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最後の事件記者 p.278-279 おそろしいNKVDの銃口

最後の事件記者 p.278-279 元気な若者は、真剣に北部シベリアから、アラスカへ出るアメリカへの逃亡を考えて、私を誘ったこともあった。
最後の事件記者 p.278-279 元気な若者は、真剣に北部シベリアから、アラスカへ出るアメリカへの逃亡を考えて、私を誘ったこともあった。

一トン積のトロ台数で計算される採炭量は台数の計算係を買収することによって、自由に作業成績を向上し得る。収賄と贈賄は活発に行われ、上司も部下も、自らの腹が痛むわけでもなく、

国家のをゴマ化すのであるから黙認する場合が多い。

記録上で完成されねばならない仕事も、事実は未完成なため仕事は延長され「失業のない国」の理想のみ実現されている。

死刑囚まで働かねばならないシベリアこそ、失業のない国の宝庫である。独ソ戦で独軍の捕虜となり、祖国戦勝の基を築いた二百万と称する勇敢な兵士たちは、米軍に接収されて、母国帰還と同時にシベリアに送られてしまった。

被占領地区で独軍に協力したという理由で、数多くの女子供が同様に送られてきている。また革命の時、現政権に好意をよせなかった人々も、囚人もみな五カ年計画によるシベリア開発に挺身しているが、彼らは何を感じ何を想っているだろうか。

     ×   ×   ×

帝政時代のクラーク(富農)の老人は、

「ツアーリのいた時は、生活もたのしかったし、食物にもこんなに不自由はしなかった。日本もミカドがいなくなったら、同じ目にあうからお前たちは可哀想だ」

と、帝政の昔をなつかしがり、独ソ戦の光栄ある捕虜の若者は、

「アメリカはすばらしい。うまい食べ物がたくさんあるし、よい服をくれたし、作業は楽だし、ほんとうにアメリカはよい国だ」

首に十字架を下げたウクライナの女は、

「私の夫はソ連兵に殺された。私の子供はどこかに連れさられた」と。

彼らは私とほんとうに二人切りの時に、語ってくれたのだった。彼らは知っている。身の廻りのどこにいるかもしれない、おそろしいNKVDの銃口を!

元気な若者は、真剣に北部シベリアから、アラスカへ出るアメリカへの逃亡を考えて、私を誘ったこともあった。ソ連側から放送される米ソ戦の危機は、全シベリア住民の関心をたかめているが、彼らはいう。「その時は銃をすてて投降するサ」と。

シベリアの親米反ソの胎動は、NKVDの黒い幕のかげで起りつつあるが、スターリンの恐怖独裁政治は、まだしっかりとその幕を押えている。

三百人もの、老若美醜とりどりの女たちの、半分以上がクツもはかずに、ぞろぞろと群れ歩く周囲には、自動小銃が凝らされているあの光景を想い浮べる時、ナホトカ港でみた船尾の日章旗と舞鶴湾の美しい故国の山河の感激、上陸以来の行届いた扱いと温かいもてなしとに、有難い国日本、美しい国日本と、目頭をあつくして、いまなおシベリアに残る六十万同胞の帰還の一日も早かれと祈るのであった。

反動読売の反動記者

もう十一年も前の記事で、今、よみ返してみると、ずいぶんオカシナところも目につくが、数年にわたる軍隊、捕虜生活を終って直後に、一夜で書いた原稿にしては、案外ボケてもいなかっ

たようである。

最後の事件記者 p.280-281 「反動読売の反動記者」という烙印

最後の事件記者 p.280-281 かつて、築地小劇場の左翼演劇にあこがれ、左翼評論家に指導されて、官僚からジャーナリズムへ方向転換した私にとって、この名は皮肉なものだった。私は反共記事ばかりではない。反右翼も、反政府も、反米も手がけた。
最後の事件記者 p.280-281 かつて、築地小劇場の左翼演劇にあこがれ、左翼評論家に指導されて、官僚からジャーナリズムへ方向転換した私にとって、この名は皮肉なものだった。私は反共記事ばかりではない。反右翼も、反政府も、反米も手がけた。

もう十一年も前の記事で、今、よみ返してみると、ずいぶんオカシナところも目につくが、数年にわたる軍隊、捕虜生活を終って直後に、一夜で書いた原稿にしては、案外ボケてもいなかっ

たようである。

 私のこの署名処女作品は、その日の記事審査日報で、こんな風にほめてくれたのだ。

「内容はこの方面の記事が、本紙に少ないだけに、きょうのものは読みごたえのある記事となった。もちろん、取材の上でシベリアの一部分だけの面であるが、しかし限定されているだけに内容が詳しく、かつ新聞記者の直接の観察であるだけに、表現も上出来だ。従って、三紙の中では 読ませる紙面となった」

この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、記者会見を行い、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明を行うほどの反響をまき起したのだった。

やがて、サツ廻りとして、上野署、浅草署を中心に、あの一帯を担当した私は、上野駅に到着する引揚列車に注目し、出迎えの老母や愛児にみむきもせず、代々木の日共党本部を訪問しようとする愛情のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープしたので、「反動読売の反動記者」という烙印を、ハッキリと押されてしまったのである。

だが、このレッテルは必らずしも当っていない。当時のニュースの焦点は、日共だったのである。シベリア印象記も、はじめに書いた抑留記が、森村次長によって、ボツにされてから、それでは今、何がニュースの焦点なのかを考えたのだ。

いや、考えたのではない。新聞記者としての第六感が、戦後の日本に帰ってきて、まだ数日しか経ってない私に、〝コレダ!〟と教えてくれたのであった。そして、生れたシベリア印象記で

ある。それが、キスレンコ声明などで反響を呼び起したのであった。私は、反動記者ではなく、〝ニュースの鬼〟だったのである。

かつて、築地小劇場の左翼演劇にあこがれ、左翼評論家に指導されて、官僚からジャーナリズムへ方向転換した私にとって、この名は皮肉なものだった。

私は反共記事ばかりではない。反右翼も、反政府も、反米も手がけた。それが、ニュースである限りにおいては、それこそ、体当りで突っこんでいった。私を、反動記者と攻撃する左翼ジャーナリズムが、私の書いた、反政府もしくは反米的な記事を、今度はその左翼系紙が「何月何日付の読売によれば」と、デマ、ウソと攻撃した記者の記事を、そのまま全面的な信頼のもとに、幾度か引用しているではないか。

恵まれた再出発

この最初の署名記事の、何にもましての反響は、この記事の結ぶえにしで、私と妻とが相逢ったのである。

私の略歴を読んで、自分の息子と同じ部隊だと知った義母は、消息のない息子の安否をたずねて、私の前に現れた。当時の私のもとには、毎日沢山の手紙と訪客とがあったのである。人妻も、老母も、若い娘も、その肉親と私とが、同じ師団だというだけで、何か消息がと、たずねてきていたのだった。

最後の事件記者 p.282-283 背広を母が請出していてくれた

最後の事件記者 p.282-283 幸い、戦災にもあわず、住居と衣類と、そして職も失われていなかった私は、いわゆるツイている方だった。
最後の事件記者 p.282-283 幸い、戦災にもあわず、住居と衣類と、そして職も失われていなかった私は、いわゆるツイている方だった。

私の略歴を読んで、自分の息子と同じ部隊だと知った義母は、消息のない息子の安否をたずねて、私の前に現れた。当時の私のもとには、毎日沢山の手紙と訪客とがあったのである。人妻も、老母も、若い娘も、その肉親と私とが、同じ師団だというだけで、何か消息がと、たずねてきていたのだった。

彼女の話を聞いて、私は保定で同期生だった彼の家族と知って驚いた。彼は師団司令部付だったので、或は? という、暗い予感がしないでもなかった。その老母の傍らで、心配そうに、マユをひそめている若い娘、その人が彼の妹だと紹介された。和子といった。

社に復職した私は、当然、また社会部へともどった。いくらかずつか、ずっと続いていたサラリーをためて、私が再び着ることはあるまいと、兵隊に征く前に、全部質屋にブチこんで飲んでしまった背広を、私の母が全部請出していてくれた。

幸い、戦災にもあわず、住居と衣類と、そして職も失われていなかった私は、いわゆるツイている方だった。

恵まれた再出発に、私はすっかり気負いたって、エライ新聞記者になりたいと願っていた。社の同期生はタッタ一人。そして学生仲間たちは、多く戦死し、女は嫁に行き、仕事に熱中する以外に、私には、興味を引かれる何ものもなかったのだった。

サツ廻り記者

印象記の結ぶ恋

当時、私は次兄の家の二階に、いわば下宿していた。次兄は早稲田の助教授をしていて、朝早く夜早い生活である。ところが、まだ夕刊のない時代なので、新聞記者の生活は、朝遅く夜も遅いという、生活のズレがあったのである。

深夜帰宅して、寝ている兄や義姉に玄関のカギをあけてもらうのは、大変心苦しいことだったが、住宅難時代なので、アパートはおろか、下宿さえもなかった。私はようやく結婚しようかと考えるようになった。

長い間、外地で生活してきた私には、まだモンペや軍服が銀座の表通りを歩いていて、少しもおかしくない日本だったけれど、女の人が美しく見えて仕方がなかった。第一、ナホトカ港で、引揚船の舷門に立って出迎えてくれた、日赤の看護婦さんの美しかったことは、それこそ眼も眩むばかりであった。

本社勤務の遊軍記者をしていて、帝銀事件だ、寿産院だと、いろんな事件が次から次へと起る

のに追廻されながらも、私は、まだ消息さえなくて私に問合せてくる留守家族のために、調査しては手紙の返事を書き、慰めたり励ましたりしていた。

最後の事件記者 p.284-285 九千五百七十一円の結婚式費用

最後の事件記者 p.284-285 私は結婚の決心を、その日に決めてしまった。竹内社会部長の仲人で、二十三年四月二十二日に高島屋の結婚式場で挙式した。
最後の事件記者 p.284-285 私は結婚の決心を、その日に決めてしまった。竹内社会部長の仲人で、二十三年四月二十二日に高島屋の結婚式場で挙式した。

本社勤務の遊軍記者をしていて、帝銀事件だ、寿産院だと、いろんな事件が次から次へと起る

のに追廻されながらも、私は、まだ消息さえなくて私に問合せてくる留守家族のために、調査しては手紙の返事を書き、慰めたり励ましたりしていた。

保定の同期生で、師団司令部付だった友人の消息を調べたのも当然である。そして、懸命の調査の結果、彼が元気でシベリアにいることを割り出した。私は、友人の家にはがきを出し、「消息がわかったから、お序の時に社におより下さい」といってやった。

そして、私は友人の妹と二人切りで、はじめて逢った。友人の消息を伝え、二十円のコーヒーと五十円のヤキリンゴを前に、シベリアの話がはじまっていた。時間があったので、映画をみることになり、帝劇でジャン・マレエの『悲恋』をみたのである。日記をみると、入場料四十円、ヤキリンゴよりも、帝劇の方が十円も安いのだから驚いた。

私は結婚の決心を、その日に決めてしまった。竹内社会部長の仲人で、二十三年四月二十二日に高島屋の結婚式場で挙式した。その時にはすでにサツ廻りとして、上野へ出ていたのである。高木健夫さんが、シベリア印象記の結ぶ恋と聞いて、「ウン、そりゃ、書けるナ」と冷やかされた。

こんな結婚話を書きつらねるのも、それから十年間、迂余曲折喜怒哀楽のうちに、新聞記者の女房として、横井事件でアッサリと社を投げ出してしまった時までの、彼女の気持も理解して頂かねば、私の生活記録として欠けると思うからである。

裸一貫の私には、貯金も財産もなかった。あったのは、職業と健康だけである。軍隊時代の封

鎖された貯金から千三百円、学生服を売って二千五百円、社の前借が二千円、それに各方面からのお祝いを九千六百円頂き、合計一万五千四百円の現金ができた。そして、九千五百七十一円の結婚式費用を投じて、二人は一緒になった。新居は依然として、兄の二階だった。新婚旅行なぞは、したくとも金がなかったので取止めた。

この結婚の当初から、私たちの新家庭は、いわゆる新婚家庭ではなかった。私が仕事に熱中していたからであった。当時の上野は、地下道時代だったから、全く犯罪の巣窟でもあり、ニュースの宝庫でもあった。

地下道時代

グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駆け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。だから新聞記者で、サツ廻りを経験しないのは不幸なことである。

ターバンの美代ちゃん、という、ズベ公のアネゴと親しくなった。今でいうスラックスをピッとはいて、向う鉢巻のターバンをしていて、年のころ二十二、三の、意気の良いアネゴだった。

ポケットに洋モクを一個入れて、ポリにつかまると、「洋モクをバイ(売)してるンだ」と逃げるが、実はパン助の取締り——ショバ代をまきあげて生活している。女の意地がたたないとなると、子分のズベ公を連れて、朝鮮人の家にでも、ナグリ込みをかけるほどの女だ。

最後の事件記者 p.286-287 矢田喜美雄記者が彼女を自宅に引取った

最後の事件記者 p.286-287 Mという変り者のパン助がいた。彼女は、仲間のパン助相手に、オムスビやオスシを売る行商をする。そして、七十八万円を貯金していた。彼女はしばしば襲われるようになった。
最後の事件記者 p.286-287 Mという変り者のパン助がいた。彼女は、仲間のパン助相手に、オムスビやオスシを売る行商をする。そして、七十八万円を貯金していた。彼女はしばしば襲われるようになった。

ターバンの美代ちゃん、という、ズベ公のアネゴと親しくなった。今でいうスラックスをピッとはいて、向う鉢巻のターバンをしていて、年のころ二十二、三の、意気の良いアネゴだった。
ポケットに洋モクを一個入れて、ポリにつかまると、「洋モクをバイ(売)してるンだ」と逃げるが、実はパン助の取締り——ショバ代をまきあげて生活している。女の意地がたたないとなると、子分のズベ公を連れて、朝鮮人の家にでも、ナグリ込みをかけるほどの女だ。

彼女の家に泊めてもらったことがある。何人か各社の記者も一緒だ。そして、夜中に彼女の部屋をのぞくと、彼女のスケ(情婦)という可愛らしい十七、八の娘と抱き合ってねていた。女同志の妖し気な情事が、どんなに激しいかを知って驚いたのもそのころのことだ。

Mという、決して美人でない変り者のパン助がいた。彼女は、客を引きながらも、決してムダに立っていない。仲間のパン助相手に、オムスビやオスシを売る行商をする。そして、七十八万円を貯金していた。

M紙の記者が、そのことをゴシップ欄で書いたものだから、サア大変。彼女はしばしば襲われるようになった。身体につけてもっていると思うのか、営業中にまでグレン隊が飛びかかる。

私と朝日の矢田喜美雄記者とが、人権問題だといって、M紙の記者を怒った。そして、相談したあげく、更生できるのならば、一石二鳥というので、とうとう矢田記者が彼女を自宅に引取ったのである。

矢田夫人も新聞記者だったから、こんなことができるのだが、普通の家庭ならば大変である。彼女は神妙に国立の奥にある矢田家に暮していたが、やがて一月もたとうというころ、お礼の書置を残して失踪した。再び上野に現れた彼女は、それから間もなく、北海道の商人で、定期的に上京する男の、東京ワイフに納ってしまった。

どうして彼女は、矢田家をとび出したのだろうか。私たちは矢田記者に聞いてみた。

「つまり、麻薬の禁断状態と同じらしいね。はじめの間は、遠慮して我慢していたのだが、やは

りやり切れなくなったらしい」

オカマの和ちゃん。彼女などはオカマといいながら、大変な美人であった。ある日、読売の婦人記者がオカマをみたいというので、上野を案内したことがある。途中で、和ちゃんに出会ったので、一緒に連れて、明るいレストランで三人でお茶を飲んだ。外に出て別れてから、婦人記者に「あれが、女形あがり、女形くずれじゃないよ。和ちゃんて子だ」彼女はエッと叫んで、信じ切れなかったらしい。

上野駅で、後から「隊長ドノ!」と呼ぶものがある。振り返ってみると、シベリアで一緒に苦労した旧部下の一人だ。聞いてみると、女とバクチで身を持ちくずし、高橋ドヤに転がり込んで上野駅でショバ屋をやっているという。これもヒロポンだ。

「カタギになりたい」という彼の希望に、私は家へ連れてきた。といっても六帖の下宿住いだ。一晩泊めてから、都の民生局へ交渉して、引揚者寮へ入れてやった。やはり、軍隊友達の佃煮屋さんに頼んで、その魚市場の売店の売り子にしてもらったが、彼も約一月で失踪してしまった。

カキ屋という、上野ならではの商売。ジドク屋である。ノゾキをしている男の補助をしてやるのだ。視神経と運動神経を同時に使うと熱中できないから、運動部門を担当する。

若い巡査の恋人をもつ、あんまりラシカラザル、パン助。彼女の結婚できない悩みを訴えられて、その三帖の部屋で夜を明かしたりした。警官の妻はパン助経歴があると不適とされて、上司が結婚を認めないし、結婚するなら退職しろと迫られる。

最後の事件記者 p.288-289 読売第一の名文家、羽中田誠次長

最後の事件記者 p.288-289 私は、毎日必ず一本の「いずみ」を提稿した。最高記録は一月で八本、三十本も提稿して八本載ったのが限度であったが、そのうちの二、三本は、必ず記事審査委の日報でほめられていた。
最後の事件記者 p.288-289 私は、毎日必ず一本の「いずみ」を提稿した。最高記録は一月で八本、三十本も提稿して八本載ったのが限度であったが、そのうちの二、三本は、必ず記事審査委の日報でほめられていた。

文章のケイコ

こんな、ノガミの住人たちのことを書いていたら、それこそキリがない。こうして、社会の最下層の、しかも、どちらかといえば法律をくぐっているカゲの人たちの、生活や意見も知り、警察の事件というものを学んでゆくのである。

もちろん、警察官たちとも親しくなる。これがニュース・ソースである。若い刑事もやがては昇任し、記者がヴェテランになってゆくころには、彼らも重要な地位を占めてくるのである。

私は文章のケイコにもと思って、サツ廻りの間中、毎日必らず一本の「いずみ」を提稿した。

「いずみ」というのは、社会面の一番下にある、小さなゴシップ欄である。この欄では、どんな大きな話も冗文は許されない。それこそ、サンショは小粒でも、あるいは寸鉄ともいうべき、文章が要求される。

そして、この欄には一本百円の取材費がついている。「いずみ」には、それらしいニュース・ヴァリューがある。これがなければ、どんな小話を持ってきてもダメである。

デカたちは、大事件のニュース・ヴァリューは、やはり判る。しかし、「いずみ」のそれは判りっこないのだ。だから、このネタを探すとなると、デカたちとの雑談しかない。その雑談の中で、ピカリと光るネタ、これを毎日一本みつけるということは、確かに大変な努力である。

しかも、折角、提稿しても、よそからもっと面白いネタがきていればボツだ。同じ程度なら、

文章で採否がきまる。それこそ、原稿の練習にはもってこいの場である。

私がこの「いずみ」を送稿すると、読売第一の名文家を謳われた、現娯楽よみうり編集長の羽中田誠次長が、講評してくれる。そして最後は、「大きな原稿も書けよ」だった。しかし、私の最高記録は一月で八本、三十本も提稿して八本載ったのが限度であったが、そのうちの二、三本は、必らず記事審査委の日報でほめられていた。

新聞記者の能力は、取材力と表現力とが車の両輪のようなものだと、前に述べた。だが、現実の新聞記者で、そのような能力のある人というのは、二、三割がいいところだ。

昔の記者は分業であった。着物を尻端しょりにしたのが、ハンテン、モモ引で、鳥打帽子の〝探訪〟が取材してくると、社に待ち構えている〝戯作者〟が、矢立の筆を取って、探訪の話を聞きながら、サラサラと美文調にまとめるのだ。記者がタネ取りとさげすまれた時代だ。

これで、果して、新聞は真実を伝え得るだろうか。当然、このような状態は打破されなければならない。しかし、私の先輩たちにも、このような表現力か取材力を欠いた人たちがいた。「何某さんが、原稿書いたのを見たことがあるかい?」後輩たちのこんなニクマレ口が自然に出てくるのだ。

メッセンジャー記者?

そして、それは現在にも引きつがれている。どんな能力も、日頃の練習なしにはのび得ない。

最後の事件記者 p.290-291 マージャンしていた方が良い

最後の事件記者 p.290-291 若い記者の多くが不勉強で努力をしようとしないのだから、新聞がつまらなくなるのも当然である。やがては、官庁の発表文を伝えるだけの、メッセンジャー記者時代になるのだろう。
最後の事件記者 p.290-291 若い記者の多くが不勉強で努力をしようとしないのだから、新聞がつまらなくなるのも当然である。やがては、官庁の発表文を伝えるだけの、メッセンジャー記者時代になるのだろう。

メッセンジャー記者?

そして、それは現在にも引きつがれている。どんな能力も、日頃の錬磨なしにはのび得ない。取材力も表現力も、月月火水木金金あるのみである。だが、今の記者諸君の多くは、それを怠っている。その理由は、(そんな努力をしたって)ひき合わない、ということである。

実際に、今はひき合わないことは確かである。社会秩序は安定し、動乱はのぞむべくもない。動乱の時こそ、社会部ダネが労せずして転がっているからであろう。

如何に新聞記者に、原稿が書けない奴が多いか、ということは、週刊誌はじめ、記者がサイドワークの原稿を書き得る雑誌の、編集者が一番良く知っているに違いない。

さきごろ、四、五人のサツ廻りの記者たちと一パイのビールをのんだ。「どうだ。この雑誌に原稿を書いてみないか」と、私がすすめたのだが、一人を除いて皆イヤだという。そんなことに時間を費すよりは、マージャンでもしていた方が良いというのだ。

また、ある事件を調べようと思って、その警察に出かけていったことがある。折よく、その署の担当記者に出会ったので、まず彼に聞いてみると、彼は知らない。すると彼は他社の記者から取材しようとした。

ところが、その記者も他社の記者のメモを借りて、それで社へ送稿したとみえて、その記者も知らない。やむなくその記者は、私を連れて、捜査主任のもとへ行ったが、その捜査主任の名前もよく知らない始末だ。サツ廻りが捜査主任と、オースという仲でなくて、何のサツ廻りであろうか。

これは九牛の一毛であるのかもしれないが、若い記者の多くが、このように、不勉強で、しか

も、努力をしようとしないのだから、新聞がつまらなくなるのも当然である。やがては、表現力も取材力もない記者、官庁の発表文を伝えるだけの、メッセンジャー記者時代になるのだろう。

『サンデー毎日』の特別号というのがある。話に聞くと、あの毎月の号を、企画会議で何々特集号と決ると、社会部のその関係の記者がより集って、請負制のような形で原稿をかくのだという。そのやり方はともかくとして、毎日の記者たちがそのため、取材から執筆まで、〆切に追われて苦しんでいるのをみると、記者の訓練にはよいことだと感じていた。どんなマージャン好きも、その時には手を出さないほどだからだ。

何故、何故、何故

私はこうして、いずみで文章のケイコをすると同時に、そのネタ探しで取材力を養っていた。上野を持つ他社の記者たちとは極めて仲良く遊んでいても、一たん仕事となると全く変った。今のサツ廻りが、クラブを設け、麻雀や花札に遊び呆け、幹事が次長の発表を聞いてきて、各社へ流すというやり方など、余程のゴミでないとやらなかった。

尊敬する先輩の一人、辻本芳雄次長は、当時のカストリ雑誌に、原稿を一生懸命書いている私をみて、忠告してくれた。「筆を荒れさせるなよ。荒とう無けいなことを書くと、筆が荒れるよ。雑誌原稿を書くなら、あとに残るもの、あとでまとめて本にできるようなものを書けよ」と。

私は筆の荒れるのを警戒して、カストリの中でも、エロなどの変なものは書かなかった。また あとに残るものをと心がけた。

最後の事件記者 p.292-293 日銀関係の事件が上野管内で起きた

最後の事件記者 p.292-293 「いい車ですね。これ何というの?」「ハイ、ビュイックです」「ヘェ、こんな車にのるのは、余ッ程エライ人なんですネ」「エエ、輸送課長サンです」「輸送課って、国鉄の?」「イエ、日銀です」
最後の事件記者 p.292-293 「いい車ですね。これ何というの?」「ハイ、ビュイックです」「ヘェ、こんな車にのるのは、余ッ程エライ人なんですネ」「エエ、輸送課長サンです」「輸送課って、国鉄の?」「イエ、日銀です」

私は筆の荒れるのを警戒して、カストリの中でも、エロなどの変なものは書かなかった。また

あとに残るものをと心がけた。辻本次長は、また、「新聞記者ってのは、疑うことがまず第一だ」とも教えてくれた。この〝疑うこと〟とは、旺盛な取材欲のことだ。ニュートンがりんごの落ちるのをみて、〝疑った〟ような、素朴な疑問の意味だった。ドリス・デイの「新聞学教授」ならば、何故、何故、何故、という、執ような疑問のことである。

その成功の例がある。夕刊のない時代だったので、もう十一時ごろであったろうか、私はいつものコースで上野署へやってきた。

署の玄関を入りかけて、私はフト、〝何故〟と感じた。署の前には、いつもならば、アメリカ払下げの、汚らしい大型ジープが停っているはずなのに、その日は立派な乗用車が二台もいる。それもピカピカにみがかれ、運転手が待っている。

何だろう? 誰だろう? と感じて、前庭にもどってみると、両方とも自家用車で、しかもナンバーが続き番号だ。私は何気なく一台の車に近づくと、運転手に話しかけた。

「いい車ですね。これ何というの?」

「ハイ、ビュイックです。もう古いんですよ。三十八ですから…」

「ヘェ、こんな車にのるのは、余ッ程エライ人なんですネ」

「エエ、輸送課長サンです」

「輸送課って、国鉄の?」

「イエ、日銀です」

「あ、そうか。いい車だな」

私は素早く判断した。日銀関係の事件が上野管内で起きた。上野駅? 輸送課長と結びつく。すると、現送箱、列車ギャングに襲われたかナ?

「お早う」

何気なく次席警部に挨拶したが、あまり反応はない。あまりあわてないところをみると、列車ギャングではなさそうだ。署内の各係をずっと歩いてみると、経済係の部屋が人でいっぱいだ。

——またヤミ米か。

そう思って、ガラス戸をあけると、中は背広ばかり、みな同じバッジをつけている。カツギ屋など一人もいない。

——ア、経済係だった。

中から刑事が立ってきて、「今、調べ中なんだ。あとにしてくれよ」と、追い出しながら小声で「上野の駅警備!」とささやいてくれたのである。

私は身をひるがえして、署をとび出すと、公衆電話で社電した。「上野で、日銀関係の事件です。すぐ写真を下さい」

札束の誘惑

上野の駅警備詰所に行ってみると、ここですべてが判った。日銀の新潟支店から、回収した古

紙幣を本店に送る現送箱二百箱に、新潟の警察官と鉄道公安官が護衛につきそってきた。ところが途中で、貨車内にコボれている米粒に疑問を持ち、開けろ、開けて事故が起きたら責任問題だと押し問答してきた。

最後の事件記者 p.294-295 もらって飲んで喰ってから書くンだ

最後の事件記者 p.294-295 「何だ。そんなウマイ話なら、オレも誘いにのって、あの車に乗るンだった。何しろ、相手が日銀じゃ、定めし酒池肉林。惜しいことをした」
最後の事件記者 p.294-295 「何だ。そんなウマイ話なら、オレも誘いにのって、あの車に乗るンだった。何しろ、相手が日銀じゃ、定めし酒池肉林。惜しいことをした」

札束の誘惑
上野の駅警備詰所に行ってみると、ここですべてが判った。日銀の新潟支店から、回収した古

紙幣を本店に送る現送箱二百箱に、新潟の警察官と鉄道公安官が護衛につきそってきた。ところが途中で、貨車内にコボれている米粒に疑問を持ち、開けろ、開けて事故が起きたら責任問題だと押し問答してきた。

ところが上野駅につくと、日銀側はサッサと本店に運びこんだので、駅警備の湯沢巡査が、そのトラックにのり、本店で開けさせてみたら、米二俵、木炭五俵、衣類などが出てきたというのだ。

かけつけてきたカメラマンに、米の写真をとらせていると、輸送課長がやってきた。

「これには、いろいろと事情もありますことですし、上司にも報告しませんと……。幸い車もありますことですから、席をかえてお話いたしたいと存じまして、一つ……」

要するに、モミ消しに料亭へでも連れて行こうというのだった。その夜、社へ上って聞くと、私の一報で、日銀本店に文書局長の談話を取りに行った記者は〝一見五万円程度〟の札束を出されたそうである。

「実際、あれをみた時は、クラクラッとしたよ。あの金がオレのポケットにあるとすると、今ごろは……」

「何だ。そんなウマイ話なら、オレも誘いにのって、あの車に乗るンだった。何しろ、相手が日銀じゃ、定めし酒池肉林。惜しいことをした」

ヘラズ口を叩いているのを、横で聞いた社会部長も乗り出してきた。

「バカヤロー。そんな時はもらって、飲んで、喰ってから書くンだ。アハハハ」

「部長、それじゃ〆切に間に合わないですよ。各社が書いたあとじゃ、札束も酒池肉林も、可能性ないですよ。ハハハハ」

結果として、夕刊がないため、各社も後追いはしたが、ウチが写真入りの、立派な、実質的スクープとなったのである。

戦争前のこと。蒲田の愛国婦人会がグライダーを献納するというので、六郷河原の式場に、先輩と一緒に出かけていった。来賓席に通されるや、若いイナセなお兄さんが、「御苦労さんです」といって、御車代と書いたノシ袋を出した。

どうしようかと思って、先輩を見ると、眼でもらっておけと合図する。裏を返してみると、金五円也と、なかなかの大金だった。ポケット

に納めはしたが、気になって式次第どころではない。

(写真キャプション 社会部記者ながら<風俗研究家>の芽が伸びて)

最後の事件記者 p.296-297 婦人科の女医として付近の娘を次々と

最後の事件記者 p.296-297 その母親を、一生懸命に口説き落したところ、「実は、娘が息を引きとる時、あの先生は男だった、と、何もかも話してくれました」と
最後の事件記者 p.296-297 その母親を、一生懸命に口説き落したところ、「実は、娘が息を引きとる時、あの先生は男だった、と、何もかも話してくれました」と

戦争前のこと。蒲田の愛国婦人会がグライダーを献納するというので、六郷河原の式場に、先輩と一緒に出かけていった。来賓席に通されるや、若いイナセなお兄さんが、「御苦労さんです」といって、御車代と書いたノシ袋を出した。
どうしようかと思って、先輩を見ると、眼でもらっておけと合図する。裏を返してみると、金五円也と、なかなかの大金だった。ポケット

に納めはしたが、気になって式次第どころではない。

やがて、次の愛国グライダー第何号の募金箱が、式場の参会者の間を廻されはじめたが、来賓席には廻ってこない。私は、ツト立上るや、ノシ袋のまま、その金を箱の中に入れて、やっと落ちついて取材をはじめたのである。考えてみれば、やはり、新聞記者も、検事や警察官と同じように、なりたてのころほど正義感が純粋で強いのだが、古くなると世馴れてきて、現実と妥協してくるものだ。

半陰陽の女医事件

「ナゾの女性」といって、半陰陽の男が、みてくれが女のため、女として育てられ、東京女子医大を卒業、婦人科の女医として、付近の娘を次々と犯していった事件も、最初は〝ニュートンのりんご〟だった。

上野署の防犯係で遊んでいると、一人の初老の人物がやってきた。


「実は御相談があって……」

若い刑事とダベっていた私だったが、主任と話しこんでいるその人の言葉のうち、

「全く、女が女にホレるなんて」という、短かい一言に私の注意力がヒッかかった。

あとで主任に聞いてみると、その人は付近の薬局の御主人。郷里からあずかって、医大に学んでるメイが、やはり付近の婦人科の女医と同棲同様、女同志だから構わぬが、何とか連れもどす

手はないか、という相談だったということだ。

ズベ公のアネゴの同性愛なら知っていたけれども、この話にはいろいろとオカシなところが多い。興味を持って調べてみると、付近の薬専の学生だった娘、旅館の娘、娘、娘と、今までにもその女医とアツアツの若い娘が多いのだ。

しかもその女医、家に風呂がないのに、いまだかつて銭湯へ来たことがないという。

——男に違いない。半陰陽だゾ!

私はピンときて、調べはじめた。そして、ついに確実な証言をとり得たのだ。やはり、付近の薬局の娘が、はじめはイヤがっていたのに、ついには同棲。しかも、入れあげたあげくに、結核で死んだという。その母親を、一生懸命に口説き落したところ、「実は、娘が息を引きとる時、あの先生は男だった、と、何もかも話してくれました」と、その話を詳しくしゃべってくれたのである。

こうして、グロテスクな〝宿命の肉体〟物語が、特ダネとなったのだが、毒牙にかけられるべき幾人もの娘さんたちを救ったはよいが、その先生は夜逃げ同様に引越してしまった。思えば先生も可哀想だった。

女医事件後日譚

ところが、この事件には後日譚がある。その年の夏、新婚旅行もしなかった私たち夫婦は、父

の墓参もかねて盛岡へ旅行した。

最後の事件記者 p.298-299 〝女医〟先生の愛人に出会ってしまった

最後の事件記者 p.298-299 その伯父さんが、二人の仲を無理に割いて、岩手医大に転学させたということを知っていたので、顔をみた瞬間、「ア、彼女だ」と、即座に気がついた。
最後の事件記者 p.298-299 その伯父さんが、二人の仲を無理に割いて、岩手医大に転学させたということを知っていたので、顔をみた瞬間、「ア、彼女だ」と、即座に気がついた。

女医事件後日譚
ところが、この事件には後日譚がある。その年の夏、新婚旅行もしなかった私たち夫婦は、父

の墓参もかねて盛岡へ旅行した。

そのある日、せまい盛岡の道路で、バッタリと、〝女医〟先生の愛人に出会ってしまったのである。私は、署に相談にきたその伯父さんが、二人の仲を無理に割いて、岩手医大に転学させたということを知っていたので、顔をみた瞬間、「ア、彼女だ」と、即座に気がついた。何しろ、彼女の先生への打込み方の凄いのを知っていた私は、こんなところで喰いつかれたら大変だと、足手まといの妻をつれていただけに、いささかあわてたものだった。

記事にする前に、すっかり取材を終えて、最後に先生にインタヴューにでかけた。デスクは心配して、先輩記者を一人つけてくれたのである。相手は医者だから、怒ったら硫酸ぐらいブッかけられるゾ、と、散々おどかされたので、医院の前にとめた車は、エンジンのかけっぱなし。

ドアもあけておいて、キャッといって逃げこんだら、即座にスタートしてくれと、運転手とも打合せて、いよいよ乗りこんだ。出てきたのが彼女である。

名刺を出して、面会を求めると、先生が出てきた。タバコをくわえ、「何御用?」と、気安く玄関に立って、パチッとライターをすった。

その瞬間、ヴェテランのカメラマンは、ほとんど同時にフラッシュを輝やかせた。私たちは、怒ったら飛び出そうとハッとして先生をみると、写真をうつされたのを気付いていないらしい。ライターの光とフラッシュとが完全にダブったのだ。

さて、いろいろ質問をはじめたところ、先生は「愛情の自由」を主張する。彼女も、側に座っ

て、うなずきながら相槌をうつ。

そして、この調子ならと、カメラマンがスピグラを構えたとみるや、彼女はサッと仁王立ちに先生の前に立ちはだかり、大喝一声。

「何をするのッ!」

その時の印象は、小柄な女性なのに、仁王立ちとか、大喝一声とかがピッタリするほどであった。

「アッ!」と叫んで、私たちが腰を浮かした時には、カメラマンは素ッ飛び出して、車でブブブッと逃げてしまった。

その彼女と、せまい道でバッタリだから、私があわてたのもムリはない。しかし、彼女はすぐには気付なかった。

いぶかしげに、スレ違ってからも、何度も何度も振り返り、ついには立止って考えこむ有様。逃げ出したら怪しまれて、追いかけられたら大変と、何も知らない妻をせかせながら、全神経を背後に配って、足早やに立去る時の気持ちは、夢の中で逃げ出すようなもどかしさであった。

何しろ、この事件以来、私はすっかり半陰陽のオーソリティになって、法医学に興味を抱きはじめたのだ。

何といっても、サツ廻りというのは、一国一城の主。これほど記者として面白い時代はないの

に、サツ種のスクープが各社とも少しも見当らないのが不思議でならない。これならば、サツ廻りなどやめてしまった方が、人の使い方としては効果的である。