眠れる湘南の砂丘6万坪
三十九年二月五日現在の第一回印刷物、九日後の内山知事を加えた第二回、そして、三月三日の創立総会を経て、株式代金払込期限の四月六日翌日現在の第三回目まで、僅かこの三枚のリーフレットが、ランド側の思い上りと、それをめぐる騒然たる物情とを、雄弁に物語るのだから面白い。
企画の公表と同時に、御喜家氏は〝怪文書〟の渦に包まれた。氏の〝財界人動員力〟をねたみ、羡しがり、他人の出世や成功を憎む、そんな下品な奴は、どこの社会にもゴロゴロしているものである。もちろん、彼の過去に、意識するとしないに拘らず、多くの敵をつくったこともあるだろう。
モメはじめると、〝金持ケンカせず〟の原則により、名を並ねた財界人たちの間に不安が起り、株式代金の払込は、遅々として進まなかった。第一期払込みの百万株に対し、半分弱の四十二万九千五百株しか集まらなかった。
締切日の翌四月七日、田川議員は衆院決算委で、大蔵省江守管財局長に、この辻堂海岸の国有地六万坪に関して、内山知事が同社の発起人である事実を示して、いうなればヤミ取引をし
ているのではないかという、大義名分の通った、ランド反対ののろしを上げたのである。
単なる事実の羅列にすぎたので、解説を加えねばならない。
まず、辻堂海岸六万坪の土地の件である。旧海軍演習場であったこの一帯約二十八万坪の砂丘は、戦後、米軍演習場に接収された後に、三十四年解除となった。すると、各方面から貸付けやら、払下げやらの申請が出てきたので、大蔵省は諮問機関である国有財産関東地方審議会に諮った結果、三十五年十一月に処分を決定した。
住宅公団(五万坪)、汚水処理場(三万坪)、相模工業学園(三万坪)、公務員住宅(一万坪)、学校用地(二カ所二万坪)、国道、砂防林、街路など(七万坪)と、問題の県立公園(六万坪)、という内容で、ランドはこの県立公園分を予定している。
公園を除いた他の土地は、処分が決まると早速事業を進行しはじめたのだが、神奈川県だけは、何故か国との契約すら結ばないで、そのまま放置していた。大蔵省の催促に対して、県は三十九年三月十六日付の文書で、「公園とすべく検討中だったが、サイエンス・ランド建設の申し出があり内容が立派だから、県の施設計画は取止めて、ランドの建設を促進するから宜しく。無償貸付の申請書は当方の趣旨を認めてくれた後に取下げる」(要旨)という、内山知事名の返事を、実に三年四カ月振りに出したものだ。
大蔵省の厳しい催促状が、県へ出されたのが一月七日、ランドの第二次リーフレットに知事
の名前ののったのが二月十四日、そしてこの返事が、創立総会後の三月十六日というこの日程も見逃せない事実である。