今年はいよいよ、新社屋建設の初年度。しかも、日本制覇の朝日との決戦の年です。この秋に当り、全社員に、いうなれば〝檄〟を飛ばしたのが、あのコピーの配布でした。
もちろん、小林与三次副社長にもお見せしたし、全重役の了解もとって、やったことでした。それも、たまたま、務台さんの友人の方(注。御手洗辰雄といわれている)が、蔵書の整理をしていたらあの新聞が出てきた。発行所に聞いてみると、もう、保存もされていないという。そこで、『これは貴重な資料だから、保存されたらどうか』と、務台さんに下さった。読み返してみると、今の読売社員に訓えるべき内容を含んでいる、というので、自費で作られて、個人の資格で配られたものなのです。
ところが、全く思いもかけない反応が起きてしまって……」
思いもかけない反応——というのは、改めて説明するまでもなかろう。〝ポスト・ショーリキ〟をめぐる、正力コンツェルンの動きである。
薄給に甘んじて、読売と共に生き、読売と共に死ぬ、運命協同体の思想は、昭和三十年代までは、その神通力を発揮したのであった。だが、「新聞」そのものの、体質の変化は、この思想を現実遊離に追いやってしまった。ここに、務台—原ラインが、現場から浮いてしまっているという、私の論拠がある。
出向社員は〝冷飯〟組
さて、ここらで各社の体質をみなければならない。
昭和十八年十二月十五日現在の社員名簿によれば、有限会社読売新聞社は、代表取締役社長正力松太郎以下二千八百三十三名。しかも、ほぼ二割もの応召休職者を加えての人数だから、実数は二千名チョットであろう。それから二十年六カ月後の、三十九年六月一日現在の名簿をみると、社主(注。法的権利義務がない)正力松太郎、代取副社長高橋雄豺、代取専務務台光雄以下(注。社長空席)四千六百五名。
二十年前に現在の本館が外側六階、内側三階だったものが、増築され、さらに二つの別館ビル。札幌、高岡、大阪、北九州の四発行所を加え、完全な全国紙の態勢を整え、四十年元旦の社告によると、東京本社三百三十二万六千七百部、大阪本社百二十六万四千部、西部本社二十八万一千部、合計四百八十七万九百十四部の有代部数を発行している。人員は二倍、部数は五倍という、驚くべき発展ぶりである。
この数字に見る限り、読売は、日本三大紙の雄と、称し称せられるのも当然である。そして、
社主正力松太郎もまた、この事実に関する限り、〝偉大なる新聞人〟と、自ら誇り、かつ尊敬せらるべきことも、動かし難い事実である。