東京地検は、堀忠嗣検事正、馬場義続次席検事に、河井主任という態勢。そのボスの木内に、多分「立松の面倒を見てやってくれ」と、いわれたであろう馬場が、河井との間でどのような〝謀議〟をしたのだろうか。
当時の政治情勢を見ると、21・5・6に発足した、自由党総裁の吉田内閣は、第一特別国会招集の22・5・20に総辞職した。同6・1に社会党、民主党、国民協同党の、三党連立の片山哲内閣が発足。翌23・3・10まで続いたが、民主党の芦田均総裁に交代。社会党は、西尾末広国務相を入閣させた。そして昭電事件のため、半年後の十月十九日には、芦田内閣が倒れ、第二次吉田内閣になる。
これは、GHQ内部の対立が、そのまま、政界に反映したもので、右のGⅡウィロビー少将と、左のGSケージスとの、日本占領政策の対立であった。ウィロビーは、吉田茂を支持し、ケージスは社会党を支援した。つまり、木内→馬場→河井ラインは、芦田内閣ツブシを、意図したのであった。
いまにして思えば、GHQの威光で、検察が政治を支配していたのである。いまの検察が、政治に従属していることを思えば、〈政治的思惑〉で動く、野心家の検事がいたのだから、驚きである。
馬場は、福岡県甘木市の出身で、田川中学四修で五高に進む。あの容貌といい、出身といい、権力志向であったことは、容易に理解できる。立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープは、馬場次席検事の、暗黙の了解があったればこそ、河井のリークが継続的に行なわれた、ということである。
つまり、一社が(この場合は読売)、独占的に、かつ、継続にスクープしつづけることで、事件が、さらに強烈なインパクトを、各方面に与えることを、馬場と河井は計算済みで、それによって、GⅡが意図した、片山芦田内閣打倒に成功した、のである。
本田靖春は、こう書く。
《政府側の重ねての打ち消しにもかかわらず司法記者たちの目に、栗栖逮捕は時間の問題と映った。
そして、取材競争はかつてない熾烈な様相を帯びてくる。
彼らは、立松に一度ならず二度までも、痛打を浴びせられた。クラブに加入して二年、記者歴を通算しても、たかだか三年の若輩にである。
もし、続けて三度、立松に名を成さしめるようなことがあれば、いよいよ鼎の軽重を問われる。ベテランたちにとって、ここは是が非でも、立松の独走を阻まなければならない場面であった。
しかし、彼らは、決定的な打撃を加えられる。立松は、地検の首脳陣が、部内に敷いた厳重な箝口令を、どのようにしてかい潜ったのか、九月三十日付の一面トップに、〈栗栖経本長官きょう召喚/昭電事件・任意出頭のかたちで〉の四段見出しで、鮮やかなスクープを決めたのである》
本田は、「箝口令をどのようにして、かい潜ったのか」と、講談調で扇子を叩いているが、その首脳陣がリークしているのだから、なんのヘンテツもないことである。
立松は、その後、警視庁クラブへ移り、捜査二課担当となる。が、ここでも、しばしばスクープを放つ。二課の刑事たちは、「読売サンは、デカ部屋に顔を出さずに、よく素ッパ抜いてくれるヨ」と、コボした。
それは当然である。大きな事件であれば、警視庁は、地検の指揮を仰ぎながら、捜査を進める。立松は、河井の自宅を〝夜討ち朝駈け〟で、話を聞いてくるのである。 当時の、東京地検の主任検事だった、河井信太郎との〝デート〟がなければ、情報が取れないのである。しかし、主任検事だから、各社とも、夜討ち朝駈けでマークしているのは、当然である。