正力松太郎の死の後にくるもの p.318-319 銀行借入金の急増と〝明日の毎日〟を暗示

正力松太郎の死の後にくるもの p.318-319 チミモウリョウが最新式ビルであるパレスサイド・ビルにうごめくという結果にもなった。私が、かつて上田にインタビューした時、「私が去る時は、毎日の去る時だ」という意味の発言をしていた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.318-319 チミモウリョウが最新式ビルであるパレスサイド・ビルにうごめくという結果にもなった。私が、かつて上田にインタビューした時、「私が去る時は、毎日の去る時だ」という意味の発言をしていた。

この組合調査が、正鵠を得ていると思われるのだが、それによると「メヌエル氏病で、健康が外信部長の職に堪えられない。かつ、自分のわがままで、フリーになってしたいことをしてみたい——この二点で、退社を申し出て、幾度かの慰留をうけたが、辞意を押し通した」と、いうにある。私自身が会社側に当った限りでも、慰留の事実は認められ、辞表受理はやむを得なかった、と思われた。しかし、この二つの一身上の都合にも、それだけの背景はあるのであった。

まず、第一番には、会社側のとった〝スター記者〟主義に、アナクロニズムという、大義名分からの反対論があったということ。これが、その大義名分からみれば、本来は「大森が可哀想」と出てくるはずであるのだが、反発は逆作用して、会社側へではなく、大森個人へ当った。

第二には、物書き業共通の感情である自己顕示欲からくる、〝盛名ぶり〟への反感とシット。これが意外にも強かった。これらの基本的な条件としての、従来からの派閥根性が基底にあった。

記者に共通する自己顕示欲は、情実とコネにイージーに依存できる〝派閥〟がある状態では、〝ナニクソ! オレもやったるでェ〟と反発せず(会社側は、こんな形でのショックを期待したのだろうが)、裏目に出て、「大森の野郎、ノボセてる!」と、ならざるを得ない。

大森が辞任したあと、彼が外信部長の肩書きをつけて、サンデー毎日誌に連載中の記事が、どうなるかも、一つの問題であった。彼の辞意が伝えられるや、サンデーのデスクが早速訪問してきて、連載継続を申入れたり、組合側も「会社に何か御不満でも?」と現れてきたことも、部下への不信感に打ちのめされていた彼には、素直に取れなかったらしい。

大森は「奴らがオレの様子をスパイしにきた」と怒って、いよいよ辞意を固めたようだ。一方、サンデーの機敏さは、そんな意味の御忠勤さがあったようだが、会社側では、「一切の糧道を絶っては、何するかわからんと考えて、肩書をとって、連載継続を認めた」と、解説する消息通もいる。

この消息通(現役記者)は、やはり、上田のとった、派閥打破の措置を歓迎しつつも、「過渡的な現象であろうが、人事交流によって、従来の派閥系列は確かに崩れた。しかし、東西四社をゴチャまぜにし、若手抜てきで上下にカキまわした結果、社内は全く混沌として、小派閥の分立、乱立で、いまだに過去の派閥の化けものが、うごめいている状態だ。

その実例として、大阪の社会部長は、本田、浅井、斎藤栄一とつづき、本来ならば斎藤栄一は本田社長派に列すべきなのに、彼は何故か、本田時代は冷や飯組であった。斎藤社会部長の部下に、稲野、大森らがいた。上田時代になって、反本田の田中香苗と斎藤とは緊密化し、ようやく、斎藤は重役コースにのった。だから、斎藤の部下、稲野、大森らが東京に移って、田中主幹に登用されたのもうなずける。それなのに、大森を斬ったのは、田中ラインの右派である。混とんとして、インドネシア情勢みたいでわからない」と、嘆じたのである。

こうして、チミモウリョウが最新式ビルであるパレスサイド・ビルにうごめくという結果にもなったのであるが、上田は退陣してバトンを田中—梅島ラインに渡した。私が、かつて上田にインタビューした時、「私が去る時は、毎日の去る時だ」という意味の発言をしていた。その言葉は、前述した銀行借入金の急増とニラミ合せてみると、〝明日の毎日〟を暗示するのだろうか。

インドネシアといえば、さる四十一年二月二十四日付毎日夕刊は(シンガポール二十四日UPI)として、シンガポールできいたジャカルタ放送が、インドネシア・クーデターの主謀者ウン

トン中佐が、公判廷で反逆、殺人の容疑を否認、次のように述べたことを報じている。