大尉は、密かに期待しながらいった。
「ここは日本ですよ。ボクたちは日本の味方なんです。日本をよくしようとして、お手伝いしている
んです。……どうです一本」
煙草をすすめて、自分もつけた。
「少しも恐いことはないよ。何もかも話してごらんなさい」
男はオドオドしながらも、彼の恐しい体験を語りだした。大尉は、黙ったまま深くうなずいた。
こうして舞鶴CICは、はじめて引揚者の中にソ連製のスパイがいることを知った。
「ソ連スパイが、引揚者にまぎれて、投入されつつある」——こんな重大な事実を発見した、舞鶴CIC、およびCISからは、報告書を携え、ピストルで武装した将校が、伝書使となって東京の本部へ飛んだ。
それからは、ソ連情報の収集ばかりではなく、ソ連スパイの摘発が、郵船ビルの重要な仕事となった。復員局から「復員業務について占領軍から次の通り出頭要求がありましたからお伝えします」というハガキが、日本全国の引揚者のもとに届けられた。
往復の旅費、日当、食費も日本政府から支給され、北は北海道から南は鹿児島まで、容疑者と、容疑者の情報保持者が郵船ビルに集合させられたのである。
数日で終わる者もあったが、数週間、数カ月間もかかる者がいた。試みに、郵船ビルの表口に立って見ていると、夕刻には、嬉々として現われる者と、足取りも重くうなだれて来る者とがいた。
米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」
そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。
その中の一人に、元ハルピン陸軍病院長をしていたI少将がいた。仔細に見れば、I少将のどこかに、緊張に引きしめられた、あるカゲが見られたであろうが、さすがのCICも、元将官には敬意を払って、多くを追及しなかった。
その元少将が引揚後のある日、何となく後ろめたさを覚えながらも、もう小一時間も、靖国神社の境内を、そぞろ歩いていた。
困惑と期待との入りまじった、不思議な感情だった。半分はウソだと思ったし、半分は行かずにいられない、脅迫感を覚えていた。
やがて、彼がちょうど境内を一回りして、また大村益次郎の銅像にもどってきた時、一人の男が彼に声をかけてきた。
——ああ、やっぱり!
そう思った瞬間、I元少将は、思わず声とも叫びともつかない音をあげてしまった。
その男はSといい、ソ連代表部雇員という肩書の男だった。肩書は〝市民雇員〟であったが、もち
ろんれっきとした軍人である。ちょうど、シベリアで、日本新聞の指導をしていたコワレンコ中佐が、タス通信記者という肩書で、代表部にいたように、各収容所付の将校たちが、入れかわり立ちかわり、背広姿で日本にやってきて、重要な〝幻兵団〟に、合言葉をささやくのであった。