正力松太郎の死の後にくるもの p.316-317 ニュースも解説も「商品」として「生産」される時代

正力松太郎の死の後にくるもの p.316-317 朝日の本多勝一記者は、カナダ・エスキモーの報道で、第一二回菊池寛賞…。〝朝日の本多〟が書いているのではなく、「朝日」が企画し、「朝日」が準備し、「朝日」が実行し、「朝日」が書いているのである。本多記者はその担当者にすぎない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.316-317 朝日の本多勝一記者は、カナダ・エスキモーの報道で、第一二回菊池寛賞…。〝朝日の本多〟が書いているのではなく、「朝日」が企画し、「朝日」が準備し、「朝日」が実行し、「朝日」が書いているのである。本多記者はその担当者にすぎない。

今は、新聞のもつ、強大な組織と物量と資金とで、ニュースも、解説も、「商品」として、「生

産」される時代である。記者はその小さな部分のオペレーターであって、タレントではない。毎日新聞幹部の、このアナクロニズムを、私は〝ショック療法〟の失敗と指摘した。誤診である。ショックが終ったのちに、病状が悪化していなければ、幸いである。

設問しよう。朝日の本多勝一記者は、カナダ・エスキモーの報道で、第一二回(昭和三十九年度)菊池寛賞を、藤木カメラマンとともに受け、以後、何回となく好読物を紙面に提供したが、果して彼は、朝日のスター記者であるだろうか。全日空機の沈没地点にダイバーとともにもぐった、読売の富尾信一郎カメラマンは、スターだろうか。

私は、いずれもノーと答える。両人とも所属新聞社の組織の一員で、専門的な、技術的なオペレーターの一人にすぎない。〝朝日の本多〟が書いているのではなく、「朝日」が企画し、「朝日」が準備し、「朝日」が実行し、「朝日」が書いているのである。本多記者はその担当者にすぎない。チョコレートの包み紙に押されている個人名のハンコ、あれと同じ立場が本多記者である。そして「朝日」なればこそ、可能な取材なのである。

ところが、毎日の場合は、〝売り出し〟が決ってからというものは、「毎日の大森」だったのが、やがて、単なる「大森」が書く結果になってきた。——この、立論の根拠を示さねばならない。

大森の退社問題は、私は四十年暮れに耳にして、毎日の友人に問い合せたが、彼は知らなかっ

た。耳にしたのは、週刊誌記者からであった。その時の、私自身の感想は、「来るべき時がきたナ」というのにすぎなかったが、毎日社内で情報通である友人が知らずに、週刊誌記者が知っていることに、フト不自然なものを感じた。

しかし、実現すればしたで、週刊誌が書くであろうことを思い、その理由のつけ方に、ひそかに興味を抱いていたのだった。私は私なりの取材を試みたかったからである。果して、三流週刊誌が第一番に取りあげて、「アメリカの圧力」だとか、「銀行筋の指令」だとか、いわゆる〝黒い霧〟ムードをマキ散らして、結構、商売をしていた。

私の取材の結果は、純粋な社内問題と、個人の〝一身上の都合〟の二つの理由が、真相であると思う。この社内問題というのに、問題点があるのだ。毎日労組としても、不当な人事干渉が、外部からあったかの如き流説が聞えては、放ってもおけず、一応の調査をして、大森氏自身の言葉を、会社側にブツけて、確認してみたという。

この組合調査が、正鵠を得ていると思われるのだが、それによると「メヌエル氏病で、健康が外信部長の職に堪えられない。かつ、自分のわがままで、フリーになってしたいことをしてみたい——この二点で、退社を申し出て、幾度かの慰留をうけたが、辞意を押し通した」と、いうにある。私自身が会社側に当った限りでも、慰留の事実は認められ、辞表受理はやむを得なかった、と思われた。しかし、この二つの一身上の都合にも、それだけの背景はあるのであった。