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最後の事件記者 p.284-285 九千五百七十一円の結婚式費用

最後の事件記者 p.284-285 私は結婚の決心を、その日に決めてしまった。竹内社会部長の仲人で、二十三年四月二十二日に高島屋の結婚式場で挙式した。
最後の事件記者 p.284-285 私は結婚の決心を、その日に決めてしまった。竹内社会部長の仲人で、二十三年四月二十二日に高島屋の結婚式場で挙式した。

本社勤務の遊軍記者をしていて、帝銀事件だ、寿産院だと、いろんな事件が次から次へと起る

のに追廻されながらも、私は、まだ消息さえなくて私に問合せてくる留守家族のために、調査しては手紙の返事を書き、慰めたり励ましたりしていた。

保定の同期生で、師団司令部付だった友人の消息を調べたのも当然である。そして、懸命の調査の結果、彼が元気でシベリアにいることを割り出した。私は、友人の家にはがきを出し、「消息がわかったから、お序の時に社におより下さい」といってやった。

そして、私は友人の妹と二人切りで、はじめて逢った。友人の消息を伝え、二十円のコーヒーと五十円のヤキリンゴを前に、シベリアの話がはじまっていた。時間があったので、映画をみることになり、帝劇でジャン・マレエの『悲恋』をみたのである。日記をみると、入場料四十円、ヤキリンゴよりも、帝劇の方が十円も安いのだから驚いた。

私は結婚の決心を、その日に決めてしまった。竹内社会部長の仲人で、二十三年四月二十二日に高島屋の結婚式場で挙式した。その時にはすでにサツ廻りとして、上野へ出ていたのである。高木健夫さんが、シベリア印象記の結ぶ恋と聞いて、「ウン、そりゃ、書けるナ」と冷やかされた。

こんな結婚話を書きつらねるのも、それから十年間、迂余曲折喜怒哀楽のうちに、新聞記者の女房として、横井事件でアッサリと社を投げ出してしまった時までの、彼女の気持も理解して頂かねば、私の生活記録として欠けると思うからである。

裸一貫の私には、貯金も財産もなかった。あったのは、職業と健康だけである。軍隊時代の封

鎖された貯金から千三百円、学生服を売って二千五百円、社の前借が二千円、それに各方面からのお祝いを九千六百円頂き、合計一万五千四百円の現金ができた。そして、九千五百七十一円の結婚式費用を投じて、二人は一緒になった。新居は依然として、兄の二階だった。新婚旅行なぞは、したくとも金がなかったので取止めた。

この結婚の当初から、私たちの新家庭は、いわゆる新婚家庭ではなかった。私が仕事に熱中していたからであった。当時の上野は、地下道時代だったから、全く犯罪の巣窟でもあり、ニュースの宝庫でもあった。

地下道時代

グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駆け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。だから新聞記者で、サツ廻りを経験しないのは不幸なことである。

ターバンの美代ちゃん、という、ズベ公のアネゴと親しくなった。今でいうスラックスをピッとはいて、向う鉢巻のターバンをしていて、年のころ二十二、三の、意気の良いアネゴだった。

ポケットに洋モクを一個入れて、ポリにつかまると、「洋モクをバイ(売)してるンだ」と逃げるが、実はパン助の取締り——ショバ代をまきあげて生活している。女の意地がたたないとなると、子分のズベ公を連れて、朝鮮人の家にでも、ナグリ込みをかけるほどの女だ。