社史にはない二度のスト
ここでもう一度、読売の社史にふれておかなければならない。これは、昭和四十年版の日本新聞年鑑によるもので、読売の報告にもとづいたものである。
「本紙は明治七年十一月二日、芝琴平町の日就社から創刊された。題号の『読売』は三百数十年前から、京阪や江戸の町で売られていた〝読売瓦版〟に由来するものである。
当時、他の新聞がむずかしい文章で、政論をたたかわすのを主としていた中に、本紙はふりがなつきの読みやすい、大衆向きの新聞を作って人気を得た。
十年三月、銀座一丁目京橋のたもとに移転、二十年代にはいって高田早苗、坪内逍遙が相ついで主筆となるにおよび、文芸新聞としての色彩を濃くし、幸田露伴、尾崎紅葉が入社、後には泡鳴、秋声らの自然主義運動の本拠たるの観を呈した。
関東大震災では、全焼の厄にあったが、翌大正十三年二月、正力松太郎が第七代目の社長とな
るや、独創的な企画や紙面の刷新によって、驚異的な発展をとげるにいたった。
昭和十五年には九州日報、山陰新聞、十六年には長崎日々、静岡新報を合併し、十七年には樺太の四新聞を統合して、本社経営のもとに樺太新聞を創刊し、同年八月には、長い歴史のある報知新聞を合併して、題号を読売報知と改めた。
第二次大戦の終りごろ、軍部の新聞統合案に対し、正力は身をもってこれに反対し、辛くもその実現をはばんだが、昭和二十年十二月、戦犯の容疑を受けるに及んで社長を退き、後任に馬場恒吾を推して社長とした。
二十一年五月、題号をもとの読売新聞に改め、二十五年六月、有限会社を株式会社に改組して、資本金を二、四三〇万に増資。二十六年一月、馬場が退き、安田が代表取締役副社長に就任。二十七年十月には大阪読売新聞社を創立し、年来の素志たる関西進出を実現した。
二十九年十一月、創刊八十周年を迎えるに当たり、資本金を一億四、五八〇万に増資した。三十年二月、安田死去し、代わって務台光雄が代表となった。
同年四月、英字日刊紙ザ・ヨミウリを発刊、同年六月、高橋雄豺が代表取締役副社長に就任した。
三十二年五月、読売会館を建設、三十三年七月一日、株式会社日本自動車会館を合併して、資本金一億五、三三〇万となった。三十四年、北海道支社を開設し、タイムズ式ファクシミリを用
いて、東京最新版の現地印刷を開始した。
昭和三十八年八月、朝刊十六ページ、夕刊十ページ建てで、三○○万の発行にせまられ、第二別館を建設、超高速度輪転機を四十八台とした。三十九年九月。北九州市小倉区に西部本社を創立、九州進出を実現した」