この第一次、第二次争議の、詳しい事情は、「組合史」が文献中心の表現をしているのに対し、赤沼三郎「新聞太平記」(昭和二十五年、雄鶏社)(注。読売政治部出身の政治評論家花見達二のペンネームといわれる)は、このストの経過について、正力、高橋、務台、八反田、岡野、品川、清水らの現存幹部たちの役割りについてまで、情景タップリに叙述しており、馬場は主筆に迎えた岩淵辰
雄の提案をうけて、廃刊の決意を固めたという。七月十四日、新聞が停った日だ。
「『赤色新聞として汚名と害毒を世に流すよりも、いまここで七十年の読売の歴史を完全に閉じるが良い。そして読者にもお詫びしたい。そのつもりで全従業員に訴えたい』
聞いていた重役は、みな泣いた。品川重役はたまりかねたか、
『社長、そんなことは思いとどまって下さい。わたしが今一度、工場へいって頼んでみますから……』
拳で涙をぬぐって出ていこうとする。もうそんなことが、なんの効果もないことは、みんなよく判っていた。
……輪転機は鳴りやんだ。新聞発行は停った。工場は暗黒になった。射るような夏の西日が、葬儀車のようにならんだ発送トラックを照らしつけた。工場は乗取られた。
……千九百名の社員が大ホールに集められた。空爆でただれ焦げた大ホールだった。馬場は壇上に立った。
『光栄ある伝統の本社も、ここに七十年の歴史を閉じるほかない。世の指弾をあび、蔑視の渦中にさらされて、何で読者大衆にまみえる顔があるであろう』
馬場は壇上で泣いた」
このあとに工場奪取の提案がなされ、青年行動隊が組織される。活字ケースをひっくり返されないため、千三百人の再建派が、青行隊を先頭に、四百人の籠城する工場を攻撃しようというのだ。当時は用紙割当制時代だから、すでに三日の休刊、活字ケースがバラされたら、さらに十日も休まねばならない。そしたら、割当てがなくなる。自然廃刊になるという危機感が、みなをいらだたせる。
「『万一の場合、死んでくれるものが、青行隊のなかに何人あるのか、すぐ調べてくれ』
それはもう真夜中であった。事は急を要し、秘密を要する。……青行隊の鈴木、鹿子田が、決死の覚悟の青年を点呼してみると、十三名あった。武藤委員長の前に、ひとりひとり呼ばれた。
『大丈夫か、やってくれるか』
『お父さんはいるか? お母さんは?』
そして、つぎつぎ固い約束が交わされた。さすがに、家族のことを口にすると、みんなおたがいに涙が流れた。
工場の二つの入口から、七名と六名が突入して活字の馬を奪還する。……青行隊が、活字台に伏せた、その体をふみこえて、工場に突入。……夜十一時五分前、再建派が青行隊を先頭に工場に向ってナダレを打った。
……『新聞が出ました。いま、再刊一号が出ました』
馬場は電話口で声をあげて泣いた。
『ありがとう。ありがとう。ありがとう』」