読売梁山泊の記者たち p.232-233 傲岸そのものの奴が多い検事

読売梁山泊の記者たち p.232-233 ある時、酔っ払って、検事にケンカを吹っかけた。「ナンダイ! 日本で一番のインテリゲンチャぶった顔しやがって! その〝検事ヅラ〟が気に喰わねえ…」はじめは、聞き流していた検事も、寿里の悪態に、顔色を変えてきた。
読売梁山泊の記者たち p.232-233 ある時、酔っ払って、検事にケンカを吹っかけた。「ナンダイ! 日本で一番のインテリゲンチャぶった顔しやがって! その〝検事ヅラ〟が気に喰わねえ…」はじめは、聞き流していた検事も、寿里の悪態に、顔色を変えてきた。

それを見殺しにして、自分は、出世街道を進んで行く。立松のほうは、それから心身ともボロボロになり、不遇のうちに早逝したのである。あの時、なんらかの救済の道を探り、努力すべきが、人の

道であろう。

さて、当時の読売司法クラブは、昭和十八年入社の三田をキャップに、同二十四年入社の滝沢国夫と、寿里(すさと)活の、計三名だった。前任のキャップの萩原福三は、本社の通信主任(サツ・デスク)となっていた。

昭和二十三、四年ごろ、立松、萩原と私の三人が、稲垣武雄キャップの下で、兵隊勤務をしていたのだが、本田靖春が「不当逮捕」に書いているように、立松が河井検事をネタモトにして、華やかに振る舞い、それを、マジメな萩原が、法律的に勉強して、後方支援するという体制だから、私は、張りこみなどの雑兵(ぞうひょう)勤務である。

そして、約一年で、国会遊軍に移るが、萩原だけは、そのまま司法クラブに残り、通信主任になって去るまで、ずっと、居ついていたものだ。その萩原のもとで、司法クラブにいた滝沢が、居残ることを条件に、私もキャップを受けたのだった。

というのは、藤原工大出の技術者である寿里が、新しい兵隊というのだから、滝沢が居てくれねば、戦力が落ちる。さらに、好都合なことには、滝沢は立松の弟分で親しい。大事件が起きれば必ず、立松に情報を頼みに行くだろう。

寿里は、その学歴にふさわしく、社会部記者としては、型破りであった。四季一回ぐらい、地検との呑み会が、会議室などで催されるが、ある時、酔っ払って、検事にケンカを吹っかけた。

「ナンダイ! 日本で一番のインテリゲンチャぶった顔しやがって! その〝検事ヅラ〟が気に喰わねえ…」

はじめは、聞き流していた検事も、寿里の悪態に、顔色を変えてきた。近くで、成り行きを見ていた私は、頃あいと見て、止めに入って、滝沢に連れ出させた。

寿里でなければできない芸当である。いまは、三塚派の長老に納まっているので、実名は避けるが、そのころは、政治部記者だった男が、吉原の小さな女郎屋のお内儀を、愛人にしていた。寿里の月給袋は、いつも、その店に〝直行〟してしまう。

「いやネ、その店には、読売の社員名簿があって、序列が、部員のマン中より上なら、貸してくれるんですよ。女郎屋のツケ、なんていうのは、この店だけだったでしょう」

私も、検事の自宅に、夜討ち朝駈けなど、ほとんどしなかった。それは〝物乞い〟同然で、私の新聞記者のプライドが、それを潔しとしないのである。エリート然として、まさに傲岸そのものの奴が多い検事に、ネタの物乞いをすることだからであった。

だから、寿里もハラに据えかねることがあったのだろう。酔った機会に、バクハツしたのだから、私は、心中、快哉を叫びながら、様子を見ていたのだ。

それに反して、滝沢は、やはりマジメで、兵隊の仕事、として、割り切っていた。萩原が、十年も司法クラブが勤まったのは、ハラの中で、検事たちをバカにしていたからだ。頭がいいから、過去の事件のケースから、判例に至るまで、良く記憶していて、若い検事などには、反対に教えてやるから

だ。オ説教をするのである。