「なるほど。私が一番に感じたことは、少なくとも私の場合、新聞の時間的、量的(スペース)制約を考えても、新聞は真実を伝えていないということです。同時に、私もあのように、私の筆で
何人かの人をコロしたかも知れない、という反省でした」
「ウン。我が名は悪徳記者ッていう題はどうです」
「誰が、どうして、私を悪徳記者にしたんです。新聞ジャーナリズムがそうしたんだと思います」
「ヨシ、それで行きましょう。あなたの弁解もウンと入れて下さい。自己反省という、新聞批判も忘れないで下さい」
田川編集長は、「五十枚、イヤ、もっと書ければもっとふえてもいいです」と、仕事の話を終ると、柔らかな態度になった。
「三田君、覚えているかい? 小学校で六年生の時、一緒によく遊んだッけね」
「エ? じゃ、あの、田川君か!」
私はこの奇遇に驚いた。彼がまだ別冊文春の編集長のころ、会った時には、そんな話も出なかったし、また記憶もよみ返ってこなかったのである。
田川君の態度には、編集長としての、「悪徳記者」を取上げる気持と、それにより添うように、この落ち目の旧友に、十分な弁明の場を与えてやりたい、といったような、惻隠の情がにおっているようだった。
新聞というマンモス
「この記事は違っている。訂正してもらいたい」
「何処が違っているのです」
「当局ではこうみている、という形で記者の主観が入っている。当局とは何か、誰か、それを明らかにしてもらいたい」
「貴君が何時、何処で、いかなる理由で逮捕された、という事実を否定するのですか」
何というおろかなことだろう。私を「グレン隊の一味」に仕立てたかの如き、新聞記事に、抗議をしに各社を訪れたところで、その問答の中味は、このように判りすぎるほど判っていたのである。
担当の取材記者は、その社の応接室で、かつて私がしたように、私の抗議を突っぱねるに決っている。もちろん、決してウソは書いていないからである。
しかし、新聞記事というものは、好意をもって書くのと、ことさらに悪意をもたなくとも、好意を持たずに書くのとでは、読者へ与える印象には、全く雲泥の差がある。たった一行、たった一つの単語で、ガラリと変ってしまうのである。ことに、限られたスペースの新聞記事では、微妙な事件のニュアンスなどは全く消えさり、事実というガイコツだけが不気味に現れるのだ。
私は新聞記者である。新聞というマンモスを良く知っているつもりである。私の記事が真実で
はない、なぞと、蟷螂の斧の愚はやめよう。私は田川編集長の期待に応えて、面白い原稿を書こうと考えた。