どんな服装の兵隊がいた。その記号、数、兵器は。貨物列車を見た。積荷、何両? こうして兵力分布や整備、移動までが分かり、工場の煙突の数や作業内容から、軍需生産の規模が判明する。
昭和二十二年の秋、舞鶴に第一回の将校梯団が上陸してきた。ソ連側は将校は帰さないと宣伝したり、収容所では、対将校階級闘争が盛んになっていたころだったので、こうして将校ばかりが、何百名と、まとまって帰ってきたのは、珍しいことだった。
彼らも、型のごとく調べられた。すすめられた〝ひかり〟を、珍しそうに眺めながら、彼らはそれを深々と吸いこんでは、それぞれのソ連見聞記を話し出していた。
私たち、第二回目の将校梯団が、第一大拓丸で、舞鶴に上陸したのが、昭和二十二年十月三十日。ナホトカを出港する時に目撃させられた、大尉の人民裁判があったのだから、第一回の将校梯団の帰国も、十月はじめごろだったに違いない。
ソ連側は、はじめは、統制が取りやすいので、日本軍捕虜を、建制(軍隊組織)のまま収容所に入れたのだが、最初の冬、昭和二十年暮れから、二十一年春までの間に、どこの収容所でも、二~三割の日本人が死んだ。
生まれてはじめての酷寒——私たちのところでも、寒暖計で零下五十二度を記録した。しかも、風速一メートルで、体感温度は一度下がる。慢性飢餓と重労働。シラミによる発疹チフス、栄養失調と、まさに、いまにして想えば、生き地獄であった。
こうして、死ぬ者を死なせたあとの、二十一年四月になってから、はじめて捕虜名簿を作り、かつ、炭坑や伐採、建築などと、作業の目標から、収容所の改廃、人員の移動などを行なった。
この建制を崩して、捕虜をゴチャまぜにすることには、もうひとつ、目的があったようである。それが、はしなくも、第一回の将校梯団で、米国に発見された。
その中に一人、軍曹がいた。いや、はじめは少尉だといって、将校梯団の一員らしく、振る舞っていたのだが、身上調査から乙幹の軍曹だということが、バレてしまったのだった。ウソと分かってからの、その男は、全く狼狽して、ソワソワと落ちつかず、何か挙動がオカシイのだ。
報告をうけた二世のサカモト大尉は、自分で調べようと思って、その男を呼び入れた。風呂から出れば、ドテラでアグラをかくような、二世らしからぬ二世であるサカモト大尉は、日本人の気持を良く知っていたのだ。
大尉は、そのニセ少尉の心配ごとが、彼自身の予想していたようなもの、ではないかと思って、まず優しく、家族の話などから持ちかけ、その男の気持を落ちつかせてやった。
男はあたりを見回してから、泣きそうな顔で大尉に聞いた。
「国際法とかでは、日本人が外国でしてきた約束とか、日本にいる日本人が、外国の刑法で罰せられる、というようなことがあるんでしょうか?」
大尉は、密かに期待しながらいった。
「ここは日本ですよ。ボクたちは日本の味方なんです。日本をよくしようとして、お手伝いしている
んです。……どうです一本」