読売梁山泊の記者たち p.256-257 〝河井のリーク〟を確認できるといった程度のもの

読売梁山泊の記者たち p.256-257 「立松事件」で、私もまた被疑者調書を取られた。社の方針が、取材源は黙秘せよであったから、河井の名前は出さなかった。「デマ記事のニュースソースは、保護する必要はない」と主張したが、容れられなかった。
読売梁山泊の記者たち p.256-257 「立松事件」で、私もまた被疑者調書を取られた。社の方針が、取材源は黙秘せよであったから、河井の名前は出さなかった。「デマ記事のニュースソースは、保護する必要はない」と主張したが、容れられなかった。

売春汚職では、立松が手に入れてきた、マルスミメモ(政治家の氏名の上に、済の字を丸で囲んだ印がついているメモ)と、立松が河井宅の夜討ちから帰ってきて、印をつけてきた国会議員の名前とが、まったく符号するところから、司法記者クラブ員である、滝沢と寿里が疑問を提起したのだが、「河井検事がネタ元」という一言で、クラブのキャップの私も、デスクも抗することができなかった

のである。

それにしても、立松が、河井よりも八年後輩の伊藤などの、ペエペエ検事と親しかったとは思えない。つまり、伊藤たちが、立松の戦線復帰を知り、それならば、河井にガセネタを流せば、必ず立松がひっかかる、とまでヨンでいたということも、信じられない。

当時、地検特捜部では、〝怪文書〟扱いをされていた、マルスミメモを、法務省刑事局に報告したことを、伊藤が、ガセネタ流しと称しているのではあるまいか。

それを、河井が恣意で立松にリークし、それを読売がまた、一大スクープ扱いで書き、二人の代議士が告訴し、名前の抜けていた高検の岸本検事長が捜査して、立松を逮捕するという〝筋書き〟を、一体、だれが予測し得たであろうか。

せいぜい、伊藤らが予測し得たことは、河井に流しておけば、どこかの社が動き出すだろうから、〝河井のリーク〟を確認できる、といった程度のものであった、と思う。

決して、〈権力闘争の恐ろしさ〉では、ないのである。

だが、この「立松事件」で、私もまた、被疑者調書を取られた。社の方針が、取材源は黙秘せよであったから、とうとう、河井の名前は出さなかった。しかし、「デマ記事のニュースソースは、保護する必要はない」と、主張したが、容れられなかった。

十月二十四日夕刻に、立松は逮捕状を執行されて、丸の内署の留置場に入った。ところが、読売新

聞は、翌二十五日の朝夕刊とも、この件については、一行も記事を書いていないし、他社も同様である。

というのは、社会部長を古い仲間の景山与志雄にゆずり、編集総務になっていた原四郎が、この「現職記者の名誉毀損逮捕」という未曾有の事件を、どう扱うべきかについて、時間を稼いでいたのであった。

前にも述べたが、本田靖春は読売記者時代に、司法クラブの経験がない。だから、一知半解の部分があるのである。宇都宮代議士は私に対して、「弁護士一任だった」と、のちに語ったのだから、弁護士は、地検の「検事某」を告訴するのに、検事正、検事長、検事総長の三人をも含めたら、一体、誰が、何処が捜査するのか、という着意をもつのが、当然だろう。

従って、監督責任の追及は、直接の検事正、最高の総長に絞るのが、妥当というものである。そしてまた、岸本検事長の指揮のもとで立松の逮捕にいたったのも、決して、本田のいうように、故意でも偶然でもない。

その年の初夏、司法クラブのキャップを命ぜられて、前任者の萩原記者と二人で、挨拶まわりをしていた時の、強烈な印象を、私はまだ忘れられない。

いまは、東京第一弁護士会所属弁護士だが、検事総長秘書官だったS検事が、私の手を固く握って、熱っぽく訴えたのである。

「お願いです。検察がダメになってしまうのです。これだけは、どうしても阻止しなければなりませ

ん。それには、記者のみなさんのご協力が必要なのです。ゼヒ、ゼヒとも、お願いいたします」