正力松太郎の死の後にくるもの p.206-207 「ゴ、五万円出す。その男を」

正力松太郎の死の後にくるもの p.206-207 私の「正論新聞」に、かねてから、若いヤル気のある青年がほしい、と、私は考えていた。ある日、街のレストランで出会った、読売の仲間(当時は部長)に、その旨を話して、「誰かいないだろうか」と、問うたのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.206-207 私の「正論新聞」に、かねてから、若いヤル気のある青年がほしい、と、私は考えていた。ある日、街のレストランで出会った、読売の仲間(当時は部長)に、その旨を話して、「誰かいないだろうか」と、問うたのであった。

「こうした最大、最新の新社屋建設の目的は、もとより、より充実した紙面の作成と、読者への最善のサービスのためのもの」という謳い文句。発行部数は全国で五百五十七万(八月一日現

在)、東京本社だけで、三百七十四万と呼号している。これだけの部数を印刷するためには、輪転機九十六台を収容する工場を必要とするというのである。総工費は一口に二百億。

薄給にあまんじ、読売と共に生き、読売とともに死ぬ——この〝読売精神〟に徹するためには、読売はあまりにも、大きくなりすぎてしまった。

私の「正論新聞」に、かねてから、若いヤル気のある青年がほしい、と、私は考えていた。ある日、街のレストランで出会った、読売の仲間(当時は部長)に、その旨を話して、「誰かいないだろうか」と、問うたのであった。

「ウム。今年、大学を出て、読売を受けたが落ちた男がいる。だが彼は『どうしても新聞記者になりたい』というので、来年もまた読売を受ける、というんだ。……一体、いくら(月給)出すのだ?」

どうしても新聞記者になりたい! 何という、カッコいい言葉であろうか。私は反射的に叫んだ。

「ゴ、五万円出す。その男を、ゼヒ紹介してくれ!」

地方紙の、ある古手の記者に、こんな話をきいたことがある。社会部は事件なんだと、若い記者の何人かを、子分同様にして、育てていたんだ、という。それこそ、夏場に〝女〟を買いに行けば、若い記者が背中をウチワであおぐほどであったと。

それだけをきけば、封建的な徒弟制度、ヤクザの親分、子分の関係のようであるが、この話には、それなりに「新聞記者の基礎教育」における、先輩と後輩の関係を、象徴しているものがある。

私は本稿の中で、先輩たちに与えられた教育や言葉を例示してきた。「新聞記者は疑うことで始まる」「名誉棄損の告訴状が、何十本と舞いこんでも、ビクともしない取材」と、いったような言葉である。

そしてまた、新人の教育とは、次のようなものであった。拙著「最後の事件記者」(昭和33年実業之日本社)の抜粋だ。

イガグリ坊主頭に、国民服甲号という、この新米記者も、即日働きはじめていた。実に清新、爽快な記者生活の記憶である。確か午前九時の出勤だというのに、当時の日記をみると、午前七時四十分、同二十五分、八時五十分と、大変な精励ぶりだ。それに退社が、六、七時、ときには九時、十時となっている。タイム・レコーダーが備えられていたので、正確な記録がある。

十名の新入社員は、九名までが社会部に配属された。私たちの初年兵教官は、松木勇造現労務部長であった。その教育は文字通りのスパルタ式、わが子を千仭の谷底に落す、獅子のそれであった。

入社第一日目に亡者原稿を、何も教えられずに書かされた。この数行の処女作品は、早大教授

の山岸光宣文博の逝去であった。私のスクラップの第一頁に、この記事が、朝日毎日のそれと並べてはられている。死亡記事でさえ、朝毎の記事と、優劣を競おうという心意気だったらしい。