ところが、さきの「係から」の一文には、その認識が全くない。「声」が健在であるためには、「係」の自覚と責任こそが必要なのである。新聞の紙面であるという——。自民党区議の事件
以来、「電話や電報」で確認するというが、「確認」とは、手段ではなくて、「結果」なのである。すると、事件以前は、手紙かハガキだったのであろうか。
「投書の生命」とは、「責任と信頼」、ではない。「声なき民の声」を、マスコミ構成にのせることである。表現媒体をもたぬ個人に場を与えることである。その声の内容が、真実であることである。冒頭の「私たちは投書される方を信頼しております」という、書き出しの責任回避からみると、何年、新聞のメシを食ったかと常識からして疑われる。国会の決算委、法務委などの発言すら、恐喝の片棒担ぎに利用される時代に、新聞が謀略や私利私欲に利用されないため、まず疑わねばならないのである。女個人のグチやタメイキとは違うテーマが論じられている欄なのである。
結びの「いずれにせよ、他人の名をかたった卑劣な〝犯人〟の行為」ばかりが、名誉棄損に該当するのではない。朝日新聞も、共犯として刑事責任を追及され得るのを、他人事みたいに思っているようである。ニセ投書として知っていて掲載したのだという、〝積極的犯意〟はなくとも「未必の故意」(自分の行為から一定の結果が生ずるであろうことを知り、かつ、これを容認する心理状態)は、新聞という立場から、十分認められるのだ。もちろん、一月の事件の時でも、「この欄の純粋性と使命感をはなはだしく汚損する」という、〝お詫び〟ではなくて〝お叱り〟があっただけである。
朝日ジャーナル誌の投書も同様である。匿名希望で(投書文中に、「氏名、住所を書くこ とだ
けは控えさせて下さい」とある)あればなおのこと、少くとも学校当局に、「皮肉なことに『朝日ジャーナル』すら、白昼公然と読むこともはばからねばならぬほどです」かどうか、確かめるべきである。学生課長は呆れ果てながら、「学内書店でも売ってるし、学生相談室にも備付けているし、図書館には『前衛』まである」と反ばくしている。
朝日の紙面は信じられない
さて、これらの事実から、朝日新聞についてのさまざまな論拠が得られたように私は思う。さきに述べた、一カ月で十六回という訂正記事の件だが、さらに断わり書きをつけ加えるならば、この「訂正」を出した掲載面は、政治、社会、文化、運動、外電、特集と、編集局の各部にわたっているということである。つまり、ここでは「声」欄について相当な紙数を費したのだが、これは「声」だけの問題ではなく、編集局全般についていえることだ、ということである。
社会面についていおう。
例の「板橋署六人の刑事」事件である。さらにまた、「糸川口ケット」「科学研究費」など、伊
藤牧夫社会部長(西部編集局次長)時代の、一連のキャンペーン記事が、読者には眼をみはらされたものである。