社会部出身、記者としても十分に有能な上に、読売で審議室長として労担の経験もある。記者時代は労働班長もやったという自信は、この破格の〝出陣〟に、なおのこと長谷川を張り切らせるのであろうか。八月末の異動で、務台のもとに挨拶にきた彼の顔は、晴れ晴れと満足気であった。
工場を別会社として分離している報知では、もちろん、編集が絶対的に中心である。ところが、
歴代の編集局長は、正力のサル真似ワンマン亨のもとで、その背後にある大正力をみつめながら、部下の方を振り向いてもみようとしなかった。そのため、報知では、部長層をさしはさんで、幹部と若手との間に、ポッカリと大きな断層ができてしまった。
部長クラスは、上からは叱りつけられ、下からは突きあげられ、読売へ逃げかえるか、読売出身でないものは、老後を考えて〝貯蓄〟に熱中するしかなかったのである。有名な話では、ある部長などは強度のノイローゼに陥り、社に上衣を脱いだまま失踪し、警察に捜索願まで出したところ、名古屋で発見されたという実例までがあった。報知で一番ミジメな人種は、部長クラスだったのである。
そこに、長谷川〝ニコポン〟局長の、副社長としてのさっそうたる登場である。局内はニワカに変り出した。
在来の意味からすると、〝ニコポン〟というのは、無能なる上司が、部下統卒のためにニコニコして近づき、肩をポンと叩いて、「君、今夜メシでも食おうじゃないか」と、いうことであった。
ところが、長谷川は決して無能ではない。無能ではないどころか、私も社会部の先輩として、敬意を払うに値するだけの実力のある記者であった。ところが彼は、社会部長を経たのち、次第に一般行政へと方向を転じ、彼の実力を惜しむ編集部内からは、「実ッツあん=通称=は、どうして編集局長として、筆政を目指さないのか」という声も出たほどである。