本田の執筆態度を、非難しているのではない。その本の帯に謳われているように、「名誉毀損 逮捕 死 大新聞スター記者が越えられなかった、戦後史のハードル!」と、スターや英雄の最後が、悲劇
であることが、人びとに感動を与えるのを、認めてのことだ。
読売記者時代の本田にとって、立松は憧れの人だったのである。何年かの、先輩、後輩の関係で、立松が、後輩には見せなかった〝素顔〟を知らず、かつ、そのニュースソースである、河井信太郎検事について、本田の取材は及ばなかった、のである。
立松は、確かに、悲劇の英雄であった。私をしていわしめれば、それは、野心家・河井検事に、利用され尽したあげく、見捨てられた、立松の〝悲劇〟であった。
裕福な家庭に、生まれ育ち、かつ、亡父懐清の〝遺産〟ともいうべき、人間関係に恵まれて、〝疑うことを知らなかった〟立松の、お人好しの悲劇でもあったのである。
誤報事件の本筋について、記述しておかねばならない。本田は、刻明に、時間的経過を記録しているので、私の、あいまいな記憶は避けて、その要所、要所を引用させてもらうことを、お断わりしておこう。
立松は、二度にわたって、両肺の胸郭成形手術を受け、そのための入院中に、ついでにと、胃潰瘍の手術もして、二年近くの療養生活を終え、社に戻ってきたばかりであった。
景山が、社会部長になって、初めての大汚職事件であった。私が、農林省の発表モノの特落ちをして、クラブ勤務から遊軍に配転されたのが、三十一年春ごろ。そして、約一年を遊軍ですごし、三十二年夏には、司法クラブ・キャップの萩原福三が、本社の通信主任となり、私が後任のキャップに出ていた。
そういう情況下で、立松が休職から復帰してきたのだった。もちろん、秋口だったと思うが、〝大遊軍〟勤務。当分は、遊んでいろという、景山の〝思いやり〟であった。
もうそのころは、昭和二十三年の昭電事件から十年近くもたっており、立松の〝輝かしいスクープ〟も、過去のこととして、半ば伝説化してしまっていた。病気休職などで、立松の存在感自体も薄れていたのだった。
昭和二十五年の社員名簿によると、当時の景山は、岡山市にあった中国総局長である。岡山の素封家の生まれであった景山は、地元に帰っていたのだろう。従って、昭電事件の本質も、立松のスクープの内容についても、十分な知識は、持っていなかったろう。
というのは、昭電事件における、立松の連続大スクープというのは、主任検事であった河井の〈政治的思惑〉からの、意図的なリークによるものだった。
それは、翌日の捕りものに用意された、逮捕状を新聞記者に見せるという、信じられない〈事実〉によって、裏付けされている。立松自身が、私にそう語っているからだ。
当時の検察のボスは、検務長官から、最高検次長検事になっていた、木内曽益だ。検事総長は、GHQ(連合軍総司令部)の指令で、法曹一元化が打ち出され、弁護士出身の福井盛太だった。
東京地検は、堀忠嗣検事正、馬場義続次席検事に、河井主任という態勢。そのボスの木内に、多分「立松の面倒を見てやってくれ」と、いわれたであろう馬場が、河井との間でどのような〝謀議〟をしたのだろうか。