当初は補助金も貰って多少の活動はしていたらしいが、最近では全くの休眠団体。これに眼をつけたのが政界に縁の深い月刊J誌のHという人物で、同協会の飯島事務局長と語らって、中央観光の小島社長のところへ話を持ちこんで来た。小島社長は、手詰りの事業を、この協会
を利用して拡大しようという目論見をした。
そのため架空の理事会が開かれ迫水久常理事が議長として、小島徳司氏を理事長に選任するというはなはだ奇怪な事実もあったのち小島氏は斡旋料と整理用資金三百万円(これも手形で結局不渡りにした)を払って、理事長の椅子に納まった。しかし、この人事で各理事の承諾書に使ったのが実は偽造印だったため、この乗っ取りはついに成功しなかった。
しかし、この協会の理事長という肩書が小島氏の本業である「中央観光」の会員加入に大きな効果をあげていたようである。
「中央観光」本社ビルは赤坂見付から青山通りを三宅坂方向に約二百メートル、七階建ての威容を誇っている。資本金二千四百万円。事業は、厚生施設に恵まれない中小企業を対象に、会員制でレジャー施設をつくる、というもの。
会員会社数は、中央観光側では約七百社(加入会員数一万人)ということになっているが、栗田氏の調査では二千五百社(六万人以上)。中央観光元社員千田氏によると、「少くとも二千三百社はある。この会員名簿は社内でも極秘扱いにされており、二~三冊くらいしかないのではないか。小島社長以外に知っているのは一人か二人だろう」と、すこぶる異状な隠蔽ぶりを語っている。金融筋もツカんでいないだけに、この会員預り金は推定するほかないが、約四億五千万円とみられている。
数億の現ナマを呑む男
設立は三十七年十一月。初代社長には進藤一馬氏(自民党代議士=福岡一区)をカツいで、小島氏は常務であった。三十八年、中央観光がようやく確保した箱根の建設用地が、資金面の手詰りで担保流れになろうとした時、進藤一馬氏は人を介して京成電鉄に融資を依頼したことがある。京成電鉄は直接融資を見合わせ、子会社京成開発を通し、さらに大橋富重氏(興和建設社長)を介して、四千五百万円を融資した。
この土地は、中央観光から一時的に大橋氏の名儀に変り、大橋氏はこの土地を担保に平和生命から三億円を借り出した、といわれる。
第一事業所の箱根ドリームセンター(神奈川県箱根町強羅)は、このような曲折ののち三十九年に一応完成。四十年一月の発足レセプションには、川島正次郎自民党副総裁が挨拶し、「政府のやる仕事を代ってやっている事業で、大変意義深い。房総の第二事業所の建設は、地元のことでもあり全面的に協力する」と約束する一コマもあって、会員の信頼を巧みに得ていた。
好調に気を良くした中央観光では、四十年二月から「南房シーサイドセンター」建設計画(千葉県勝浦)なるものを大々的に宣伝、中小企業から約八千万円を集めたが、用地を買った だけで計画はズルズルと延び、着手時に倒産となった。