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最後の事件記者 p.252-253 勝利の美酒に酔い痴れて

最後の事件記者 p.252-253 女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。
最後の事件記者 p.252-253 女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。

卒業の時、水戸高校の文科を受けた。受験勉強などはあまりしていなかったが、学科試験には

十分自信があった。発表を見に水戸まで出かけてゆくと、合格しているではないか。自信があったとはいえ、こんな嬉しいことはなかった。同行して理科を受けた漢方薬問屋の倅山崎という男と、祝盃をあげようということになったのが、間違いのはじまりだ。

当時は高等学校に入れば、大人の仲間入りである。二人は大人になったつもりで、水戸の駅裏にあったカフェー「ルル」という店に入って、はじめてタバコを吸い、ビールや酒を呑んだものである。おっかなビックリ、女の肩も抱いてみた。

深更、勝利の美酒に酔い痴れて、旅館に帰ってきたはいいが、どういうものか寝つかれない。私が反転すれば、山崎も寝返りを打つという有様で、雨戸のスキ間から朝日がさしこみはじめてようやくウトウトとした。

女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、文科は口試、理科は体検と別で、翌日はその逆だ。寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。曲りなりにも試験だけは受けさせてもらったが、結果はもちろんダメ。山崎も、カフェー「ルル」のせいか、卒業まで裏表六年かかるという始末だった。

「畜生メ、見ていろ」

浪人生活に入った私は、もう完全に演劇青年だった。やはり、五中の先輩のいた劇団東童で実践活動に入ってしまった。母親はこのグレた末息子に手を焼いて、徴兵の年がくると、「どうか、

学校だけはいっておくれ。お父さんに顔向けできないよ」と哀願した。

父亡きあとの長兄は、二高、京大理学部、東大大学院というコースの、徹底した官学主義者であった。「男は東大か京大、女はお茶の水にあらざれば人にあらず」といったコリ固りだった。だから、もちろん私の私大入学など認めようとしない。

徴兵逃れに、私は母の頼みで上智大学に入ったが、ドイツ語をサボったので二年に進級できない。私は演劇青年だから、落第したのを機会に、日大芸術科へ入学するといったけれども、長兄が「学資を出さない」と、日大入学を認めてくれない。

それを聞いた次兄が乗り出してきた。次兄は早大理工の、これまた徹底したアンチ官学派であった。「ヨシ、学資はオレが心配してやるから、その代り小遣いは自分でやれ」といって、私の日大入学を支持してくれた。

私は日大の芸術科に入ったが、その時、どんなつもりだったのか、演劇科や映画科をえらばずに、新設の宣伝芸術科というのを、専攻に選んでしまった。その理由は今では覚えていないが、時局はいよいよ急迫しており、国家宣伝という、与論形成のプロデューサーともいうべき、この科に何となく興味を覚えたものらしい。

私はこの日大で、作家三浦朱門の父、三浦逸雄先生に教わって、はじめて、ジャーナリズムへの開眼を受けたのだった。

「ヨシ、新聞記者か、少くともジャーナリストになろう!」