正力松太郎の死の後にくるもの p.180-181 正力の息子武が日本テレビに入社

正力松太郎の死の後にくるもの p.180-181 そのころから、読売本社では〝風聞〟が流れだした。柴田の武接近が目立ったから「NTVは武、報知は亨」という、跡目相続の予想で、〝幼君秀頼(武)と石田三成(柴田)〟というものである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.180-181 そのころから、読売本社では〝風聞〟が流れだした。柴田の武接近が目立ったから「NTVは武、報知は亨」という、跡目相続の予想で、〝幼君秀頼(武)と石田三成(柴田)〟というものである。

読売新聞社(東京)を中心に、北海道と北陸は支社となって、東京管内にある。大阪読売新聞社は別法人で独立し、西部(北九州市)は読売興業の経営。読売巨人軍も同様に、読売興業の新聞部、野球部にそれぞれ属する。報知新聞社、報知印刷所もまた別法人。日本テレビ放送網、よ

みうりランドなど、正力が会長となるか、読売新聞の重役が役員に列しているかなどで、これらを総称して〝正力コンツェルン〟とよばれているものだ。

さて、異変は四十三年秋、日本テレビの掲示板に貼り出された、小さな一枚の紙切れからはじまりだした。

予防注射をうけろだとか、落し物があったとかいうような、つまらない小さな掲示があるばかりの掲示板は、大きな紙で多数の人名が書かれている人事異動の辞令が出ている時以外は、あまり局員の注意をひかないものなのである。その紙切れもまた、しばらくの間は人々の注意をひかなかった。それほどに目立たないものであった。

しかし、内容は重大なことであった。もう在任して一年ほどにもなっていた、柴田秀利専務が「退社いたしました」という、お知らせなのであった。資本金十二億、株主数二、四七三人、東証一部上場、従業員一、四九〇人という、一流TV会社の専務が退社するにしては、あまりにも突然で、あまりにも素っ気ないことだった。

柴田といえば、正力が戦犯容疑で巣鴨入りしている間の、〝留守役社長〟馬場恒吾の側近であった。当時何かと接衝の多いGHQの通訳としてであった。やがて、馬場から正力へと政権が譲り渡されてからは、あまりパッとしなくなったが、いつの間にか二十七年十月に創立された日本テレビに移っていた。局員たちの印象では、「柴田さんは、ジイサマ(正力の愛称)とたびたび衝

突しては、何か出たり入ったり、また出たりの感じだった。が、局員とは全く隔絶した形で、コミュニケーションはなかった」という。だが、三十二年五月には取締役となった。

そこに、四十一年十月、正力の息子武が日本テレビに入社してくる。正力武。昭和九年五月十三日生。三十四年三月、早大理工学部卒業。日本電気精器に入社して、二年後にはアラビヤ石油に移る。アラ石に五年半ほどいて、ヒラで日本テレビに来たのである。若い時には、他人のメシをくわせるという、ジイサマの主義なのであろうか。

そのころから、読売本社では〝風聞〟が流れだした。柴田の武接近が目立ったから「NTVは武、報知は亨」という、跡目相続の予想で、〝幼君秀頼(武)と石田三成(柴田)〟というものである。武はヒラで入社したものの、翌年七月には審議室長という要職に進み、四カ月後には取締役となった。武取締役・審議室長に配するに、柴田専務である。——その柴田が去ったのである。その退社の事情について、何の説明もされなかった局員たちには、こんなルーモアが流れてきた。「その直前の創立記念パーティで、ジイサマの式辞を柴田は自分で書かずに他人に書かせ、それに眼も通さず渡した。ジイサマは読んでしまってから立腹した。その衝突が原因だ」と。

パーティの式辞原稿で大会社の専務が退社するとは、このルーモアが示すところに、現在の日本テレビの体質があるのであるが、それは後述しよう。

ともかく〝地すべり〟は始まり出した。そのころ、四十三年十月二十四日には、正力タワー

(日本テレビ大テレビ塔)の起工式が行なわれており、同十一月二十九日の株主総会では、取締役九人の増員を決め、正力亨報知新聞社長が、新取締役に加わり、副社長に選任されたのであった。と同時に、正力武は日本テレビ取締役のまま、株式会社よみうりランド常務取締役となり、管理部長を兼ねることとなった。