カキ屋という、上野ならではの商売。ジドク屋である。ノゾキをしている男の補助をしてやる
のだ。視神経と運動神経を同時に使うと熱中できないから、運動部門を担当する。
若い巡査の恋人をもつ、あんまりラシカラザル、パン助。彼女の結婚できない悩みを訴えられて、その三帖の部屋で夜を明かしたりした。警官の妻はパン助経歴があると不適とされて、上司が結婚を認めないし、結婚するなら退職しろと迫られる。
文章のケイコ
こんな、ノガミの住人たちのことを書いていたら、それこそキリがない。こうして、社会の最下層の、しかも、どちらかといえば法律をくぐっているカゲの人たちの、生活や意見も知り、警察の事件というものを学んでゆくのである。
もちろん、警察官たちとも親しくなる。これがニュース・ソースである。若い刑事もやがては昇任し、記者がヴェテランになってゆくころには、彼らも重要な地位を占めてくるのである。
私は文章のケイコにもと思って、サツ廻りの間中、毎日必らず一本の「いずみ」を提稿した。
「いずみ」というのは、社会面の一番下にある、小さなゴシップ欄である。この欄では、どんな大きな話も冗文は許されない。それこそ、サンショは小粒でも、あるいは寸鉄ともいうべき、文
章が要求される。
そして、この欄には一本百円の取材費がついている。「いずみ」には、それらしいニュース・ヴァリューがある。これがなければ、どんな小話を持ってきてもダメである。
デカたちは、大事件のニュース・ヴァリューは、やはり判る。しかし、「いずみ」のそれは判りっこないのだ。だから、このネタを探すとなると、デカたちとの雑談しかない。その雑談の中で、ピカリと光るネタ、これを毎日一本みつけるということは、確かに大変な努力である。
しかも、折角、提稿しても、よそからもっと面白いネタがきていればボツだ。同じ程度なら、文章で採否がきまる。それこそ、原稿の練習にはもってこいの場である。
私がこの「いずみ」を送稿すると、読売第一の名文家を謳われた、現娯楽よみうり編集長の羽中田誠次長が、講評してくれる。そして最後は、「大きな原稿も書けよ」だった。しかし、私の最高記録は一月で八本、三十本も提稿して八本載ったのが限度であったが、そのうちの二、三本は、必らず記事審査委の日報でほめられていた。
新聞記者の能力は、取材力と表現力とが車の両輪のようなものだと、前に述べた。だが、現実の新聞記者で、そのような能力のある人というは、二、三割がいいところだ。