亨オーナーが、アメリカで見てきて取り入れたフロント・システムなど、オーナーとしての努カと熱意は、球団関係者のよく認めるところで、しかも、かつてのように、父正力のモノ真似の
カミナリなども落とさず、「ア、それは議題として残そう」といったように、協調精神も芽生えてきたというから、まずは、巨人軍と川上野球も安泰、そして、亨オーナーも安泰と、ここばかりはメデタシメデタシというところ。亨のおちつき場所でもあろうか。
報知新聞はどうなっているであろうか。事態の悪化に驚いた正力が、前述したように、選挙出馬を断念すると同時に、亨社長を外して、後事を務台に委ねざるを得なかったのであるが、務台は〝血族結婚〟を避けて、はじめて岡本武雄(元サンケイ常務)という〝新しい血〟を、正力コンツェルンの中に導入した。その報知の現況はどうか。
昭和四十四年十一月二十日、あの尖鋭だった報知印刷労組が、ついに分裂して第二組合がスタートしたのである。報知新聞労組と報知印刷労組とは、その創設以来、常に共闘を組み、「新聞を止めるゾ」という威かくを背景にして、経営陣をおびやかしつづけてきたのであったが、務台のりだしのカンフル以来一年足らずにして、共闘ははじめて崩れ、新聞労組は年末のボーナス闘争、印刷労組は配転拒否闘争と、足並みが乱れてきた。
もう一月ほど前のこと。報知関係者のもとに、一通のタイプ文書が郵送されてきた。報知印刷労組、元執行委員長、近藤仁という署名で、「皆さんに訴えます」と題したそのプリントは、「私は共産党員でした」という書き出しにはじまる。
「昭和四十四年九月二十一日、報知印刷労組第八回定期大会で、私を会場から『出て行け!』という決議がなされ、彼らは暴力をもって、私をムリヤリに会場から出そうとして、会場入口のトビラに私をはさみつけ、右半身に四週間の怪我を受けました。……私が入社したのは昭和三十五年五月、当時は組合のクの字も知らないズブのシロウトでした。……その後、彼と交際しているうち、同君から共産党に入党をすすめられました。ずいぶん、ちゅうちょしましたけれど、当時の私としては、人生を正しく生きるためには、共産党に入党し、活発な党活動をする以外にないと信じ、正式に入党したわけです。
……例えば、一七二日におよんだ春闘を、われわれ組合員は、一人々々が全力をあげて闘いました。その結果、われわれが得たものはなんであったか、いまさら、私が説明するまでもないと思います。
また春闘中、ほとんど日常的といってよいほどに慢性化したストライキ。果して、会社がどれほどの打撃を受けたというのでしょうか。むしろ、ストライキをあのように安易に、しかも無原則的に打ってきたために、一人一人の組合員が、どのような影響をうけてきたか。労働組合員として、最も基本的な問題に目を閉じているとしか思われない指導部の根源には、見すごすわけにはいかない決定的な誤まりが、かくされているといわざるを得ないのであります。
さらにこの春闘中、組合運動の名において終始行なわれた激しい個人攻撃。このまま、党の指
導に従って、組合運動をつづけてゆくならば、組合はどういうことになっていくのか。組合員の生活が真に守られるのかどうか。私は長い間、真剣に考え悩みぬいてまいりましたが、どうしても党の指導を肯定することができず、私はついに離党を決意したのです……