もう十一年も前の記事で、今、よみ返してみると、ずいぶんオカシナところも目につくが、数年にわたる軍隊、捕虜生活を終って直後に、一夜で書いた原稿にしては、案外ボケてもいなかっ
たようである。
私のこの署名処女作品は、その日の記事審査日報で、こんな風にほめてくれたのだ。
「内容はこの方面の記事が、本紙に少ないだけに、きょうのものは読みごたえのある記事となった。もちろん、取材の上でシベリアの一部分だけの面であるが、しかし限定されているだけに内容が詳しく、かつ新聞記者の直接の観察であるだけに、表現も上出来だ。従って、三紙の中では 読ませる紙面となった」
この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、記者会見を行い、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明を行うほどの反響をまき起したのだった。
やがて、サツ廻りとして、上野署、浅草署を中心に、あの一帯を担当した私は、上野駅に到着する引揚列車に注目し、出迎えの老母や愛児にみむきもせず、代々木の日共党本部を訪問しようとする愛情のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープしたので、「反動読売の反動記者」という烙印を、ハッキリと押されてしまったのである。
だが、このレッテルは必らずしも当っていない。当時のニュースの焦点は、日共だったのである。シベリア印象記も、はじめに書いた抑留記が、森村次長によって、ボツにされてから、それでは今、何がニュースの焦点なのかを考えたのだ。
いや、考えたのではない。新聞記者としての第六感が、戦後の日本に帰ってきて、まだ数日しか経ってない私に、〝コレダ!〟と教えてくれたのであった。そして、生れたシベリア印象記で
ある。それが、キスレンコ声明などで反響を呼び起したのであった。私は、反動記者ではなく、〝ニュースの鬼〟だったのである。
かつて、築地小劇場の左翼演劇にあこがれ、左翼評論家に指導されて、官僚からジャーナリズムへ方向転換した私にとって、この名は皮肉なものだった。
私は反共記事ばかりではない。反右翼も、反政府も、反米も手がけた。それが、ニュースである限りにおいては、それこそ、体当りで突っこんでいった。私を、反動記者と攻撃する左翼ジャーナリズムが、私の書いた、反政府もしくは反米的な記事を、今度はその左翼系紙が「何月何日付の読売によれば」と、デマ、ウソと攻撃した記者の記事を、そのまま全面的な信頼のもとに、幾度か引用しているではないか。
恵まれた再出発
この最初の署名記事の、何にもましての反響は、この記事の結ぶえにしで、私と妻とが相逢ったのである。
私の略歴を読んで、自分の息子と同じ部隊だと知った義母は、消息のない息子の安否をたずねて、私の前に現れた。当時の私のもとには、毎日沢山の手紙と訪客とがあったのである。人妻も、老母も、若い娘も、その肉親と私とが、同じ師団だというだけで、何か消息がと、たずねてきていたのだった。