原部長の時代になってからのことである。同好の士数名が集まって、酒をくみかわすうちに、興のおもむくままに、さる花街にくり込むハメとなった。いよいよ意気さかんな一行も、やがて来るべき〝オ勘定〟が気になり出してきた。鳩首協議の結果、朝刊デスクで深夜でも社にいた次長を仲間に引きずりこみ、カラ出張しようという悪企みとなり、その次長を花街に招いた。
H次長が〝勇躍〟して共犯となったことはいうまでもない。酒好きでは人後に落ちない人物、であったからである。そして、翌日、私がその次長の承認印で、鹿児島に取材出張をしたのであった。約一週間の休暇ののちに、出社した私に対し、原部長は根掘り葉掘りに、出張の取材状況を質問するのである。いつもの例ならば、私が出張報告で「アア、あれはダメです。シロでした」といえば、それで「ウン、そうか」と、済ませていた部長とは違って、何か様子がオカシイ。
かくて、私のカラ出張と、そのカラクリが一切露見することとなる。その翌日の夕刻、夕刊デスク、朝刊デスクの交代時で、すべての次長の顔が揃った時、原は、部長席で立ちあがるや、遊軍席を見渡しながら、大声で怒鳴った。
「いいか。これから、三田の野郎は、箱根から西へは、出張させるナッ!」
私の仲間の一人であった立松記者は、取材費の精算のために、「何某氏宅訪問、ウイスキー一本、いくら」を羅列した伝票を出したが、「このドロボーの、✕✕人の、パチンコ屋の手伝い野
郎メッ!」と、やはり怒鳴られた。取材費精算の内容が、あまり正確でないことは〝習慣〟として黙認されていたのであったけれども、これではあまりにもデタラメすぎるということであった。
おのれの収入で養う女房子供がいて、それなりに社会人として通用している、三十歳もの男をつかまえて、「バカヤロー、ドロボー」呼ばわりなのである。
事実、遠藤が切り出しナイフを握って、部長に「表へ出ろッ」と迫ったように、写真部長と社会部次長とが、電話器を投げつけて、殴りあうように、見通しのきく編集局内部では、「よりよい新聞をつくる」という、仕事の上での意見の衝突や対立からの、ケンカ出入りが、日常茶飯事のように行なわれていた。
新聞休刊日に、〝全舷上陸〟と称して、社会部員数十名(百名に近い)が、近郊の温泉地に出かける時には、上下にニラミの利く古手記者の「幹事長」のもとに、「輸送、会計、宴会、酒、勝負事」などの幹事のほか、「ケンカ係幹事」までがあって、旅行間におきるケンカの当事者の顔触れから判断して、「あれはやらせておけ」「これは止めろ」と、指導監督をする時代だったのである。
そのような時代には、部下を怒鳴りつけ、上司、先輩に反抗して「批判」と「抵抗」の精神が培かわれていったのであった。これをもって、原は、「新人記者の徹底的基礎訓練」と、いったのであろう。