大森とのライバル関係にあったのが、朝日の外報部長秦正流である。そして、ともに、「外報の朝日」「外報の毎日」という、金看板を背負っていたのである。「事件の読売」は、このさいラチ外である。どうしても、この機会に、外報部についてふれねばならないだろう。
毎日の数多いスター記者たちの中で、大森記者がもっとも売り出され、またファンをつかんでいったのである。大森実という、スター記者の名前と写真とは、大きな活字で何百万部も印刷されて、日本全国津々浦々までバラまかれ、毎日外信部の名をあげた。〝外報〟が強いのは毎日の伝統といえる。日本の興隆期、大陸に兵を進めていた時代に、毎日は陸軍とタイアップし、大陸各地にくまなく特派員を配置し、従軍記者を派して、この声価を得た。現役でいうならば、東亜同文書院(注。上海にあった日系大学)出身の、田中香苗をトップとする〝外報閥〟である。高田、工藤、橘、といった人たちだ。
上田社長の東西交流により、神戸支局採用の傍系記者だった大森実も、稲野治兵衛社会部長らと同じく、東京へ転勤してきて、田中香苗の認めるところとなった。彼ら大阪勢は田中主幹に大いに使われたのであった。その活躍ぶりに、白い眼を向ける部長クラスもまた、多数いたことは否めまい。
毎日の伝統的ライバルは朝日である。その意味で、たとえ読売がどんなに実力を発揮しようとも、朝・毎は表面、歯牙にもかけないのだ。だから読売の敵は朝・毎二社であり、同時にこの二
社のライバル意識を利用して、朝毎二社は読売の味方である。朝日がスクープすると、毎日と読売は手を握り、毎日の場合は反対になる。しかし、読売のスクープに対して、朝、毎は決して手を握らない。したがって、朝、毎の記者間には友情も生れない。
朝日の外報部長秦正流は、モスクワ育ちの外報記者である。これに対するに、毎日の大森実はワシントン育ち。両者のライバル意識がさらに燃え上るのは、無理もないことであった。しかし、秦、大森の人間的比較ではなくて、自由、共産両世界の外国記者たちは、ともすれば、より多く、秦に教えを乞うた。彼がモスクワ育ちであるという理由で。
そして、それだけに、その事実を知るが故に、大森はさらにスパークしたに違いない。秦と大森の知名度を比べれば、大森が全世界を通して、はるかに秦を抜いていた。いうなれば、批評家の賞める映画と、興収をあげる映画の違いであろうか。秦は組織に納まれる人間であり、大森はハミ出る人間として、先天的な差もあったに違いない。
そもそも、解説、解説と称しながら、果して、大森記者の署名記事は、すべて「解説」であったろうか。「ニュース」ではなかったろうか。スター記者に、署名でニュースを書かせた時代は、すでに遠くすぎさった。個人の記者が、その能力と才智とコネと、さらに幸運とで、かくされたニュースを発掘した時代は、精々、昭和三十年までである。
今は、新聞のもつ、強大な組織と物量と資金とで、ニュースも、解説も、「商品」として、「生
産」される時代である。記者はその小さな部分のオペレーターであって、タレントではない。毎日新聞幹部の、このアナクロニズムを、私は〝ショック療法〟の失敗と指摘した。誤診である。ショックが終ったのちに、病状が悪化していなければ、幸いである。