このような基本的な姿勢の積み重ねの結果、「週刊新潮の記事はツブせない」という〝週刊誌らしからざる〟評価を獲得しているのである。しかし、このような「姿勢」とその「評価」は、本来は「新聞」のものでなければならなかった、のである。そして、読売新聞もまた、その例外
ではない。
正力松太郎という、「偉大なる新聞人」の衣鉢を継いで、務台光雄、原四郎というコンビが、今、読売新聞の世界制覇という、歴史的瞬間へと向って、着実な歩を進めつつあることは、誰も否定できない。だが、正力に次ぐ、〝偉大な新聞人〟たらんとしている、この二人が、その任務を果し終えた時、「新聞」や、「読売新聞」は、果して、彼らが期待した通りの、「新聞」や、「読売新聞」であるかどうかは、疑問である。なぜかならば、務台も原も、あまりにもマトモな「新聞人」であるからである。
そして、私は、43年1月に書いた、「誤報論」(正論新聞43年1月1日号)の一節を想起するのである。
「国会議員の国政調査活動と、作家の資料調査活動、そして、記者の取材調査活動は、一見、同じように見えても、それぞれに、全く異質のものであるのだ。
ところが、雑文書きが記者の取材調査活動の、動きの動作だけを真似て、〝記者の取材調査活動〟らしきことをして、その結果を文章にまとめ、活字にすることが極めて多い——週刊誌の無署名記事のほとんどが、それである。
彼ら、ライターと称せられる手合は、ほとんど全く、〝記者としての基礎訓練〟はおろか、人
間としての基礎教養すら、欠けるところが多いのである。それは、活字になった事実が、雄弁に証明しているではないか。
新聞は、まだしも、新入社員に対しては記者としての基礎訓練を施すが、雑誌にいたっては、編集記者とも取材記者とも区別せず、かつ、基礎教育などは、やっていないようである。
それどころか、自社の社員として管理責任をもつべき記者を減らし、小器用なだけの、売文業者を大量に使用する。ライターもしくは社外ライターとよばれる彼らは、いうなれば、〝デモシカ記者〟である。記者デモやるか、記者シカやれない、という連中だ。これが原稿の量で収入を得るという、出来高払いの売文業だから、極めて無責任な文章を書くのは、当然であろう。
それらの、〝エンピツ女郎〟〝エンピツ風太郎〟の一つの典型を私は、松本清張と、その周辺に群がる下請け売文業者、そして、それを黙認して、活字にし、出版している文芸春秋社とにみるのである。
虚報、歪報をふくめての、広い意味での〈誤報〉が、報道の自由を貫き、言論の自由を守るために、大きな障害になりやすいことは明白である。そのためには、ゴシップやスキャンダルは除き、時事問題の報道には、やはり、徹底した「真実」の厳しさが要求される。雑誌であると新聞であるとを問わず、活字媒体のもつ、記録性と随時性とからみて、絶対にベストを尽して、〈誤報〉を避けねばならないのである。