この五年間の借入金は、三十七億、三十九億、六十五億、六十五億、八十七億と倍増し、これを長期、短期に分類すれば、昭和38年度の各二十二億程度が、五年後には、短期三十六億、長期九十六億とハネ上っている。長期資金は大阪新築のせいで、この三年間、五十八億、七十六億、九十六億という巨額である。そして、部数の伸びを示すものは販売(購読料)収入の百分比が、三十六~七%台だった三年間ののち、42年度で四十三%になり、五十%近い広告収入が四十六・七%という、五年ぶりの低率になっている。
小和田の見解の皮相さは明らかである。五百数十万という部数を維持し、さらに六百万の大台に向って、〝隆々たる社運〟になればなるほど、運転資金の需要は増大し、借入金への依存度が強まるのである。仕事をバリバリやればやるほど、銀行が大切になるのである。「金融資本や政府権力に対する独自性」は、いよいよ崩れてゆくのが、資本主義下の〝マス〟コミュニケーション産業の特質ではないか。
〝広告界との力関係〟もなおさらである。新聞はオリンピックに際しての過剰な設備投資と、それにつづく不況のため、大手広告主の出稿手控えに苦しんだ経験をもっている。
「読売のような、案内広告が充実しているのが、新聞としての大きな強味です。ナショナル・スポンサーという、全国相手の大広告主は、好況の時は金高を問わず出稿して、不況時にはバッタリというのが、新聞にとっては一番困るのです。そんな大手広告主は、当然のように、紙面への
口出しもするのです。
アメリカあたりでは、広告の出稿と掲載という、〝純〟経済行為と、紙面の記事とは無関係という、合理性につらぬかれているので問題はないようですが、日本の感覚的商習慣は、大きな広告を出しているのだから、記事で攻撃するなんて……、オチョウチンをもってもらいたい位だ、などという考え方をする。そこで、大広告主の記事介入といったような問題がでてくる。
ところが、案内広告のような小さな広告主は、それが団結して編集権に干渉するなんて考えられない。だから、小さなスポンサーを沢山もつというのが、編集、経営両面からみても一番得策なのです。
その上、一月八日付朝刊の各紙(読、毎、サンケイ、日経)にのった、『東大卒業生有志の会=代表安川第五郎』の『東大の学生諸君、大学を救うため全員が立ちあがろう』という意見広告の問題がある」
小和田の、部数が多いから広告面は売手市場だ、といったような単純なものではない。渡辺取締役は、この東大OBの会幹事との個人的なつながりから、この問題にタッチした真相を語る。週刊文春(二月三日号)の同記事に登場する〝重役〟とは渡辺のことである。
「朝日としては、あの意見広告を断わったりしたことから、いよいよ〝左翼偏向〟の証左の一つにされたりしてますが、そうではなくて、意見広告掲載の基準について、もう少し時間をかけ
て、統一見解をもとうとしていることなのです」