作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。
私はうながされて、その中佐の前に腰を下した。中佐は驚くほど正確な日本語で、私の身上調
査をはじめた。本籍、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら、私の答えを熱心に記入していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々私に鋭い視線をそそぐのが不気味だ。
私はスラスラと、正直に答えていった。やがて中佐は一枚の書類を取出して質問をはじめた。フト、気がついてみると、その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。
「ナゼ日本新聞で働きたいのですか」
中佐の日本語は、叮寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持の良い日本語だった。中佐の浅黒い皮膚と黒い瞳は、ジョルジヤ人らしい。
「第一にソ連同盟の研究がしたいこと。第二に、ロシア語の勉強がしたいのです」
「宜しい。よく判りました」
中佐は満足気にうなずいて、「もう帰っても良い」といった。私が立上って一礼し、ドアのところへきた時、今まで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼びとめた。
「パダジジー!(待て)今夜、お前は、シュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。炭坑の作業について質問されたのだ。いいか、判ったな!」
見知らぬ中佐が、説明するように語をついだ。
「今夜、ここに呼ばれたことを、もし誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、私のもとにきたことは、決して話してはいけない」
と、教えてくれた。
こんなふうに言い含められたことは、今迄の呼び出しや調査のうちでも、はじめてのことであり、二人の将校からうける感じで、私にはただごとではないぞ、という予感がしたのだった。
見知らぬ中佐のことを、その後、それとなく聞いてみると、歩哨たちは〝モスクワからきた中佐〟といっていたが、私は心秘かに、ハバロフスクの極東軍情報部員に違いないと思っていた。
偽装して地下潜入せよ
それから一カ月ほどして、ペトロフ少佐のもとに、再び呼び出された。当時シベリアの政治運動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という、積極的な動きに変りつつある時だった。
ペトロフ少佐は、民主グループ運動についての私の見解や、共産主義とソ連、およびソ連人への感想などを質問した。結論として、その日の少佐は、「民主運動の幹部になってはいけない。ただメンバーとして参加するのは構わないが、積極的であってはいけない」といった。
この時は、もう一人通訳の将校がいて、あの中佐はいなかった。私はこの話を聞いて、いよいよオカシナことだと感じたのだ。少佐の話をホン訳すれば、アクチヴであってはいけない、日和
見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。