読売梁山泊の記者たち p.156-157 三年も前にスクープしていた

読売梁山泊の記者たち p.156-157 昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」が、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。斉藤昇・国警長官が、「ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。
読売梁山泊の記者たち p.156-157 昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」が、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。斉藤昇・国警長官が、「ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。

だが、私は、この記事によって、〈有力なニュースソース〉を得た。陸士出身の少佐だから、五十三期ぐらい。復員官として、舞鶴で引揚援護業務にたずさわり、復員が終了してからは、厚生事務官。やがて、内閣調査室出向となり、のちに、調査官。

その氏名は、〝情報の世界〟に棲む者の礼儀として、まだ、明らかにはできない。が、私の記者としての視野を、大きく展開してくれた、優れたアドバイザーであった。ただいま現在、日常的に使われている「情報」という言葉とは、まったく意味の違う「情報」の時代だったのである。

昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」というのが、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。

この日、斉藤昇・国警長官(いまの警察庁長官)が、参院外務委での答弁で、「戦後ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。

二十七年秋から、警視庁記者クラブの「七社会」詰めとなっていた私は、その日何も知らないで、夕刻、社に上がってきた。斉藤長官の答弁の原稿が、ちょうどそのころ、社に入ってきて、原部長が目を通したばかりだった。

だいたい、出先の記者クラブ詰めの記者、ことに、警視庁クラブの記者などは、部長には、あまり、顔を合わせたがらないものだ。というのは、デスクとだけの黙認で、いろいろと、〝悪事〟を働いているのだから、部長と話をしたりすると、ツイ、露見する危険があるからである。

例えば、カラ出張やら、インチキ伝票やらで、デスクの呑み屋のツケを払ったり、取材で足をだしてしまった経費を、然るべく処理しているからである。ついでながら、つけ加えると、このような〝処理〟は、この業界での、長年にわたる習慣で、しかも、不法領得の意思がないので、〈横領罪〉には当たらない。念のため。

身についた〝習慣〟で、部長に近寄らないよう、素早く、遠い席に座ろうとしたら、顔をあげた部長と、目線(めせん)が合ってしまった。間髪を入れずに、部長が、叫んだ。

「オイ、まぼろしッ! 長い間の日陰者だったが、やっと認知されて、入籍されたゾ!」

「…?」

満面に笑みを浮かべた、ゴキゲンの良い原チンの顔は、可愛い。いま風なら、カワユーイのであるが、当の私には、その理由が分からないのだから、当惑しながらも、部長のゴキゲンに合わせて、オリエンタル・スマイルを浮かべながら、部長席に寄っていった。

「オイ、これだよ」

デスクが、朱(赤字の校正)を入れていた原稿をわたしてくれた。読み進んでいくうちに目頭が熱くなってくるのを感じていた。

一面、社会面ともトップの大ニュースを、三年も前にスクープしていた感激は、やはり終生、忘れることはできない。新聞記者のみが味わえる、このエクスタシーは、身をもって感じるしか、理解で

きないであろう。