私もこれに同行して、データを集めはじめた。出迎え党員の数も、逐次ふえていき、それに比例して、〝代々木詣り〟の引揚者もふえていった。約一カ月、一日おきに千名近い引揚者を迎える上野駅での、引揚者に関する細かな資料が出来上った。私は、これを社会部長に示して説明した。グラフも作ったのである。
「部長、この傾向がこの通り激しくなってゆきます。こちらが、出迎えの党員数です。これは、もっともっと激しくなり、事件になるか、事件を引起すと思います」
竹内部長は、こんな風に資料を収集、整理して、それを示しながら事件を予想するような記者は、はじめてだというような顔をしていった。
「それで?」
「予告篇とでもいったような記事を、今のうちに書いた方がいいと思います」
こうして、私は七月二日の新聞に、「先月既に八百名、復員者代々木詣り」という見出しの記事を書いた。それに対して、早速、引揚者の一人、という署名の投書がきた。
「貴紙に、先月既に八百名、という見出しで、共産党の引揚者に対する活動が、まるで犯罪を行っているように、デカデカと書かれていましたが、あれはいったい、どういうことなのですか? 云々」
私はその人に対して、叮寧な説明の返事を出した。「どうして犯罪のような記事だと、お考えになるのですか。立派な社会現象ではないですか」と。
やがて、この〝代々木詣り〟は事件となって現われてきた。上野駅での、肉親の愛の出迎えをふみにじる、すさまじいタックル、女学生の童心の花束は投げすてられるという騒ぎだ。そして京都駅での大乱闘、舞鶴援護局でのストなどと、アカハタと日の丸の対立まで、何年にもわたっての、各種の事件を生んだ、そもそもの現象だったのであった。
私の名はソ連スパイ
この一件が、私の新聞記者としての能力が、竹内部長に認められるキッカケだった。私は、その記事のあとで、「部長だけの胸に納めておいて頂きたいのですが、調査の許可を頂けませんか」と、申し出た。
「…実は、ソ連側では、引揚者の中にスパイをまぎれこませて、日本内地へ送りこんでいるのです。それが、どのような規模で、どのように行われており、現実にどんな連絡をうけて、どんな仕事をしているかを、時間をかけて、調べてみたいのです」
「何? スパイだって?」
「ハイ。きっと、アメリカ側も、一生懸命になって、その摘発をやっているに違いないと思います。米ソの間にはさまれて、日本人は同胞相剋の悲劇を強いられているに違いないと思います。だから、大きな社会問題でもあるはずですし、戦争が終ってまだ数年だというのに、もう次の戦闘の準備がはじまっていることは、日本人にも大きな問題です」
「それで、調べ終ったら、どうするつもりだね」
「もちろん、書くのです。書き方には問題があると思いますが!」
「書く? 新聞の記事に? ウン。書く自信があるか」
「ハイ。私は新聞記者です」
「ウーン。よし。危険には十分注意してやれよ」 部長は許可してくれた。それから、私のソ連スパイ網との、見えざる戦いがはじまったのであった。