しかし、報道の真否は、常に結果論なのである。毎日のスクープ『大磯の死体はホステス某女』は、確かにその時点では、事実としての動きをみせており、スクープではあったが、結果的には〈誤報〉であったのだ。ホステス某女が生きていたからである。また、〝記者としての基礎訓練〟が、十分であったかどうか、ということも結果として判断されるのである。
これは、人間が人間を裁く裁判以上に、人間が起す現象を人間が追うという、〈ニュース〉そのもののもつ宿命である。
裁判の根拠には、法律という具体的尺度があるのに対し、報道には、5Wという要素のみが具体性をもち、それらをつづるテニオハや、1Hという、人間そのものに依存する部分があるのだから、裁判以上に、〈人間〉すなわち〈記者〉の問題となってくる。
したがって、〈誤報〉を根絶することはできないが、減らすことはできよう。それが〝記者としての基礎訓練〟の徹底化であり、もっとも忌むべきものが、ひょうせつをはじめとする、意識的な〝誤報〟であらねばならない。
十二月二十二日付読売夕刊の、『東風西風』欄に、桶谷繁雄氏が〝反、体制屋〟と題して書いている。
『……しかも、そうすることによって、普通人の到底およばぬカセギをあげている人たちである。共産圏の国々はいうまでもないが、欧州の国々やアメリカでは、反権力反体制の姿勢をとるため
には、相当の覚悟、決心を要する。そうすることは、毎月の収入にも大きく影響するからである。ところが、日本は逆で、そういうのがカッコいいことになる。……』
反体制屋ともよばれるべき、一群の人々のマスコミ活動を指摘されているのだが、それこそ、一二〇パーセントともいえる、この〈言論の自由〉! 自由に伴う義務と責任とが、〈誤報〉を減らすことを、私たちに命じている」
この一文は、松本清張が私の著作から盗作した問題を中心に、新聞記者と売文業者との、「基礎訓練」と「人間的資質」の比較について、論じたものである。
今、本稿を書くに当って、読み直してみると、いささか、じくじたるものがある。ほぼ、二年前の文章でありながら、時代の移り、人心の流れの急激さに、私が定義した「新聞記者」なる職業人も、現実に変ってきてしまっている不安を覚えるから、なのである。前述したように、「週刊新潮」のあり方に、本来の意味での「新聞」を認めるならば、この一文の中の、新聞記者と週刊誌記者との叙述の位置を、逆にしなければならない時代になっているようである。しかし、それでも、読売は確実に伸び、発展しつつある。務台—原体制下に。……