それらを考えあわせると、亨の日テレ副社長というのも、正力タワー建設の大偉業をやり抜くための、後継者ではないかとみられることである。
日テレの創業時の〝感激〟を、中堅以上の古い局員たちは懐しんで語る。「アメリカのテレビは、受像機がレーダーの研究からできてしまった。商品の受像機を売るには、放送をするしかない。というので局ができ、放送がはじまった。ところが、日本のテレビは、局ができて、放送がはじまった。そこで、メーカーが受像機を造って売り出した……と全く逆なのだ。そこに着眼した、〝正力テレビ〟の街頭受像機の設置という構想は、実にすばらしいものだった——」
構想はすばらしくとも、誰も理解してくれなかった。正力は、資金集めにかけずりまわり、青息吐息であった。だが、その苦心が実って、保全経済会の伊藤斗福の一億円を皮切りに、ようやく事業は緒についた。
「盛り場に設置された街頭テレビの前は、黒山の人だかり。誇らしげに読売の販売店のオヤジさんがかけまわり、私たちもカメラマンの脚立が倒れないように押えてやったものでした。あの感激は、終生忘れられないでしょう。……だから、私たちには、読売新聞というのは、本家とも実家とも感じられます」
四十三年九月期の有価証券報告書をみると、大株主名簿には、もちろん、「保全経済会」などという、〝忌まわしい〟サギ団体の名前などはない。読売テレビ(大阪)の八・○○%を筆頭に、
読売新聞七・三六%、以下、東洋信託、光亜証券、野村証券、大和銀行、第一生命、日本生命、同和火災、三菱信託と、一流どころがズラリと並ぶ。総勢二十七名にもおよぶ役員は、監査役の京成電鉄相談役が四、五六○株をもっているのを除いて、正力会長以下誰も一株ももっていない。
創立当初、朝日、毎日にも協力してもらった義理もあってか、平取ではあるが、毎日梅島社長と、朝日谷口取締役(現社友)とが入っている。しかし、読売で十五・三六%の株をもち、正力一家三名が重役に列していながら、日テレ全体の雰囲気は、全く冷たくよそよそしくて、読売人や報知人にとっては、他人の家である。
「それは、日本テレビが開局十七年にもなろうというのに、上、中、下という大きく三つにわけて、断層があるのです。コミュニケーションが全くないのです」
武が日テレに入り、柴田専務が実現する前に、局長クラスの一斉更迭が行なわれた。それもまた突然であり、何の説明もなかったのであった。日テレに関する限り、人事異動は、常に突然、いうなれば、〝朝、目がさめたらこうなっていた〟のである。
「これでは〝伝説〟が生れない——」
こういって、古手の、開局当時を知っている連中が嘆く。〝伝説〟のないところに、上下のコミュニケーションは生じないという。
どこの社でも、幹部の異動などは、社内で下馬評が生まれ、二、三の意外性をのぞいては、お
おむね、下馬評通りの発令になるというのが定石である。それが、日テレではついぞそんなことはなかったという。