この時の設立発起人代表の十四氏以外の、「発起人として御協力を頂く旨の御承諾を得ております」名簿は、実員九十九名、帝国石油岸本社長が抜け、森永製菓森永社長、山陽パルプ難波社長の二氏が新加入している。この時期には、ついに会社の設立が叶わなかったのは、前にのべ
た通りである。
芝山氏は、まず第一番に、財界人の一致団結(意思統一と協同動作)と、御喜家氏の引退とを求めて、それ以外に、ランド前進の可能性はないことを警告した。いうなればコンサルタントである。
その結果、会社側は顔見世オールスター・キャストをやめ、ユニット・プロでゆくことになった。〝総会屋〟のボロ儲け仕事という印象を払拭し、まともな財界人のまともな事業という線を打ち出してきたのである。従って、お付合い気分の人には遠慮してもらい、ヤル気のある人で再編成したのだ。
それが文書の一、三十九年八月十七日付の大蔵大臣あての、連名陳情書となった。その署名をみると、前記十四名のうちから、社長市村清氏を筆頭に、長沼弘毅、藤井丙午、松原与三松、本間嘉平、藤井深造、岡崎真一の七氏が残り、新たに、平木信二(リッカーミシン社長)、駒井健一郎(日立製作所社長)、藤川一秋(東都製鋼社長)、安西正夫(昭和電工社長)、五島昇(東急社長)の五氏が加わり、計十二名。
「何卒如上の経緯御賢察の上、本事業のため当該地を確保出来ますよう、格別の御配意を賜り、茲に一同折入って陳情申上げる」次第を、田中蔵相に頼込んだ。百名に及ぶ一流スターのけんらん豪華さはなくとも、自署捺印したこの十二名の連名には、いままでと違って、ヤ
ル気が感じられる、「責任」をアッピールしている。これこそ、さきの市村社長の〝決意〟を裏付けるものであった。
だが、国有地払下げ問題は、当時の政治情勢を反映して、困難となり、それから一年して、ついに株式会社「サイエンス・ランド」は解散となる。
この解散が問題である。その間に、御喜家氏は「怪文書」をバラまいた犯人として逮捕され、略式罰金刑をうける。田川議員の告訴からである。
解散によって、一流各社が分担し、払込んだ株式代金はどうなったか。誰が漁夫の利を得たか。財界人のうちには、個人で自分の社にランドの株式代金を弁済した者もいれば……。世はさまざまである。
「百名に余る財界トップの方々が、一部の妨害にくじけるようなことがあれば、日本財界に取り返しのつかぬ汚点を残すことになります……。いかなる迫害、妨害にもめげず、私は断乎やり通すことを、ここに誓約いたします」
昭和三十九年四月七日、東京会館での、サイエンス・ランド創立総会(結局は流会となった)で、こう語った市村清社長は、今、この挨拶を再録されて、何と感ずるであろう。〝市村学校〟の崩壊とも併せ考えると、口先ばかりの奴というものの、人間的な値打ちが判ろうというものである。