入社第一日目に亡者原稿を、何も教えられずに書かされた。この数行の処女作品は、早大教授
の山岸光宣文博の逝去であった。私のスクラップの第一頁に、この記事が、朝日毎日のそれと並べてはられている。死亡記事でさえ、朝毎の記事と、優劣を競おうという心意気だったらしい。
第二日は、初の取材行だ。戦時中の代用品時代とあって、新宿三越で開かれていた、『竹製品展示会』である。今でもハッキリと覚えているが、憧れの社旗の車に、ただ一人で乗って、それこそ感激におそれおののいたものである。
車が数寄屋橋の交叉点を右折する時、社旗がはためいた。大型車にただ一人の、広い車内をみまわして、『これは本当だろうか!』とホオをつねってみたい気持だった。尾張町(銀座四丁目)からバスにのれば、十五銭ですむのになア、と、何かモッタイないような気がした。
この感激のテイタラクだから、取材も大変なものである。待っていてくれた(アア、待たせておいたのではない!)車に飛びのり、帰社するや否や、書きも書いたり、七十枚余りの大作、竹製品展ルポだった。
提稿をうけた松木次長は、黙って朱筆をとると、私の大作を読みはじめた。左手で原稿のページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読み終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。
呆然として立ちつくす私を、彼はふりむきもせずに、次の原稿に手をのばした。私は無視され、黙殺されていた。新米も新米、二日目記者の私は、自分をどう収拾したらよいかわからない。怒
るべきなのか、憐れみを乞うべきなのか、お追従をいうべきなのか!
そこへ掃除のオバさんがきて、私の労作は大きなクズ籠にあけられ、アッと思う間もなく、反古としてもちさられてしまった。これは大変な教育であった。それからの私の記者生活を決定づけたのはこの時であり、また、新聞とは冷酷無残なりと覚えたのであった」
どうしても新聞記者になりたい! という青年に、私は、昭和十八年当時の、このような私自身の姿を想起したのであった。それこそ、「読売精神」なのであった。
だが、数日後に、私は、正論新聞のスタッフとともに、新聞論をたたかわせながら、新宿のバーで泥酔していた。その青年からの返事が、その仲介者を通じてもたらされたのであった。青年は、来年の再受験に備えて、読売の都内支局に、バイトとして働いていた。
「読売の方が、正論より、経済的に安定していますから……(正論へ入るのは見合わせたい)」と、いっているという。
私は、バーのカウンターを、手が痛くなるほど叩いた。
「バカヤロー奴が! ナニが、どうしても新聞記者になりたい、だ。奴のは、新聞記者になりたい、ではなくて、読売社員になりたいということだ。こんな、ボキャブラリイの少ない男が、記者などと口にするな!」と。