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最後の事件記者 p.256-257 長兄の官学主義にタテついていた

最後の事件記者 p.256-257 私はその入社成績を長兄に示していった。「どうです。東大も京大も、ポン大より下じゃないですか」と。官学派の長兄は、日大などはポン大といって、軽蔑していたのである。
最後の事件記者 p.256-257 私はその入社成績を長兄に示していった。「どうです。東大も京大も、ポン大より下じゃないですか」と。官学派の長兄は、日大などはポン大といって、軽蔑していたのである。

官学出と私学出

読売とNHKとからは、予期通り採用通知がきた。読売は約五百名の志願者から、十名を採用したが、一番が慶応、二番が私の日大、東大が五番、京大が七番であった。何故こんなことを覚えているかというと、わざわざ人事部へ行ってきいてきたからである。

それには魂胆があってのことだった。私はその入社成績を長兄に示していった。

「どうです。東大も京大も、ポン大より下じゃないですか」と。

官学派の長兄は、一時日大の講師をしたことがあって、例の日大騒動の時にやめたのだが、以来、日大などはポン大(ニッポン大学の真中をとった呼び名)といって、軽蔑していたのである。

私はこのような長兄の官学主義にタテついていたのであった。当時の日大芸術科がそんな立派な学校であったとは、私も思ってはいない。しかし、私は上級の学校教育の最大の価値は、良い先生と良い友人とを得られるかどうか、ということだと思っている。大学から得られる知識などは、独学でも得られるはずである。

例えば、読売には、社会部だけでも日大芸術科の先輩が二人もいて、それぞれ次長にまでなっていたし、学歴がなくても、名次長として後輩たちの信頼を集めている人もいた。

こんな話がある。東大法科を出た新米記者がいた。その記者は適性がなかったのか、いつまでもウダツがあがらず、いつまでもサツ廻り(警察廻り)であった。ある日、受持ちの警察へ行って

署長室へ入ろうとすると、巡査が彼をおしとどめた。

「今検事さんがきていらっしゃいますから、入らないで下さい」と。彼は、そんなにエライ検事とは、一体どんな奴だろうかと、ガラス戸ごしにのび上ってみると、何と東大時代の友人ではないか。彼は一介のサツ廻りであり、先方はエライ検事だ。その時ほど情なかったことはない、とコボしたそうだが、やがて、その記者は社会部という、新聞社の一流コースから脱落して、地方支局へトバされてしまった。

戦後の新聞記者熱で、入社試験は大変な盛況である。ところが、入社してくる顔ぶれをみると官学が圧倒的に多くて、私学が少なくなっている。大分以前のことだが、私たちは社の前の夜明し呑み屋で、新聞記者に私学出が少なくなることを嘆いて、気焔をあげていた。そこへ、人事部長が表を通りかかったものだ。早速引ッ張りこんで、「どうして東大ばかりをとるのだ」と、ネジこんだものである。

すると、人事部長は「これが入社試験の厳正さを証明するものだ。今の入社試験では、答案の書き方の技術からいって、官学のふえるのは当然だ」という。私どもは、この答えにグーの音も出なかったのであるが、新聞がつまらなくなってきた原因の一つにも、こんなことがあるのではあるまいか。

話をもとにもどして、私はこうして、一つ家にいながら、口も利かなかった長兄と、やっと仲直りしたのだった。昭和十八年秋のことだ。